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ブロック制は哲学カテには ふさわしくない。

MOG777の回答

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.15

>開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神に反する。 >対話の相手に例外をつくることは 哲学する人の思いにも心にもなじまない。 「強きが弱きにあわせる」「脆弱な部分に兵力を回す」という原則があります。 傷つきやすく、扇動に乗りやすい者にも開かれる場であるならば、そういう者も守らなければなりません。 そうならない者はブロック機能を使わなければいいだけです。 やたらとブロックする者は情報を得る可能性を低めているだけなので、本人が損なだけです。 Gooさんは長年やっているだけに、理にかなった設計になっていると思いますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 えもーぢーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そのことによって ご回答が存在するということを決してなみする必要もなければ理由もありませんが 今回おっしゃっていることは ちょうど直前までやり取りされており今もつづいているところの はこぶるさんとの《議論》(つまり 規約上の《情報交換》のことですが)で 次のような経過をたどって来ています。  そこでのわたしの応答が 今回のご回答に対するお応えになると考えます。  主旨だけを抜き書きして その経過をたどります。  ◆(回答No.14=はこぶるさん) ~~~   >〔* かつてまだブロックという制度が出来ていなかった頃 わたしくし=ぶらじゅろんぬは いわゆるアラシをおこなって来る回答者に対して〕《同じ説明の繰り返しになるから もうそれがつづくようなら 今度から答えない》と言って 放っておいた。   その後 ブロックという便利な手段が出来たので 安易にもそれを利用しました。  :  未だに便利であると感じている人は多いと思いますが、・・・(中略)・・・  問題は、《同じ説明の繰り返しになるから もうそれがつづくようなら 今度から答えない》  という理屈よりも、それが非常なストレスになる、ということではないでしょうか。  ブラジュさんの主張は、それを甘んじて受けよ、または、その程度のことが我慢できないならコミュニケーションという行為自体を諦めろ、と言っているに等しい。  それを本当に是とするというお立場ですか?  ~~~~~~~~~~    ☆ これに対してまづ お礼欄では ふたつのことを述べました。   ひとつは ブロックという制度じたいについて うんぬんするものではなく 対話にかんしてすべてその当事者の自由にもとづくというのは 大前提であるということ。それを確認しました。  もうひとつには では ブロックすることによって 嫌な気持ちになるその不快感が世間に出回らなくなるかと言えば それは 分からない。たぶんそうはならず 世の中は 以前と変わらぬ状態にあるだろう。でも それによって ならブロックをするなとか やはりブロックしないほうがよいだろうとか これは決められない。つまり わたしには その結論が分からない。  このように お礼欄にてお答えしました。  つまり 分からないのであるから もともとの大前提としての《ブロック制度の利用は自由である》が活きるとお伝えしました。  その後 考えとしていくらかおぎなうところを持ちました。それが 補足欄に次のように書き込んだものです。  ☆☆(No.14補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~  相手に次のように言って それにどう対応するかを見て ブロックするならする。という考えです。  ○ (こちらがブロックしようとする相手に持ちかけることば) ~~~~~~~   ここまで来て 互いに見解の相違があると分かりました。広い意味での《見解の相違》です。   しかも この相違については 互いに共通の理解が得られたと考えます。      そうなると あとは 短時日では見解を見直すということもむつかしいでしょうから これ以上やり取りをつづけても 押し問答になるだけだと考えます。     * 中には 水掛け論にしか過ぎない場合も多々あるのですが      広い意味での《見解の相違》ですし 《押し問答》とします。       さらに中には 水掛け論にすらならないアラシもあるので         すが そこは このとき触れないこととします。   よって このあとのあなたの応答を見て このいまの見方が変わらなければ そのときから こちらはブロックすることとします。    なおブロックの解除につきましては 特にあなたの動向を見守っていくわけには行きませんので すべて成り行きに従うこととします。  以上 あしからずご了承いただければさいわいです。  ここまでのご投稿をありがとうございました。   ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ どうでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりこのような手続きを経て ブロックするのは どうか? というものです。  まだ はこぶるさんからそれに対する返答はもらっていません。  えもーぢーさんは いかがお考えになりますか?  ★ 「強きが弱きにあわせる」「脆弱な部分に兵力を回す」という原則があります。  ☆ 一般的にそのようだと考えますが 細かく見ておく必要もあるかと考えます。    というのも ここでの広い意味でのアラシ投稿にかんしては そのアラシ屋さんは 自分のほうが強いと思っているだけという事情があるからです。  つまり ほんとうは そのアラシ屋さんは 世間において どこか弱いところを持ち おそらくその腹いせに ここで自分を強く見せようとしている。そういうときにどうするか?  もし  ★ 「強きが弱きにあわせる」「脆弱な部分に兵力を回す」という原則があります。  ☆ ということなら こちらは多少ともその弱きアラシ屋さんよりも余裕があるのなら そのアラシ投稿の《自由》にさえ話を合わせてやるのが 武士というものです。ちがいますか?  腹いせでも何でも まづはこちらの余裕のゆるす限りまた度量の持ちこたえる範囲で 受け留めてやった上で 話は始まるかも知れないし もうブロックしてしまうかも分からない。――というふうに その原則から行けば なるのではありませんか?  つまり ほかのカテゴリでは こんなことはまづ関係ありません。その質問の中身に即して ああだこうだと答えてやればおしまいです。けれども哲学カテというのは 孤独な人間に対して まづはその弱き部分を受け留めつつんでやるくらいのことは 最小限のエチケットであるかも分からないぢゃありませんか。  そういう問題はないのですか? わざわざ Osiete と Kotaeru との Wave をつくるというのなら 哲学カテは そのような愛知の部分をないがしろにするものではない。端からその精神に違反することは かえってそのほうが 精神衛生上よろしくない。不快感やら世の中の閉塞感やらが増すというものです。  考え過ぎでしょうか?

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