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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

amaguappaの回答

  • amaguappa
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回答No.7

まず定義として、類という概念は形式論理学における概念であり、類とは普遍のことです。 明証を扱うのはデカルトと、ブレンターノそしてフッサール以後の現象学です。そして現象学が追求した明証の意味とは、類がプロセスを踏んで出来上がることなのです。この構造的機能以外の何でもない(心理学・精神医学・脳科学へ赴くものなのだ、、、)ということが受け入れ難い場合、まわれ右をして神学や中世の哲学へ向かったほうが楽しめると思います。 ブラジュロンヌさんの感性ですと、現象学ではなくて、中世のいわゆる【普遍論争】に興味をひかれるでしょう。普遍は存在するかというあれです。一応詳しい内容を確かめるために哲学用語辞典をひらいてみました。そこには、発端はポルフュリオスの『アリストテレス範疇論入門』に提起されていると書いてあり、プラトン、アリストテレス、カトリック教会、三位一体、風としての声、概念実在論、へと話が延びていました。 それからまた、プラトンのイデアとアリストテレスのイデア、カントおよびヘーゲルのイデー(理念)とを学びわけることが、疑問の整理に必要だと思います。 ブラジュロンヌさんの感性はデカルトの時代に馴染んでいる思いますが、カントのイデー(理念)まで学習の駒をすすめるとよさそうです。カントにおいては、イデー(理念)は理性的推論(悟性的判断に対して)によって導き出されるものだからです。 カントは、イデー(理念)とは認識にとっての目標だといい、フッサールはそのようなイデー(理念)を「実現不可能な十全的明証」とし、数学の漸近線になぞらえます。 それから、現出の同一性とは、瞬間的時間を問題として、今しがたも今もこれからも、見えたものが時々刻々イコールで結びつくということです。このように結び付けられる働きただそれのみによって(同一化統合)、対象の知覚経験が成り立っているということです。 ブラジュロンヌさんの口から主観の共同性といった言葉が出てしまうのは、かなり視点がくいちがっているためです。まず、みんながリンゴをリンゴと分かるという話ではまったくなくて、1人の人間にとって、リンゴの物自体があるからリンゴを見る経験をするのではないという話です。今しがた黄緑の表皮に斑点のあって丸く、たった今へこんだ一方からは軸のようなヘタが突き出し、まさに今へこんだもう一方は尻の穴のような形であり、ああ「これは、、、何かな」と今しもこれから対象が結節するであろう、という話なのです。 この先には、記憶、想起、連合、類型にかかわる言語の諸問題があり、それゆえに現象学は、精神医学、認知心理学、認知科学、脳科学に吸収されている学問なのです。 「現象学の本質直観とはなにか」と検索する方々が今後いた場合にお役に立つと思い、投稿しました。 あとはひどっちさんとお楽しみください。

