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弥生時代、日本列島に稲作を伝えた人びと。
yajiuma-38の回答
- yajiuma-38
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直接の答えは持ち合わせていないのですが。 『農耕民』・『漁民』と定義づけて考えるのは、社会的分業が高度に進んだ現代を基準にしているからで、海岸や河川沿いに住んでいた連中は、操船に熟練しながら米作りもしていたなんてケースはいくらでもあったと思いますが。 台湾から南西諸島沿いを上がってくればそれほどリスかはないような気がするですがねえ。旅立った動機は何でしょう?「扶桑伝説」でも真に受けちゃったんでしょうか? 「縄文人は新大陸に達していたかもしれない。」という奇矯な事を言っている人がいるらしいですが、これは誇大妄想としても、その時代の航海技術は現代人が思うほどには低くないと言うことは有るようですね。 これは司馬遼太郎がどこかで書いていたのですが、大正時代の頃、九州の島原の漁民が、手漕ぎの木造の漁船に一人で乗り込み朝鮮半島に渡る事があったそうです。どうも若者の通過儀礼のような意味があったようですが。
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