• ベストアンサー

なぜ日本では一神教はなじまないのか

近くて昔から交流の多かった韓国では キリスト教は少なくないのに、 日本ではなぜキリスト教などの一神教が広まらないのでしょうか? 宗教にはくわしくありません。 よろしくお願いします!

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.15

1,キリスト教はいわば砂漠から産まれた宗教です。   つまり自然や生命現象が少ない地域の宗教です。   それに対して、日本は至る所自然に溢れ、生命が   満ちています。   こういう日本では、魂が溢れている、あちこちに魂が存在する   と感じ、自ずと多神教になりやすいのだと思われます。 2,イエズス会が来日した時などの論争記録が残っています。 (1)庶民との論争   信じれば救われる? なら既に死んでいる先祖は救われないのか。   それでは困る。 (2)坊主との論争   神と対置して悪魔というが、善悪など時と場合に   よって異なるだろう。 (3)新井白石   神が万物を創った? なら神は誰が創ったのだ?   神は自ずと存在する? なら万物も自ずと存在する   のではないか。   キリスト教は、形而下学は凄いが、形而上学は子供みたいだ。 3,こういう状況に加えて、日本には天皇がおり、秀吉家康と   キリスト教を禁圧してきた歴史があることが挙げられる   と思います。   特に、徳川幕府が制定した檀家制度がキリスト教布教の   大きな妨げになったのではないでしょうか。 4,韓国ですが、あそこの自然は日本と較べると、荒涼としています。   それに儒教という下地があります。   日本の儒教と韓国の儒教は異なります。   日本のは、ただの学問教養ですが、韓国のは血肉となっており   宗教そのものです。   儒教の「天」をキリストの神に置き換えて、すんなり   受け入れることができたのではないでしょうか。   そして、皮肉なことに、儒教では女性差別が激しく、   それを嫌った女性がキリスト教に逃げた、という沿革が    あるので、信者が増えたと言われています。

love-mj5
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 キリスト教が日本にわたってきたときの 当時の人々の意見など 細かいところまで詳しくありがとうございます! 韓国のことについても書いてくださり、 とても参考になります。 ありがとうございました!

その他の回答 (15)

  • o-sai
  • ベストアンサー率19% (199/1001)
回答No.16

もの凄くザックリ言うと、一神教は選民思想の宗教です。 「選ばれた民」が他を支配する、戦争と殺戮の教えです。 欧州の戦争の歴史や、奴隷貿易による産業革命を生み出しました。 朝鮮半島の歴史を考えれば、小国に分かれて支配を競った民族です。 (今でもやってます) そういう地域では、先兵たる宣教師の三国的介入を許してしまいがちです。 一方で日本の国家形成時には、土着の神を取り込んでいくヒンドゥー教的な合併が常でした。 今でも日本の仏教には他国の神々が入り込んでいます。 一神教は絶対の「神」しか認めませんから、平和的な合併型国家には根付き難いのです。

love-mj5
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 日本には、1つの神を絶対とする考えそのものが あわなかったということでしょうか。 日本人の感覚が他と違って特殊な部分があるのでしょうね。 ありがとうございました!

  • alwen25
  • ベストアンサー率21% (272/1253)
回答No.14

おそらく、豊臣秀吉 徳川幕府時代の禁教令のせいだと思います。 これは、今では無効なので いまでは、結構キリスト教の信者はいます。

love-mj5
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 昔の権力者がキリスト教を禁止したことが 大きな理由であるということですね。 ありがとうございました!

