自己認識の重要性とその限界

このQ&Aのポイント
  • 自己認識とは、自分自身を知ることであり、心の中で起きているごく限られた認識です。
  • 自己認識は社会的要因によって決定されることはないものの、自分の社会環境にいる平均的な人がその人自身について知っていることによって見積もられます。
  • 自己認識は理論よりも個々の事実の知識が重要であり、理論は個々の事実を正当に扱うことができないとされています。また、多くのデータからの統計的な平均化は個人の特徴を相殺し合ってしまい、最終的な結果には表れないとされています。
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「汝自身を知れ!」はソクラテスの有名な難題である0しかし・鮒柑分自身を本当に知る ことができるのだろうか。 ◎ほとんどの人々は・「自己認乱を,自分たちが意識している自己についての知識と銅する。 人々は自己認識を・大部分は自分から隠されている実際の心理学上の事実によってではな<,自 分の社会環境にいる平均的な人がその人自身について知っていることによって見積もる。この点 において心は身体と似た働きをしているが・その身体についても同様に,平均的な人はほとんど 何も知らない0つまり・我々は身体の中で・身体と共に生きてはいるが,身体の様々な器官の構 造については概して無知である0我々は・解剖学を教わる必要があるのとちょうど同じように, 心の中身についてもよく知らなければならない。 0それゆえ・普通「自己認乱と呼ばれるものは・心の中で起きていることのごく限られた認 識であり・それは社会的要因によって決定されるとは言わないまでも・依存している。したがって, 何であれ特殊な受け入れがたい行動のこととなると・我々は「自分の」家族,「自分の」親風「自 分の」友人はそれに関わっていないという先入観を持つ傾向がある0同様に我々は自分の長所や 信条についての錯覚に基づく思い込みを招いており・これらは単に我々のより真実の本性を覆い隠す手助けをしているにすぎない。○無意識の世界では・意識上の批判や制御の影響を受けないため,我々は無防備であケよい 影響だけでなく悪い影響も含む鮎ゆる種類の影響を受けやすい0他の危険と同様に,何が自分 を攻撃しているのかを知っているときに限り・我々は精神的な悪影響の危険から身を守ることが できる。 ◎自己認識は個々の事実を知るようになるということなので・理論はほとんど役に立たない。 なぜなら・理論が普遍的な妥当性を主張すればするほど・個々の事実を正当に扱うことができな くなるからである0どんな実験的理論であれデータに基づいているので,それは必ず統計的であ ることを意味する。つまりその理論は・天秤の両端にあるすべての例外を排除する1つの理想的 な平均を公式化する。それらの例外は・同じように事実に基づいているが,お互いを相殺し合う ので最終的な結果のどこにも現れない。例えば・もしも私が敷き詰めた小石の中のそれぞれの石 の重さを測定して・145グラムという平均重量を得たとしても,これは個々の小石の性質につい てはほとんど何も私に語らない。同様に・人間心理においても・大量のデータは個人については 可も我々に語ってくれないのである 教えてほしいところ 1この点 において心は身体と似た働きをしているがとあるんですが、どういう点で同じ働きをしているんですか?? 2お互いを相殺し合う ので最終的な結果のどこにも現れない、何故 お互いが相殺しあうんでしょうか??

  • luut
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質問者が選んだベストアンサー

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  • hakobulu
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回答No.3

