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ブッダ以外で悟りを開いた人はいますか?

岩尾 俊志(@arakan)の回答

回答No.7

 ブッダと言うのは、目覚めた人と言う意味ですので  その意味では、そういう人は、  釈迦没後2500年間で  東洋にも西洋にもごろごろ出現しています。  ここ二百年ぐらいの日本にもごろごろいます。  釈迦在世当時もごろごろいたでしょう。    ところが、ブッダを「釈迦」本人だととらえると  ことはそう簡単ではありません。  なぜなら、釈迦は単なる宗教的(直観的)  覚醒者であるというだけでなく  凡夫が陥る「理性」ゆえの迷いについて  どこまでもその原因を分析し  解明していくと言う「思弁的哲学者」でも  あるからです。  そのふたつを兼ね備えた存在と言うと?  そう簡単には見当たりません。  たとえば、ラーマクリシュナは  宗教的直観のみが突出しているような印象を受けますし  その弟子のビベーカーナンダなどは  かなり哲学的思弁性を持ってはいますが  やや純情可憐で、スケールと言う意味で  釈迦には届かないような気がします。  例として挙げられた  ナーガルジュナなどは、やや学者に傾いているような  気がします。    したがって、  釈迦が説いた「誰しもブッダになれる」という教えは、  (最初に述べたように  ブッダ的存在はごろごろいるわけですから)  間違っているわけではありません。    ところが、釈迦的存在は釈迦没後2500年は  あまり見当たらりませんから  質問者さんが言われるように  第二のブッダ(釈迦本人的存在)はいないとも  言えます。  釈迦自身はこの両方の事情を見ぬいていて  自分のような存在は2500年ぐらいして  再来する → その間は再来しない  と言ったようです。              

lugal
質問者

お礼

なるほど、いろいろ勉強になります。 強引かもしれませんが一言でまとめますと、ブッダはほかの人には真似できないほどの天才だった、ということでよろしいでしょうか。 仏教は素人の私にはなかなか概念を捉えるのが複雑で(ただの勉強不足ですが)、そもそもブッダ自身は哲学者なのか?宗教の開祖なのか?、仏教における神様とは一体誰を指すのか?、仏教徒においてブッダは神様なのか? そういう位置づけがなかなか複雑に感じます。

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