回答No.13

 こんにちは。  いわゆる日本教という宗教があるからでしょう。  この宗教は きわめて特殊であって そこには神道・仏教(ブディズム)――しかもいくつかの宗派に分かれている――そしてキリスト教(クリスチアニズム)および共産主義(コミュニズム)あるいは無神論(アテイスム)を擁しており 擁していながら いわば日本という社会を唯一神として祀り上げる一元論です。  一元論というのは いわゆる一神教です。  日本社会に似たところは ユダヤでしょうか。  ユダヤ教は みづからの内にいくつかの宗教を擁していませんが あたかもそのユダヤ社会を唯一神として祀り上げているかたちであるところは 似ているのではないかと思われます。

love-mj5
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 日本も日本教という一神教であるということですね。 まったく新しい意見なので とても気になりました。 くわしく調べてみたいです。 ありがとうございました!

回答No.12

>日本ではなぜキリスト教などの一神教が広まらないのでしょうか? 日本人は、おしなべて嘘を見破る能力が韓国人よりも高いからではないでしょうか。 韓国・朝鮮の人々は嘘を信じやすく、しかし嘘だったと分かった後に、延々と怨を持ち続けるようです。

love-mj5
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 宗教の思想そのものを信じなかったということでしょうか。 ちがった視点からの意見なので 参考になりました! ありがとうございました!

noname#181697
noname#181697
回答No.11

イワシの頭から天地万物に至るまで、何にでも神秘や尊さを見出す繊細な国民性と、他の宗教を決して受け入れない排他的な一神教の教えは、あんまり相性が良くないから広まらないのだと思います。

love-mj5
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 繊細な日本人に 一神教の考え方は合わないということですね。 簡潔な回答でとてもわかりやすかったです。 ありがとうございました!

回答No.10

え?クリスマスはキリスト教ですよ。 日本人のほとんどがキリストの生誕を祝っているじゃないですか。 一神教の広まっている地域は、キリスト教にしてもイスラム教に しても、大陸系のエゴの強い地域であり、その強い自我を抑え 社会性のタガにはめるための、日曜礼拝やラマダン等を含む 強力な教義を有する必要があったのに対し、日本を含む東南 アジアの稲作農耕文化圏や島国文化圏のように集団主義的な 地域においては、そんなタガにはめなくても自発的に集団行動を とるので、集団帰属意識の補助としてのマナーやモラルとしての 儀式宗教となっているのです(その証拠に多神教(=信条)というより、 結婚式は神道、クリスマスにはキリスト教、葬式は仏教といった 具合に方便で使い分けている)。

love-mj5
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 たしかにクリスマスなどのお祝いの日は 日本では広まっていますね^^ 大陸や島国などの人々の意識や環境のちがいも 関係してくるのですね。 まったく思いつかなかったので参考になります! ありがとうございました!

