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どこまで裏づけをとるか

el156の回答

  • el156
  • ベストアンサー率52% (116/220)
回答No.9

引用されている質問で「根拠の根拠」の回答をした者です。 私は絶対に正しい事実というものを信じません。何かを信じなければ先へ進めませんから、それらしいと思うことは信じます。しかしだからといってそれを決して疑わないと予め決めるということはありません。疑う必要が生じた時に素直に疑えば良いのではないかと思います。何処までをどれだけ信じるかは各人の個性(信仰の自由?)として尊重されるべきものだと思います。 絶対に正しい筋道というのは、それがあるとすれば自明であるか機械的なものであって、情報を整理する為に多少の約に立つ道具の域を超えることは無いと思います。又、公理を前提にして推論する場合、少なくともそれが自問自答で無い場合には、私の公理と貴方の公理が本当に同じか、という疑いも残ると思います。暗黙の前提も推論に影響しているかもしれません。例えば機械に現実の問題を推論させようとした場合、どれだけの前提条件を如何に「選んで」機械に教えなくてはならないか、ということを考えると、その前提条件を選ぶ行為こそが推論の本質なのではないかという気さえします。人が親切にその問題に必要な情報を選んで教えてあげない限り、機械はフレーム問題に行き詰まって一歩も進めません。 何れにしても、少なくとも真実だと言われていることは、真実である可能性が非常に高いということはあったとしても、100%ということは無いだろうと思います。 情報AとBの話題に戻りますと、例えばこの場で回答されているようなものは典型的な情報Bだと思います。恐らく30年前の常識なら、このような情報が役に立つとは信じられなかっただろうと思います。私なら、情報源も責任の所在もしっかりしていて大手の出版社から出版されている不便な百科事典(死語?)よりも、Wikipediaを選びます。信憑性は自分で臨機応変に判断すれば十分だからです。 最後に、質問文の引用にある回答の「Bの数が膨大になってくれば」という部分で、言葉が足りなかった為に誤解を受ける可能性があると思いましたので少し補足させていただきます。Bの数が多くても、それが互いに関連性を持っている場合は、その数には何の意味も無くなります。Bが数の力を発揮するには、その出所が独立したものでなくてはなりません。これは現実には結構重要な制限になっていて、出所が独立でない為に数がいくら多くてもBが力を持たない場合というのも多いと思います。

MOG777
質問者

補足

回答ありがとうございます。 素朴な疑問から始めたのですが、フレーム問題に行き着きましたか・・・少し感動しました。 と同時に私が求めていたのはメタな作法=無知の知ではないかという気がしてきましたが 仕切りなおしが必要ですね。ひとまず締めます。 皆様、そのときはよろしく。

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