• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ひとは カミの似像である。(つづき))

人間は神の似像である

tumaritou1の回答

回答No.2

お久しぶりです、相変わらず頑張っておられるようで、喜ばしいと思います。 早速回答いたしますが、人間の命そのものの働きを『神』と形容している気が致します。或は仏性です。その根拠は『生まれた人間には全てが備わっている事です。』或は生まれる前から全てが備わっていると言う言い方の方が正解とい思います。 人間と言わず、動物といわず、植物でさえ『備わっている働きです。』植物ならば『実』を結び始めた時には『全ての遺伝子が備わっている』事実が在ります。その形や匂いや咲き時期でも全て知っていて生まれる事です。 動物でも昆虫でも全て『命あるものは』その命として芽生える瞬間に『全てを持ち合わせている事です。』その全てが『細胞分裂によって』確固たるものになってゆく働きそのものです。 厳密に言うならば『如何表現するのか、その術を知りませんが』人間に例えて話をするなら『簡単です。』 次の動画が全てを物語っていると思います。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM 仏教もキリスト教も、結果的には同じ事を結論付けています。仏教においては『自分自身の持っている仏性との出会いです。』 キリスト教においては『自身に内在する、識られざる神と和解する。』です。 科学的な言い方をするなら『左脳に存在する意識と右脳に存在する、命そのものを司っている意識(仏性や神)と出会うという意味です。『意識の根底での経験です。』 この経験以後『心の矛盾が解消される』と言う経験です。 心同士が争う事がなくなる世界です。『いつも自分の心が静寂に包まれている世界です。』この心境を、動画の中で博士が『涅槃』と形容しています。 命そのものの働きは『永遠そのもので出来ています。』その戦いは、有限と無限(永遠)のしのぎ相です。その戦いに有限である自我意識が『敗れる事によって』永遠に支配される事を意味します。 人間の苦しみは『心の中の矛盾』を感じ取って、心が内部抗争を繰り返す事によって、疲れ果てる事を意味するのかも知れません。この戦いに『自我意識が敗れ果てた時』突如として『神や仏が現前します。』 死の淵にいる人が『安らかな心持になって、脳内ホルモンが多量に出て、笑顔を見せながらお向かいの使者に従う場合』などは良い例と思います。 その心持を『行きながら体験する事を』悟ると表現していますが、二つの脳に『ホットラインが構築された事を意味します』 右脳には人間の未来の記憶までも、記憶されているようです。

bragelonne
質問者

お礼

 つまりとうさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ジル・ボルト・テイラーさんの体験談は なかなかあざやかな《いのち》の世界を伝えているようです。右脳の世界でしょうか。あるいは 左脳との協調のような状態をも言おうとしていましょうか。  ★ ~~~~~~~~~~  ( a ) 人間の命そのものの働きを『神』と形容している気が致します。或は仏性です。  ( b ) その根拠は『生まれた人間には全てが備わっている事です。』 或は生まれる前から全てが備わっていると言う言い方の方が正解とい思います。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 仏性がやどるに対応するのは 聖霊がやどる でしょうか 精確には。これが 自然本性にそなわっているのだと。  脳卒中の体験の中で 右脳によるその穏やかな世界 うつくしいエネルギーに満ちた世界が体験できたのだとも言うことのようです。  ★( c ) 心同士が争う事がなくなる世界です。『いつも自分の心が静寂に包まれている世界です。』この心境を、動画の中で博士が『涅槃』と形容しています。  ☆ ここで ではなぜ  ★ 心同士が争う事がなくなる  ☆ と言うのか? つまり  ○ ( a )( b )の仮説にもとづき 二つの心すなわち右脳と左脳とがともにチカラを合わせる状態が もともと自然本性としてそなわっている。  というふうに 初めの肯定的な命題を出すかたちでなぜ 言わないのか?  ○ ひとは カミの似像である。  は そういう捉え方であり 打ち出し方です。  そのあたりに違いがありましょうか? ないでしょうか?  右脳・左脳については 勉強していませんので このようつべの講演内容をそのまま受け容れました。  * あとは 右脳を活かす精神活動は平和・静寂・しかもエネルギーに満ちたしあわせな状態だそうですが ここで《ひとは カミの似像である》というときには なるべく価値自由な認識として 存在論が打ち出せればよいとは思います。そういったところでしょうか。

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     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第八章 シントウの神学と世界観  § 8-a オホモノヌシのカミは 《物自体 Ding an sich 》か  あるいは ヒトコトヌシのカミは 《宇宙霊魂 Psyche tou Cosmou 》または《世界霊魂 Anima Mundi 》か? それとも 《世界精神 Weltgeist 》か?  ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~  モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)  コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)   ↓        ↓            ↓  自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 宇宙の法則は創造されたものなのか

      神=創造主と考える人は多いようです。 しかし果たして宇宙の法則、つまり世界の全てを支配する法則は創造し得るものかと考えてみました。 宇宙の法則は創造されたものではなく、また創造し得るものでもないと考えますが皆さんはどう考えますか。 やはり創造主がいて、この創造主によってあるとき突然宇宙の法則は誕生したと考えるのでしょうか。