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.9

日本はよく将棋に喩えられますね。西洋はチェスです。 日本の農民は領主が変わっても殺される事は少なく、生き延びる事が出来ますが、西洋では村人ごと全滅させられる。 でも考え方を変えると、農民はA殿からB殿に替わった瞬間、A殿の恩を捨てB殿に忠誠を誓わねばなりませんでした。だから日本国内でも新領主に忠誠を誓わないだろうと思われる者は農民であろうと殺されたのです。 つまり日本人気質は原則的に二者択一です。そこには理由も状況もありません。 今でも理由も何も判らずに「誰かが言った」というだけで同調するのはその気質ですし、「国が言ったから」「専門家が言ったから」というだけで信用してしまうのも同じです。 実際に諸外国ではキリスト教が入ったとき、一つは原住民が全て殺されました。 スペインが来たときの南アメリカなどがそうですね。生き残る術は唯一改宗する事です。 そういう地域ではキリスト教が受け入れられたのではなく、強制的に変えさせられたのです。 ヨーロッパの多くの地域でも勢力争いは政権と同時に宗教の争いでもありました。 日本はこの点、貿易は行なっても宗教には制限をつけていました。そして宗教が専横をふるって国を脅かそうとしたとき鎖国という手段で宗教による侵略を締め出したのです。 ところが政権と同時に宗教で占領したと思われた地域では、地元の宗教を取り入れたキリスト教が生まれているのです。 欧州や南アメリカ、アフリカなどでも本来キリスト教には無い祭が開催されました。ハロウィンや闘牛などはその例です。また、クリスマスも実際は欧州の宗教に基づく風習が強く影響されていると言われています。 これは一部、地元の風習を認めることでキリスト教の定着を図ったからとも言われています。 一方日本では二者選択の気質が災いして、神道や仏教がキリスト教の中に取り入れられることが出来ませんでした。今でも「キリスト教なのに彼岸とかお盆なんてとんでもない」なんていう人が居ますね。そのくせキリスト教を起源に持たないハロウィンを教会で楽しんだりします。 日本で信者数は少なくないのに公的に広まらない大きな理由はここにあると思いますし、第二には信者にならなくても楽しんじゃっているという、いい意味でのいい加減さによるものではないでしょうかね。 元々日本人は神話をみても判るように渡来系の神様を抵抗無く受け入れてきました。日本は多民族国家であり、自然崇拝の国だったのです。 それが神武東征、日本武尊の辺りから排他的活動をはじめ、やがてモンゴロイドは九州と北海道に追いやられてしまったわけです。この辺から二者択一の気質が作られたんじゃないでしょうか。 でも基本的な気質は残っているので、いい意味でのいい加減さが残ったのかもしれません ちなみに正確に言えばキリスト教は一神教と言う区分けは不適切です。 「神」という言葉の意味は「人智の及ばない存在、超越したもの」という意味の中国の語です。つまりキリスト教の創造主だけではなく、天使や悪魔、場合によっては聖人も「神」の範疇となります。 つまり“狭義”に「神」を解釈すればキリスト教も多神教となるわけです。 だからカトリックでは「神」ではなく、「主」或いは「創造主」と言いますし、祈りの中では「神なる主」と言います(未だに書き換わっていない部分はありますが、「全能の父なる神よ」という場合は「全能の父」という言葉で神の中から主を特定している事がわかります。)

love-mj5
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 環境の違いも大きくかかわっていますね。 やはり強制的に広まった部分もあるようで… 鎖国では長い間異文化との接触がありませんでしたが 日本がムリに宗教に侵略されなくてよかったかもしれません。 キリスト教が一神教か多神教かは 見方によって変わるのですね。 ありがとうございました!

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.8

色々な意見を拝見させていただきまして、皆さんが触れていないことがひとつあるように思いました。 私どもがキリスト教を受け入れるとき最後まで抵抗するものはなんだただろうかと思わされるのです。 1)日本の文化がその妨げだっただろうか。 2)温暖な気候や土地柄がキリストを必要としなかったのだろうか。 3)日本という国土に暮らす国民がキリストに変わるほどに頼り甲斐があったからだろうか。 4)歴史の中に私どもをキリスト教に近寄らせない事件でもあったのでしょうか。 どの観点から捉えてみても、なにがしかの説明が与えられるように思いますが、ひとつだけ取り上げるとするならば日本人は極めて、あるいはずば抜けて誇りが高い国民だったのではないかという考えに至ります。武士道では状況に応じて右往左往せずに潔く死を選べと述べています。歴史の中にそのようにして自分の命を捨てた人が多くおります。なぜでしょうか。それは明らかに恥を偲んで生きるよりもむしろきっぱりと死を選ぶ事の方が自分の誇りを守ることが出来たということだと思います。 キリスト教では誇りはよろしくないもの、つまり罪とみなされます。キリストを受け入れることは自分の誇りを捨てることですので、誇り高い民族の一員である日本人には誇りをすててキリストを受け入れることが、極めて困難であったので、その結果クリスチャンが少なかったのだと論理的に結論する次第です。 「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」聖書 このような心境は日本人にはとても受け入れがたいものであるばかりか、誇りを自分の内にもたないことは恥ずべきことでもあるのです。従いまして日本では誰でも神に成り得ます。まだそれほど昔ではありませんが、軍神なる人もおりましたし、すこし楽曲に卓越していると神の腕や指をもった人になります。ことほどさように日本では人を崇めたり、自分を崇めることに罪の意識がございません。そればかりではなくむしろそのように誇りを積み重ねて着込んでしまい、ある時には実態とかけ離れた虚像が生まれてしまうのが日本の社会ではよく見られます。そうゆう構造と環境を持つ社会では誇りを捨てて、裸でイエスキリストを受けいるのは2重、3重の意味で困難なことと思います。その内でも最も困難なことは自分の誇りを捨ててイエスの足元にひれ伏すことではないでしょうか。