1この点において心は身体と似た働きをしているがとあるんですが、どういう点で同じ働きをしているんですか?? : 直前の 「人々は自己認識を・大部分は自分から隠されている実際の心理学上の事実によってではな<,自分の社会環境にいる平均的な人がその人自身について知っていることによって見積もる」という記述に着目すると良いでしょう。 「大部分は自分から隠されている実際の心理学上の事実」とは端的に言うと「無意識」のこと。 幼い頃からの生育暦(特に親との関係性)などによって受ける心理的影響は無意識に記憶され、それが本人も知らないうちに、その人の性格に大きな影響を及ぼします。 本来の自己とは、この無意識に隠されているのが大部分なので、本当の意味で自己を認識することは非常に難しい。 だが、実際には周囲の人たちからの評価を基準にして自己認識が行われる場合が多い。 心の働き(思考)によって自分を知っている、つまり自己認識しているつもりになっているが、実は、本当の自分を知っていることにはならない。 これが、この文の意味です。 「この点において」の『この点』とは、「(心が)表面的な目に見える部分ではなく、目に見えない内面に存在するものによって機能しているという事実」のこと。 この点において心も、身体が目に見える体形ではなく内面にある様々な器官によって機能しているのと同じである。 ということなのでしょう。 2お互いを相殺し合うので最終的な結果のどこにも現れない、何故 お互いが相殺しあうんですか?? : データの平均をとってもひとりひとりの個人にはなんら有用なデータとはならない、ということ。 相殺し合うとは打ち消し合うということです。 小鳥と象を天秤の両端にそれぞれ乗せて測れば平均値は出ますが、小鳥、象、それぞれの特徴はその平均値から伺うことはできません。 犯罪者の自己認識と聖人の自己認識のデータの統計をとっても、犯罪者の特質、聖人の特質は得られない。 後にある、データは単なる統計にすぎないのであって、ひとりの個人、人間とは何ぞやという点に関しては何も示してはくれないのである、という内容につながっていきます。      

その他の回答 (2)

  • thegenus
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回答No.2

★たとえば、自分の書いた文章であれば、自分、それが出典・出処です。出典明記とはそういう事です。誤解や疑念を防止する配慮が出典明記です。権利義務とかルールではなく、円滑で健全な質疑応答に直接つながるのです。 いい加減な遊び回答者にとっては出典も回答の正確さも何もかもどうでもいいのです。回答者の質を高めた方が質問者の利益です。出典明記で互いの手間が減ります。 出典を問われる方がふつうなのです。 http://okwave.jp/qa/q7219599.html ★「教えてほしいところ」についてお答えします。 【1】一つ前の文の意味がはっきりしないので難しいです。ほとんどの自己認識は、事故の中で完結するのではなく、外部の作用を受けた結果の認識なのだ。認識や知覚は、外部に対する相対的な情報を感じ取っているに他ならない。心や体そのものについての認識は、改めてそれ自体の性質について学ばなければ得がたい情報なのだ。自己認識は心理学などを学んだ上で考えないと所詮感覚的になってしまう。外部と関係を絶っていない点が身体と同じなのです。 【2】端的に言えば、平均値を出すからですね。{(平均+1)+平均+(平均-1)}÷3=平均、です。+1と-1が相殺されています。 以上です。 課題文に書かれている内容の通り、まさに自己認識の怠慢者が、自分を知ろうとする時、平均値という外部の総合認識を信仰していると思いますね。 心理学カテや哲学カテの方が回答者がつくのではないですかね。この清書されていない課題文は国語カテにあいませんよ。 >「単に我々のより真実の本性を覆い隠す手助けをしているにすぎない。」 にならないスタイルにしないとね。ご再考下さい。 「ビッグ=キク」もKOの入試問題の英語なのですかね。

luut
質問者

補足

あれは早稲田の政治経済です。

noname#160411
noname#160411
回答No.1

ご協力したいのはやまやまなれど、如何せん、意味不明の語が多すぎる。 いや、意味不明といっても難解な語というわけではない。OCRソフトによる誤認識と思われる。 「。」は「0」になっているし、「鮒柑分」「認乱」「銅する」「親風」「あケよい」「鮎ゆる」「可も」など。 また、改行。一度他人のコンピュータ画面で見てみることをお勧めする。読みにくいこと甚だしい。 せめて一度質問の文面を読み直し、体裁を整える手間を掛けては如何かと存じる。

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