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弥生時代、日本列島に稲作を伝えた人びと。
st_augustinusの回答
- st_augustinus
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質問1. 住み慣れた土地を捨てたというよりも、サテライトをいくつも持っていたと考えたほうが妥当だと思います。特に南部では計画的な農業という手段をとっていないようでしたので、純粋な稲作農家というよりも、稲作もやりつつ海を渡って貿易をしていたという民族が南方の人々だと聞いています。 刺青の文化も縄文人にはあって、それは当時の中国南部の風習と同様でした。そのころに水稲の文化も伝わっていると思いますよ。 縄文時代に、すでに稲作の文化が来ていたことは、どこかで発掘されていた気が・・・ 質問2. 知りません。
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ご回答ありがとうございます。 なるほど、サテライトですか。 これは、思いつきませんでした。 >特に南部では計画的な農業という手段をとっていないようでしたので、純粋な稲作農家というよりも、稲作もやりつつ海を渡って貿易をしていたという民族が南方の人々だと聞いています。 そうなんですか? 私の認識とは異なりますので、勉強します。 ほんの数冊読んだだけのことですが、日本における水田耕作は、少しずつ発展してきたようなものではなく、稲作がはじめから完成されたかたちで導入された、と思っています。 例えば板付遺跡です。 この前提で考えると、水田稲作を海の向こうではじめようとすれば、数家族では開拓できないので、ある程度のまとまった人数で、プランニングを立てて日本列島を目指したのではないか、と想像していました。