love-mj5
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 誇りについて… 恥ずかしながら聖書も呼んだことがなく まったく思いつかなかったので参考になりました。 日本人の考え方にあわないのですね。 丁寧な説明ありがたいです! ありがとうございました!

  • ucok
  • ベストアンサー率37% (4288/11421)
回答No.7

キリスト教禁止令が長かったにもかかわらず、キリスト教は日本でめちゃめちゃ広まっていると思います。キリスト教系の幼稚園や小中高校の数だけでも相当あるし、親たちが躍起になってそういう学校に子供を入れるようになって約4世代目になりました。キリスト教教会だって、小さなものも含めると、神社仏閣よりも頻繁に見かけるような気がします。 ただ、一神教に限らず、日本では宗教の捉え方が、やや特殊なのです。具体的には、特定な神どころか、特定な宗教に偏るのを非常に嫌う傾向があります。 これはおそらく歴史のせいでしょう。近年では、神道が太平洋戦争の道具にされたのが大きな要因だと思われますが、キリスト教禁止令を招いた土壌も蔑ろにはできません。 それを踏まえて、宣教師などの宗教家は、日本では、あまり偏った宗教観を打ち出そうとはしません。例えば、ごく一部のカルトを除けば、神道で祝い、仏教で弔い、キリスト教で学ぶ日本の習慣を寛大に受け入れていますし、入信を強要することもありません。 これは裏を返せば、日本では、複数の宗教に同時に熱心になることが許されますし、熱心になったからといって、その宗派の一員として登録する必要はないのです。 したがって、数字の上では、檀家が何人いるだとか、洗礼を受けた者が何人いるだとかいうデータがあるのかもしれませんが、実際には、家が仏教の檀家でありながら、キリスト教の洗礼を受けている人が大勢いるし、洗礼を受けていないのに、教会に熱心に通っている人や、聖書を深く勉強している人は山ほどいます。 一方で、イスラム教やユダヤ教の信者自体は、日本では他の宗教に寛大ですが、イスラム・ユダヤに入信したいとなると、何かと決まりごとが多いので、宗教における融通を好む日本人に馴染まないのでしょう。とはいえ、イスラム教徒と結婚する日本人は少なくなく、その人たちはイスラム教に改宗しています。なお、ユダヤ教徒になるには、ユダヤ人の血が流れていないといけないので、多くの日本人はなれません。 ちなみに、キリスト教国の植民地支配が長かったわけでもないのに、あれほどキリスト教信者が多い韓国も、アジアにおいては特殊です。

love-mj5
質問者

お礼

回答ありがとうございます! 丁寧な説明でとても参考になります! たしかにかなり制限されていたわりに キリスト教は広まったほうかもしれないですね。 日本人は特定の宗教に縛られるのが苦手ということでしょうか。 神道が太平洋戦争の道具にされた…ということについても すこし調べてみたいと思います^^ ありがとうございました。

noname#176957
noname#176957
回答No.6

世界でも稀な、豊かで穏やかな自然に恵まれ、 地政学的にも政策的にも恵まれていて、他民族に侵略されることも無かったからです。 明治以降の過酷な戦争の時代には、天照大神の末裔と伝えられる天皇を、現人神として一神教化しようとする流れがあったんじゃないですか?

love-mj5
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 やはり自然の豊かさは大きく関係しているのですね。 天皇を一神教としようとしたことも たしかにありえたかもしれないですね! ありがとうございました!

