嵯峨野の四季と名もなき美女

このQ&Aのポイント
  • 嵯峨野に桜の頃は一度に訪れ、他の季節は秋に行くことが多かった。でも、その中で疑問が湧いた。
  • 佐々木春子という名前は聞いたことがあるだろうか。何か華やかさといたましさを感じさせる名前だけど、はっきりと思い出せない。
  • 質問は2つ。1つ目は「一度に」という表現が正しいのか、2つ目は「定かには思いださないが」の使い方が間違っているのだろうか。
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本を読んでいて疑問を感じたので質問しました。

さる文章を読んでいて疑問に感じたので質問しました。とりあえず、その文章を引用します。「嵯峨野に来たのは桜の頃が一度に、あとはいつも秋であった。」この文中に「一度に」とありますが、「一度目に」の誤りでしょうか? もう一つ質問です。これも、文章を読んでいて疑問に感じました。その文を引用します。「佐々木春子という名を人はおぼえていはすまいか。どこかできいた名だとおもうであろう。定かには思いださないが何か華やかさといたましさの入りまじったもの、閉じたあとの劇場前のどよめきといった印象をうけるに違いない。」 この文中に「定かには思いださないが」とありますが、これ「定かには思いだせないが」の間違えでしょうか? 説明が下手で大変申し訳ありませんが、回答して頂ければ嬉しいです。

noname#147534
noname#147534

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  • cxe28284
  • ベストアンサー率21% (932/4337)
回答No.7

桜の頃が一度にの助詞「に」は桜の頃と云う時点を示す「に」だと思います。 桜の頃に一度来た。後はいつも秋であった。と言う意味では間違っていないと思います。 これは偶然そうなったと云うニュアンスです。 初めてきたのは桜の頃と云う意味の強調では一度目も間違っていないと思います。 一度目は桜の頃だったがあとはいつも秋であった。という意味で微妙に違いますね。 定かに)はっきりと。 佐々木春子と云う名を人は覚えてはいないだろうか。どこかで聞いた名だと思うであろう はっきりとは思いださないが、~~ 元々がそれほど努力したりインパクトがあって覚えた名前ではない。 覚えているとしたら何となくと言う程度だから、思いださないと云っているのだと思います。 それほど思い出さなければならない必然性がないからという語感ではないでしょうか。

その他の回答 (7)

  • garamond
  • ベストアンサー率53% (1119/2111)
回答No.8

>「嵯峨野に来たのは桜の頃が一度に、あとはいつも秋であった。」この文中に「一度に」とありますが、「一度目に」の誤りでしょうか? 間違いではありません。 「一度目に」とすると誤りになります。 “一度だけ桜の頃に来たことがあるが、それ以外は秋ばかりであった。” という意味です。 回数が一回ということであり、順番が最初ということではありません。 >「定かには思いださないが」とありますが、これ「定かには思いだせないが」の間違えでしょうか? 「定かには思いだせないが」の間違いではないと思います。

noname#147534
質問者

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回答ありがとうございます。

  • izumi044
  • ベストアンサー率36% (1255/3431)
回答No.6

すみません、訂正できないのでこちらに書かせていただきます。 石のたたきにある「石の下に、コンクリート……」は「窓の下」でした。

noname#147534
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • izumi044
  • ベストアンサー率36% (1255/3431)
回答No.5

おはようございます。 以前の回答が締め切られていますので、こちらに回答させてください。 今の表現と比べると違和感のある言葉がたくさん出てくる、少し年代の古い本を読まれているのだと思います。 「阿呆どの」 「飛んで火にいる夏の虫」ということわざは、自ら進んでが災いに飛び込むことを意味していますね。 文面の前後がわからないのですが、おそらく考えすぎて自らおろかな行動を取ってしまう殿方たちを表現したのではないでしょうか。 だから「阿呆どの(殿)」 ※敬称である「殿」を用いることで、ただの「阿呆」よりもさらに「愚か」だと強調しているように感じました。 「石のたたき」 書かれた年代がわからないので、こちらは間違っているかもしれません、と先にお断りしておきます。 コンクリートが出来る前に、使われていた左官の技術に「たたき」があります。 たたきの技術を利用して、橋なども造られてしたようですし、家庭においては井戸などの水周りにも使われるなど、その用途は幅広かったようです。 石の下に、コンクリートのようなものが敷かれていたと思っていいのではないでしょうか。 昔の表現ですから、今と違う言葉に戸惑われることも多いと思います。 けれど、簡単に「間違っている」と思わずに、昔の方はこんな表現をされていたのかと思った方が、楽しく読書が出来ると思いますよ。 すでに締め切られた質問にお答えする形になってしまい、申し訳ありません。

noname#147534
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.4

これはこういう意味なんだろう というのは、質問者さまだってわかっていらっしゃると 思います ただちょと気になる表現、変な書き方ですよね 長い文章の中には、こういう事ってけっこうあるもんですよ それと、誤植でおかしくなることもあります 校正で気がつかなかった (作家や編集者など何人もの人が目を通して 誰も気がつかなかったとか) よほど文章にこだわる小説家でないかぎり こういう気になる書き方ってあるものです 作品名と作家の名前がはいっていると ああ、この作家はこういう書き方をする人なんですよ なんて、回答がでてくるかもしれません

回答No.3

(1)「嵯峨野に来たのは桜の頃に一回だけで、あとは毎回秋であった。」ということです。  (春に来たのは一回だけで、それ以外に来た時はすべて秋であった。)    まちがえではありません。 (2)「定かには思い出さない」=「はっきりとは思い出さない」ということで    まちがいではありません。思い出せない=思い出そうと努力したができなかった。  思い出さない=記憶にうすい(思い出そうという努力はそれほどしていない)

noname#147534
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.2

1. 嵯峨野には何回も来た。しかし春来たのは一回だけで、あと来た時期は秋ばかりだった、と言うことではないでしょうか。 2。  思い出さない  は サ行5段の動詞です。= 「思い出す」の未然形       思い出せない は サ行下1段の動詞で、「可能」の形です。= 「思い出せる」の未然形、すなわち「思い出すことが出来ない」という意味でしょう。     ですからどちらも正しく、意味が違うと思います。

noname#147534
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • pasocom
  • ベストアンサー率41% (3584/8637)
回答No.1

質問1) 「一度目」では順序を表しますが、この場合「春に来たのが一度目=最初で二度目以降は秋だった。」というのではなく、「春に来たのは一度だけで後はすべて秋に来た。」と言っているのですから、「一度で」で正しいのです。 質問2) 「思い出せない」は「しようとしても(=思い出そうとしても)不可能である。」ということですが、ここでは、「佐々木春子という名を聞いた人」はわざわざ「思い出そうと努力しても思い出せない。」というニュアンスではなく、「はっきりと思い出す(自然に)、ということはない」という程度の意味で「思い出さない」といっているのでしょう。

noname#147534
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

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