bragelonne
質問者

お礼

 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  このたびは ひょんなところから この質問へのご投稿を 実質的に申せば 依頼することになってしまい お手数をおかけしました。お世話になりました。    哲学カテの質疑応答という見方をしてみるならば もっとも傲慢になり心を鬼のようにして高ぶり尽くしてものを言うとすれば その哲学談義としての内容は ここのところ きわめてとぼしくなって来ております。  これは 初歩の談義をけなしたり蔑んだりしているのではなく――なぜなら 何ごとにも萌芽には それがみづみづしい新鮮なちからを宿すというだけではなく 見方としてのような内容としてなら じゅうぶん高く飛んで伸びてゆく翼のちからを持っていると見られることが少なくないからですが―― それにしても 世界の最先端を行く談義もあってしかるべきというものです。  (その意味では 学問のため ひいては日本の復興のためと――ついでにのようでしたが――申しました)。  ▲ 厳密な学  ☆ といった表現〔だけ〕をフッサールについて記憶していますが その観点から 次のように最後にですが(お答えを要請せずに) お尋ねしてみます。  ★ まず定義として、類という概念は形式論理学における概念であり、類とは普遍のことです。  ☆ 問い返しになります。  1. この命題について真であると判断なさったその根拠は どこにあって それは何なにか?  2. 《類》あるいは《普遍》という言葉ないし概念の普遍性は どこにあってそれは何か?  3. 形式論理学の 科学行為としての・そしてまた人間存在にとっての 有効性・明証性は どこにあって何であるか?  ☆ これについて 答えは《ない》。言いかえると 相対性の世界においては 有限なる証明しか出来ないのだと思われます。  斉一性の原理あるいは人間原理 これらに――経験的な真としての公理にもとづき――寄りかかってのように 科学行為はおこなわれるのだと。  現象学について 初めからこのような批判的な見方をしていたわけではありません。また それゆえにも 中身がどうもあいまいであると分かって来たときには 怒りを押さえることができませんでした。  だいたいこんなところでしょうか。  具体的な主題や論点について さらに見直してみて必要だと思ったところは 補足欄にておぎなうこととします。  図書館の本をきょう早いうちに返しに行きたいものですから ここまでをしたためます。ひどっちさんへも お応えはきょうおそくなりますが よろしくお願いします。  * ご訪問になるみなさんのために:  ○ 斉一性の原理  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%81%AE%E6%96%89%E4%B8%80%E6%80%A7  ○ 人間原理  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8E%9F%E7%90%86  (この内容を わたしはひどっちさんとのやり取りにおいて かなり勝手に解釈して述べていたようです。そのゆえにもかかげます)。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 普遍論争  ☆ には興味がないのですが――たぶん その名前だけのことだと見てもよいと思っていますが―― 絶対としての普遍について どうもフッサールも触れてはいるようですね。  つまり むろん 神の問題です。  《超越論的領域》のことであり それを《括弧に入れて》言わば仮象としての言葉で代理するかたちで まづは捉え扱うのだと。    ▲ (超越論的領域) ~~~~  ( a ) 超越論的問題の発見によって初めて 世界すなわち現実の世界および可能的な世界一般と超越論的主観性との区別が可能になる(そしてこの区別によって初めてラジカルな哲学が始まりえた)のであり  ( b ) そしてこの超越論的主観性は 世界の存在の意味を自己の内部で構成する主観性として 世界の存在に先立つものであり 従ってまた世界の実在性を 自己の内部で顕在的および潜在的に構成された理念として 完全に自己のうちに保持しているのである。  ( c ) 確かに 世界のうちにあらかじめ与えられているすべてのもの 換言すれば《それ自体としての存在》を主張して現われるすべての超越的なものについての 普遍的な判断中止と超越論的‐現象学的還元とによって初めて 具体的な超越論的存在領域が開示され そしてそれと共に構成の諸問題 とりわけ《括弧に入れられた》超越が《超越論の手引き》として機能することによって展開される構成の諸問題への道が開かれたのである。  ( d ) 次いで 超越論的に還元された自我の内部で行なわれる《他者》の構成の解明は 現象学的還元と超越論的領域を超越論的相互主観性(超越論的自我全体)へと拡大させる結果となった。   (『論理学』 FTL.237 立松弘孝編『フッサール・セレクション』2009 p.140-141  前身は『世界の思想家19 フッサール』1976)  ~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 1. 《超越論的主観性》( a )は わたしの理解では 《ヒラメキ――イメージ直感および観想(理論)直観――》のことだと見ます。あるいはさらにその奥の《非思考の場》です。  2. これが《世界の存在に先立つものであり》( b )というのは 非思考の信仰がと言わずとも(つまりそれは ブラックボックスに入れておくとすれば) 直感および直観のヒラメキが 理性ないし思考に先行するということだと見ます。  3. そのときの《理念》は おそらく《ヒラメキ》と《理性ないしコギト》とのあいだに位置するのかも分かりません。    4. 《〈それ自体としての存在〉を主張して現われるすべての超越的なもの》( c ) これが《理念》やあるいは《まだなお混沌とした状態にある直感イメージ》のことを言っていると。  5. つまり《それ自体としての存在》は 最も奥にあるとされる《もの自体》のことではないようです。  6. ( d )で《自我の内部に〈他者〉が構成される》というのは つまりは《超越論的相互主観性(超越論的自我全体)》と言っているところは 何ともまだ分かりかねます。  ☆ この本 つまり立松弘孝編『フッサール・セレクション』は さわりの部分を断片的に編んだもので きわめて横着な読みであることをおことわりしておきます。きょう図書館から借りて来たばかりです。  ですから 《絶対としての普遍》については フッサールにおいてもまんざら捨て去られているものではないということ そこまでの確認に成り得るかと思います。この覚え書きをおぎないました。

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