関連するQ&A

  • 一神教について

    一神教といえばユダヤ教、キリスト教、イスラム教しか知りません。これら3宗教は源は同じですよね。一神教はなぜ中東地域にしか生まれなかったのだろうかと思いまして。 それとも、もしかして、これら3宗教以外の伝統宗教でも一神教というのはあるのでしょうか?

  • 「一神教」及び「一神教の神」に付いてお尋ねします。一般的には「ユダヤ教

    「一神教」及び「一神教の神」に付いてお尋ねします。一般的には「ユダヤ教」・「キリスト教」・「イスラム教」は所謂「一神教」と言われている様ですが,「一神教」の正確な定義を教えて下さい。更に「一神教」と似た表現に「唯一神」・「単一神」・「拝一神」等が有るようですが,これらと「一神教」との基本的な違いも教えて下さい。次に「一神教の神」に関してお尋ねします。「ユダヤ教」の神(エホヴァ/ヤハベ/アドナイ等)「キリスト教」の神(God)及び「イスラム教」の神(アッラー)は同一の神なのでしょうか。併せて回答お願いします。以上宜しくお願いします。但し,宗教に関する質問をしますと,主観的な回答をされる方(と言うよりは寧ろ盲目的乃至「おたくっぽい」回答が多数)がいますが,是非信者以外の者でも理解しやすい客観的な回答をお願いします。

  • クウキ教たる一神教としての日本教をどうあつかうか

     たたき台です。自由に哲学としてたたいてください。  日本人にとっては ムラムラにおける自然との共生を生きる古くからの―- 一人ひとりにとっての――信仰が息づいていると見ます。生活の問題です。  ただしこれを基礎として 社会形態が国の家というごとく二階建ての構造となったときには それとしての民族宗教がつくられました。あるいはつまり 民族としてのひとつにまとまった神をまつる実質的に一神教が――空気のごとく――形成されてきた。  ムラびとたちは これに くにゆづりをした。ムラムラのマツリは お二階さんたちのマツリゴトによって吸収されるかたちを採った。ムラびとたちどうしのヨコの助け合い寄金が――あるいは神々とのタテの祀りの品が―― お上なる二階とのタテの関係(国家財政)の中へ吸収されて行った。  民族宗教とは 日本教であり 実質的にクウキ教である。  クウキによるコミュニケーションを 守るべきオシヘとする。  このわれらがシュウキョウを これから どうするか?  《クウキ教》は 守り遵うべきオシへの役割りをも帯びている。  しかも言葉としては何ごとにも・何ものにも精霊を感じてのようにおよそアニミズムとしての多くの神々をも持っていますが これ(クウキ教)は いわゆる多神教のままには留まっておらず そうではなく すでに――国家が出来てからは――あくまで《日本教》として一神教を成す。  ヒンドゥー教は その名もヒンドゥー=インドであるごとく多神を擁していてもそのまま全体として一神教としてのインド教です。よその神々を受け容れても 民族宗教としてまとまり 対外的には あたかも唯一神をいただくのと同じ振る舞いにおよびます。  ユダヤ教は 明らかに対外的にも対内的にも 唯一神をオシへとして共有する生活様式を形成する民族宗教です。  あるいは アマテラシテたる王をいただくイギリス教のごとく日本教は 対外的には一神教としてまとまった民族宗教です。その中にいろんな神々をよそからも受け容れているという――対内的には――多神教であったとしてもです。  この日本教=クウキ教には 神道をベースにして 仏教の諸仏を採り入れ そしてキリスト教の姉妹編としての唯物論教(つまり 無神論教)をもじゅうぶんに有益にはたらくかのような異端分子としてやはり採り入れています。  日本教・総本山   神道   仏教支部   儒教支部(?)   キリスト教支部   マルクス教支部   無神論教支部   《お花畑》平和教支部  護憲平和教派は さすがにキリスト教の神を持ち出すことはないようですが そのベースには同じ排他的な一神教の神(《無い神》)が祀られているかのようであり じゅうぶんにほかの多神と対立しつつも大きく日本教の一環として根を張ろうとしています。  日本人は 知らず知らずのうちに 宗教(じつは 信仰)への関心を育み生活を息づかせて来ており ただしそれがお二階からクウキ教の浸透によって絡め取られるときには いわゆる排他的な一神教としての民族宗教を形成するようになります。その中に入れば 排他的ではなく馴れ馴れしくなあなあ主義的になります。  ふるくからの個人個人にとっての信仰を保つ日本人は――第十代崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトやその時の市民オホタタネコをあたかも代表とするかのごとく《イリ歴史知性》たる日本人は 応神ホムダワケや雄略オホハツセワカタケルさらにあるいは継体ヲホドの《ヨセなる超歴史知性》によって《全国制覇大作戦なる雄略》を実行されて それに対して国ゆづりをしたとしても―― そのような宗教現象をなおただウワベのこととして その優勢に対して まさにくにゆづりをした出発点を保って生きて来ています。    それらの人たちは 宗教から・オシへを垂れるあらゆる宗教から 自由です。ユヅリアヒの生活を千五百年おくって来ています。(はっきりと二階建てとなって行った継体ヲホドの頃からと見ての時間です)。  いちどゆづったのだから 口が裂けても 返せとは――大政奉還せよとは――言えないであろうか。どうでしょう?  

