• ベストアンサー

現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

noname#143207の回答

noname#143207
noname#143207
回答No.61

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > ◆ ところがフッサールにおいては 《自己責任 Selbstverantwortung 》はあくまでも超越論的認識への決断であって 内世界的実践の《自己責任》を必ずしも意味する必要はない。  ☆ 実際の生活日常の世界から一たん離れたところで 相互主観性から要請される責任というものを考えているということだろうか? それは おかしなことだが。  以下の定義から、おそらく自己の”明証”による判断、決断等のみであり、それ以外の例えば、結果責任等ではない、というものと考えております。 ・フッサールの自己責任  たとえば『危機』書の末尾では、「普遍的な自己責任にもとづく生」は理性の自己理解と自己実現を通じてのみ達成されうることが述べられているのだそうです。  そこで、まずフッサールの理性の定義としまして、「理性の領野とは、自我によって遂行された諸作用である」のだそうです。つまり、責任が問われるのも、そのつどの自我によって遂行される”作用”に関してだけとなります。  また、一方では、[作用の]正当化の営みについて語る際に、フッサールは”明証”の役割を強調しているのだそうです。  従いまして、自己責任ろは、明証による(正誤等の)自己理解、判断、決断によってなされるべきものとの関わり、と考えております。 > ◆ それは 究極の《無前提性》に基づいて知を再編しようとする普遍的基礎づけを使命とする 哲学する自我の《自己責任》である。  ☆ たぶん 依然としておかしな話であると思われるが 迂回しつつ《超越論的主観性》を模索しているというのであろう。  上述にて説明させてもらいましたように、 哲学する自我の《自己責任》とは、哲学を探求する上での”自我の明証による決定を通じてなされるもの”と考えられます。 > ◆ ラントグレーベのこの不満を解消させるためには 個体的《現存在》自身に超越論的性格を見いだすことができなければならない。  ◆ ラントグレーベのそのような志向が この点において ハイデガーの《現存在》の規定に依拠していることは明らかである。  ◆ 《現存在》とは 自己自身の《存在の意味》を自身で問うことのできる《存在者》であり まさしくその点において 内世界的な物体的な他の《存在者》とは区別されている。  ☆ 現存在が 自然的態度において《みづからの存在の意味》を問うことがなくても 生活における相手との対話のなかで互いに対立関係を克服していけるように みづからの思想をうちに省みることができさえすれば 《相互主観性》を持ち得て 共同主観をかたちづくることも出来るはずである。その意味では 《物体的な(?)存在者》などは 世の中にいることはあるまい。  現存在とは、主体的存在であると考えられます。つまり、「存在者」を作る、決める存在とも考えられます。さらには、世界の中で、かような自己決定をしながら生きる存在とも言えるかと考えられます。一方、存在者とは、その現存在(人間)の創造によって、生まれるとものかと考えております。もちろん、現存在も、「存在者」ということになります。ですが、「存在者」は、現存在が造っているわけです。  例えば、自分という存在についても考えてみますと、自分という存在は、当然、存在者であります。ですが一方、その自分という存在者は、自分の現存在が作ったものであるというわけでございます。 現存在:(コトバンク 現存在 からでございます) ハイデッガーの用語,Daseinの訳。自己を人間として理解している主体としての存在者。世の中に投げ出されていると同時に,自らをその存在可能に向かって投げ出す存在(世界内存在)である。 
 > ◆ ハイデガーが《現存在》を 《存在者の存在》を解明するための特権的な手掛かりにしたのは 《現存在》の自問する自己還帰的《超越論性》に着目していたからである。  ◆ しかし ラントグレーベの要求にこたえるために 《超越論的意識》の《自己責任》から《現存在》の《自己責任》への懸隔を埋めるには 理論的な架橋が必要であろう。  ☆ 相互主観性の生起のことではないのか?  上述からもお分かりかと存じますが、超越論的(性)、つまり、一種のメタレベルからの考察と考えられます。 > ◆ それには 超越論的意識の体験流の根源性のなかに 《被投的企投》の原初形態として 《受動的構成》の先行性を見いだすことができるかどうかを検討する必要があるであろう。  ☆ なおもあくまで迂回するという腹積もりであるらしい。  