  • トラブルメーカーの一神教がなぜ広まる?

    一神教はトラブルメーカーだと思うんですが、キリスト教とかイスラム教とか、なぜ世界的な規模の宗教に成れたのですか?炎上商法なんでしょうか?

  • 一神教のイスラムキリスト教について

    一神教のイスラムやキリストは、この世の中には 存在する神はアラーやイエスキリストしかいないと 言い張っていますよね。 日本人は、多神教の民族で、たとえば草木や食べ物 または大地や自然現象にも神が宿っていると お祈りしたりします。 つまり、日本人の場合は、ありとあらゆる物質的なものに 対して神様が宿ると考えるメンタリティがあります。 私が一神教の人に教えてほしいのは、「食べ物」なんかには 神様が宿るとは考えないのでしょうか?

  • 多神教は もし宗教であるなら 一神教ではないか?

     1. 多神教は もし宗教であるなら 一神教ではないか?  2. 多くの神々から成りつつその多神のまとまったかたちは 全体としてひとつの神 すなわち《唯一神》なのではないか?  3. クリスチアニズムのような特にはっきりと唯一神をかかげる宗教に相い対したばあい 相手を《あなたは 一神教である。ゆえに どうだこうだ。うんぬん》というふうに述べるその視点は やはり一神教としての立ち場にもとづくものではないのか?  3-1. けっきょく 一神教 vs.一神教という図式になっているのではないか?  4. あるいはただし そのときさらに込み入った状態・情況が派生していると思われる。  4-1. すなわち 多神教の側は――というのははっきり言えば 日本人の日本教を捉えて言っているのですが その八百万の神々を擁する唯一神体制の側からは―― その神々の中に ブッダもヤハヱーもクリストスもアッラーフもあるいは 《無い神》もコミュニストの無神もぜんぶ入っている。  4-2. マジワリをつうじて入って来る神はすべて その多神制の内にひっくるめたかたちで それらが全体としてひとつなる神と成っている。  4-3. つまり 《一神教》ではないのか? その多神体制よりほかには 宗教のかたちはあり得ないとまで思っているとすれば 明らかに一神教ではないか?  5. と問うたのちに――いえ 問うと同時に―― では 宗教をめぐる寛容とは どういう姿が描かれるか? これを問います。

  • 一神教の敬虔な信者は自分の宗教を客観視できるのでしょうか?

    だいたいの日本人は、正月は神社に行き、お盆は墓参り、結婚式は神社か教会を自由にチョイス、クリスマスを楽しんで、葬式はお寺さんに頼みますよね。 こういうことが成り立ってしまうのは、八百万の神様の存在が影響していて、 平たく言えば、一神教のキリストやアッラー、ブッタも、日本で言う海の神様や山の神様、天狗、弘法大師、菅原道真、昔の天皇と同じ八百万の神の一つ、もしくは人間が作り出した象徴で、万国共通の全知全能の神がいると無意識ながら解釈しているのかなーなんて思います。 神社だろうが、お寺だろうが、教会だろうが、同じ神様なんだし♪みたいな感じで。 一神教のを信仰している人たちは、他の宗教の神様のことをどう思っているんでしょうか? やっぱり「あんなの神じゃないし」って思うのでしょうか?特に敬虔な信者の場合とか。 それぞれの宗教的にはやはり認めてはいけないという決まりがあるんでしょうか? また、一神教の敬虔な信者が日本人が自分達の神様を八百万の神様の一部として、あるいは同じように扱っていることを知ったらどんなふうに思うのでしょうか? 怒りますか?あるいはちょっとでも信仰してくれてありがとうという感じでしょうか? 宗教の知識はありませんが、なんとなく気になりました。

  • イスラム教って一神教何ですか?

    イスラム教って一神教何ですか? そもそもアッラーって神ではなく生身の人間だったのでは? イエスキリストも生きた生身の人間なのに神なの?違いますよね。イエスキリストは預言者ですよね アッラーも預言者では?アッラーは神ではないのでイスラム教は一神教ではないのでは?

  • 一神教と環境問題の関連性について

    自然環境は人類活動によって破壊されています。その原因は、無軌道な大量消費による物質循環の乱れです。 現在の世界の経済活動を動かしているのは一神教の国々です。日本は明治時代からこのかた、それに流されているにすぎません。 宗教観というものには、自分達の生活している自然環境の中で、いかに生き残っていくかということが含まれますから、宗教はその地域の自然環境と切っても切り離せないものであり、本来は地域ごとに柔軟に変化していくものです。 キリスト教やユダヤ教、イスラム教はいずれも砂漠の地で生まれた一神教の宗教です。 自然の恵みが豊かな日本は多神教と言われますが、人々の自然に対するイメージというものは母性的であり、敬っていさえすれば、「最終的には助けてくれる」というイメージです。 一方砂漠の国々は自然が貧しく、天候を操る神はその子である人類に対して、様々な難題を突きつけてきます。過剰に与えることはなく、人々はいつも不足に悩まされ、不満は解消されることはありません。そこには禁止が付きまといます。そして禁止というものは欲望を肥大させるものです。 今日のグローバル社会は、無尽蔵に自然を消費していく社会です。それは少なからず一神教の負の性質を反映したものだと感じるのですが、いかがでしょうか? 砂漠で生まれ、その厳しい環境で生きる術を示した宗教というものが、それが生まれ育った地域を飛び越えて、(これもまた一神教の性質によるものですが)、世界全体を支配しているとことに対してどう思われますか?私のように、それを現在の地球環境の破壊と結びつけて考えることは全くの見当違いでしょうか? もちろん、それだけで環境破壊が説明できるとも思いません。 また、キリスト教は歴史を重ねるにしたがって変化してきたのでしょうが、一神教というものはその性質として、始めの教えから大きく変化するものではないと思います。 どうか回答の方、よろしくお願いしますm(_ _)m

  • 一神教の成立について

    一神教はユダヤ教およびそれから派生した宗教であると、教わりましたが、自然発生的な多神教は世界各地に存在しているのに、なぜエジプト幽囚から脱出したユダヤの民だけに一神教という、いわば独特な宗教が発生したのでしょうか。宗教学という分類がないのでここに質問しました。