《被投的企投》: 世の中に投げ出されていると同時に,自らをその存在可能に向かって投げ出す存在(世界内存在)、このことを言っているだけかと思われるのですが・・・ > ◆ ヘルトの仕事はまさに 超越論的意識流の《匿名性》のなかに 《超越論的相互主観性》と《超越論的目的論》の根源的萌芽を発見することにあった。  ☆ 《超越論的意識の体験流》の《流》に 専門的な意味があるのかも知れない。けれども《匿名性》は おそらく生活日常の対話ないし言語交通におけるおのおのの《主観》がそれだと言いたい。《目的論》を どうしたものか? 観念的すぎまいか。  仰られますように、観念的すぎるかと存じます。  《匿名性》:現象学的方法は、反省の諸作用のなかでのものですが、さらにこの下層には、方法論的に見れば、厳密に「反省」されないものと、ヘルトが定義したようであります。 > ◆ ヘルトはフッサールの原点に帰る。その原点とは 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》である。・・・  ☆ 生活日常の場に戻ったということではないのか?  おそらく、”生ける現在”もしくは、”生活世界”に生きる、ということかと考えております。これらのtechnical temはフッサールの後期の思想のものではありますが、別の観点からしますと、原点ともなる思想とも捉えることが可能かと思われます。  残りの箇所は、また明日にでもご回答致したく存じます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  何とも言い難い思いになります。  まだ出ていなかった術語について解説をいただきました。ありがとうございます。  もっと早く知っておくべきでしたし まだまだ出てくるかも知れませんので そういった初期段階の勉強をしっかりしておくべきではあるのですが まったくそうなのですが ひるがえってみれば そうは言うもののまなんでしまえば どこか――いえ まったくはっきりと――観念的であり冗長でさえあると かえってがっかりするほどでもあります。  《現存在》を取り上げて ドクターにもさからってみましょう。  ★ 現存在とは、主体的存在であると考えられます。つまり、「存在者」を作る、決める存在とも考えられます。  ☆ 《そこにある Dasein 》というのが 《主体的存在》であり 《〈存在者〉を作り 決める》というのでしょうか?  ★ さらには、世界の中で、かような自己決定をしながら生きる存在とも言えるかと考えられます。  ☆ それは 《人間》であり 個別に《わたし》だと思います。その《わたし》に自由意志があるという構成で説明するのが 正統ではないでしょうか?   ★ 自己決定をしながら生きる存在  ☆ は 当たり前ですので その条件づけとしての  ★ かような〔自己決定を・・・〕  ☆ の内容について見てみなければなりません。すなわち《存在者》のことです。存在者を作るという《かような》であるようですから。  ★ 一方、存在者とは、その現存在(人間)の創造によって、生まれるとものかと考えております。  ☆ まったく分かりません。ので 次へ移ります。  ★ もちろん、現存在も、「存在者」ということになります。ですが、「存在者」は、現存在が造っているわけです。  ☆ まづ《存在》は 抽象的な概念であるはずです。よって 具象としては 《存在者》になるのではないか そしてそれだけのことではないかと思うのですが 果たして いったいどういうことが言われていましょうか。  ★ 例えば、自分という存在についても考えてみますと、自分という存在は、当然、存在者であります。ですが一方、その自分という存在者は、自分の現存在が作ったものであるというわけでございます。  ☆ こういうことでしょうか すなわち  ○ ~~~~~  わたしは わたしと同じようにヒトとして存在する者たちとともに しかもただしその類的存在でありつつも個別の存在として 生まれて来ており 生きつつある。  わたしは わたしの考えに沿って意志決定を成して生きている。  それは わたしをかたちづくっていることだ。  わたしの自由意志による自己表現そしてその――人生というひとまとめの時空間における――過程的な動態 これは わたしの自己形成であり いわば自己の成就である。  ~~~~~~~  ☆ まじめにまなばねならないと同時に まなんだ結果 それらは どうもおかしい部分もある。ということを もっともっとはっきりと言うべきではないのでしょうか? 遠慮するなら 自分で自分の手足を縛っていることにすらなる。そういうおかしな部分があるのではないでしょうか? ヨーロッパの哲学思想の中には。  ★ ~~~~~~~   > ◆ ヘルトはフッサールの原点に帰る。その原点とは 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》である。・・・   ☆ 生活日常の場に戻ったということではないのか?  おそらく、”生ける現在”もしくは、”生活世界”に生きる、ということかと考えております。  ~~~~~~~~~  ☆ これは たぶん《出発点 ないし 踏み出し地点》と表わしたほうがふさわしいのでは?  《原点》は まさにその生活の場としてのこの現実の世界にあるのですが それでも原点は おそらく《人間において互いに関係性を すでに初めに――自然本性として――帯びつつ おのが自由意志によって社会的に独立する主観をかたちづくりその自己表現を重ねながら生きる〈わたし〉なる存在》といったように表わしたほうが。  この原点は 無根拠にもとづくとも添えたほうが わかりやすいのでは?  もっと言えば  ◆ 《生ける現在》 ないし 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》  ☆ は 仏性を有するとか神の霊が宿るといったように説明すれば――そしてそれらは 無根拠にもとづくと言っていますから―― 哲学としても問題ないのでは?  ◆ ヘルトの仕事はまさに 超越論的意識流の《匿名性》のなかに 《超越論的相互主観性》と《超越論的目的論》の根源的萌芽を発見することにあった。  ☆ 《目的論》にのみ焦点を当てます。  人は 人生において目的を持つことが出来て 目的論として表現しておくことも出来ますが 目的が初めにあって・また目的論によってこそ 人生をかたちづくるのではない。よしんば 何かの目的が 人生をよみがえらせるまでの力を持ったり 人にゆたかな《生ける現在》をもたらすことがあったとしても それは むしろ順序がぎゃくであって 《無根拠にもとづくつつましやかな生ける現在》が おのおのにふさわしい目的を見いださせたのである。のではないか?  なぜ 目的〔論〕を先行させようとするのか 汝 ヨーロッパ人よ。  ◆ 根源的萌芽  ☆ は 仏性なり神の霊なりと言わずとも 無根拠――へのきよらかなおそれ――にすでにあると まづひとこと言っておいてから 細かく要素ごとの分析をしていけばよいものを。だってその萌芽を わがメタ主観がいちいち見つけ出さなくとも すでに自己表現をして生きている生ける現在は 生き生きした息吹きにあふれているということだって いくらでもあるんだから。  つまり  ★  《被投的企投》: 世の中に投げ出されていると同時に,自らをその存在可能に向かって投げ出す存在(世界内存在)、このことを言っているだけかと思われるのですが・・・  ☆ という人間の条件ないし人びとの生きる情況は 一人ひとりの《わたし》には百も承知のことであるのだから――裸で生まれて来て 思いっきり人生を生きて やがて土に帰るったあ 百も承知の助なのだから―― わたしたちは このような冗長な哲学を 冗長だとはっきりおしえてやらねばならない。のでは?  というより ヤツらは 一生懸命問い求めている。われわれは その成果を しっかりとわれわれの言葉で消化して行かねばいけない。《被投企的投企》に代わる言葉を模索して行かねばいけない。のでは?  ★ 《匿名性》:現象学的方法は、反省の諸作用のなかでのものですが、さらにこの下層には、方法論的に見れば、厳密に「反省」されないものと、ヘルトが定義したようであります。  ☆ この能天気の場にこそ ヒラメキ直観のきっかけがあるかも分かりません。それは そこだけを特別視することのほうが 間違いなのでしょうけれど 《匿名性》というような名づけでは どうでもよいと見做しているかに感じられるところがある。のでは?  ◆ 自己責任  ☆ に到っては 少なくともその表現は おかしいのではないでしょうか?  ★ ・フッサールの自己責任 ~~~~~~~~  たとえば『危機』書の末尾では、「普遍的な自己責任にもとづく生」は理性の自己理解と自己実現を通じてのみ達成されうることが述べられているのだそうです。  そこで、まずフッサールの理性の定義としまして、「理性の領野とは、自我によって遂行された諸作用である」のだそうです。つまり、責任が問われるのも、そのつどの自我によって遂行される”作用”に関してだけとなります。  また、一方では、[作用の]正当化の営みについて語る際に、フッサールは”明証”の役割を強調しているのだそうです。  従いまして、自己責任とは、明証による(正誤等の)自己理解、判断、決断によってなされるべきものとの関わり、と考えております。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 反省における自問自答の《自答》のほう・つまり《問いに答える ant-wort 》という意味合いで使っているようですね。見直す・考え直すといった意味のようです。すなわち 日本語訳が おかしいことになるのかも知れません。《明証性》を得て 反省的思惟を責任の持てる内容にすると言っても その明証性は どこまで追究しても 切りがない。つまり相対的なものであるに留まる。  日本の哲学思想界は 外国のそれらに振り回されているのではあるまいか? 

関連するQ&A

  • フッサール現象学とヘーゲル現象学の違いについて

    現象学という言葉をカントの同時代のランベルトが言い始めたことは中島義道がすでに言っていますが、その現象学というのをヘーゲルが用い、フッサールが用いたからといって、どちらの現象学も同じでないのは、蝦夷富士や伯耆富士があるからといって同じ富士山といえないのと同じ、またカント哲学とヘーゲル哲学といって、同じ哲学と称するから同じではないように、同じ現象学でないのは、いわば当然で、質問するまでもありません。 ヘーゲルにとって現象学とは、意識の経験の学、とみずから言っているように精神が自覚的に感覚できる個別的なものから、その対立を克服して概念の階段を上昇し、最後に絶対知に至り、その絶対知にすべてを包括し、世界を絶対精神の発出として理解するもの。 これは古代ギリシャのプラトンの「実在論・リアリズム」の近代の復刻版であり、プラトンは天に永遠の「イデア」があり、それこそが真の実在であり、地上の諸々の存在、個物は真の実在ではなく、仮象だと言いましたが、ヘーゲルにとって個物だとか個人は実在ではなく抽象的なものであり、真の実在であり、具体的なものといったら、全体的なもの、精神でした。 ヘーゲルは言います、 「理性的なものこそ現実的なものであり、現実的なものは理性的なものである」と。 つまり概念こそが真の実在であり、現実的なものであり、感覚されるものは仮象であり、抽象的なものであるということ。 こうしてヘーゲルは私たちのいう具体的なものと抽象的なものの関係をひっくり返しました。 ヘーゲルにとって個人よりも国家の方が実在で、個人はその国家のための、国家を導くための否定的媒介に過ぎない。 これがヘーゲルのいう現象学です。 それに対してフッサールは意識を自然的意識と現象学的意識に分け、現象学をやるためにはその自然的意識を棚上げにして現象学的意識に転換しなければならないという。 それが「現象学的還元」で、現象学は外的世界の存在に「カッコ」を施し、それが存在するという判断を停止します。 つまり、外的世界が存在するという私たちの信念を「宙づり」にします。 もしかしたら外的世界なんて存在しないかもしれない。 また、同じく「現象学的還元」で、私の存在についても「カッコ」を施します。 もしかしたら、私なんて存在しないかもしれない。 フッサールはデカルトと同じように普遍的懐疑で、世界の存在、そして私の存在に対する私たちの信念を停止します。 これをフッサールは「中和性変様」といっています。 何を中和するかといえば、私たちの世界が存在する、という信念、また私が私が存在するという信念、それをプラスの信念とすれば、それにマイナスの信念を対抗させて、中和することです。 マイナスの信念というのは世界が存在しない、私が存在しないという信念。 こうして、フッサールに言わせれば、純粋意識が最後に残るという。 これはデカルトの「コギト」です。 意識といっても、普通の意識ではなく、いわば作用だけの意識。 そしてフッサールに言わせれば意識の本質は「志向性」にあり、意識は何ものかの意識であると言われる。 現象学とは、この純粋意識の「志向性」によって、世界を再構成しようというもののこと。 ヘーゲルにとって意識とは自然的意識でしたが、フッサールにとって同じ意識という言葉でも、中身がまったく異なり、現象学的還元を経た現象学的な意識でした。 ヘーゲルにとって意識とは人間が有するものでしたが、フッサールにとって、人間以前にあるもの、むしろ人間はその意識によって構成されるものでした。 ヘーゲルにとって現象とはカントと同じ意味で、時間・空間の中にある物の現象であり、現われでしたが、フッサールにとって現象とは物に限らず、霊でも魂でも、神でもいい、単に私の意識に現われるものならば、時間空間の中にあっても無くてもいい、すべてを含みました。 ヘーゲルにとって精神を除くものが意識の対象である現象で、精神そのものは現象ではありませんでしたが、フッサールにとっては精神だろうと神だろうと、私の意識に与えられるもの、現われるものはすべて現象でした。 ヘーゲルは世界と私の存在を疑いませんでしたが、フッサールはデカルトと同じようにすべてを疑いました。 「コギト」という、世界がそこから開けてくる視点の存在しか認めませんでした。 ところが初期のフッサールは純粋意識による世界の構成ということを唱えていましたが、後期になると、その初期のデカルトの道を放棄するようになります。 例えばゲシュタルト心理学で、地と図ということが言われますが、大きな地図があったとして意識というのはその地図の小さな点でしかないのを知り、地図というもっと広大な世界があることを発見しました。 つまり意識は氷山のほんの一角に過ぎない、その下には意識されたない広大な世界があることに気が付いたのです。 それをフッサールは「生活世界」といいました。 私たちは意識的に世界を構成する前に、その広大な「生活世界」があり、それを受動的に受容し、その上で、自発的に考えたり、行動しているのに気が付いたのです。 この世界の存在に気が付いたこと、このことは古代ギリシャ以来、中世を経て忘れ去られていたコスモスとしての世界を2500年ぶりに再発見したことを意味します。 フッサールの現象学の最大の功績は、世界の存在、「生活世界」が私たちの人生の根底にあって、私たちがそれに生かされていることを発見したことにあります。 フッサールは「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の付録として付け加えられた「幾何学の起源」において、17世紀の科学革命のガリレオによって数学的自然科学が創始されて以来、世界は数学の「理念の衣」によって、おおわれてしまい、人生を、物事を数学によって考えるようになり、その人生の基盤にある「生活世界」が見えなくなってしまったと言います。 フッサールに言わせれば、ガリレオは発見の天才かもしれないが、同時に隠蔽の天才でもある、といいます。 こうしてフッサールの現象学は最終的に私たちの目から見えなくなってしまった「生活世界」を現象学によって再発見し、存在の、生の、生き生きとした活力を再び取り戻すことに目標が、テロスが据えられました。 フッサールはデカルトからカントを経て、ヘーゲルまでの近代哲学の自我中心・意識中心・主体性を中心とする世界観を転換し、戦後フランスのポスト・モダンとハイデガーの存在論にいたる道を切り開いた哲学者だということができます。 どうですか、同じ現象学でも、フッサールのいう現象学と、ヘーゲルのいう現象学が、月とすっぽんのように違うのが分かると思います。 皆さんの感想と忌憚のない批判を募ります。

  • 現象学と最後の観察など

    お世話になります。 現象学について、いま一つ理解できません、質問も整理が出来ないようです。 個々に感じる疑問を羅列してみますが、誤解している点を指摘していただけると幸いです。 1)現象学は、感覚が絶対的なものではなく、したがって、認識を放棄して、現象を本質直観により現象学的還元を行い、人間にとっての有用性を、考察することとすると、 これは、遠回りして、物質と表象を分ける以前の、素朴な直観に、戻ったことになるのでしょうか。 2)個別諸科学も、最後の観察によって(コンピュータで解読された数値を読み、二重螺旋を顕微鏡・あるいは模型で確認する)その絶対性に、疑問が表れます、経験によらない知覚が無い以上、フッサールの言う「生活世界」の境界が、どのような意味を持つのか、理解できません。 3)我々の知覚が相対的で、生きるために与えられた器官だと言う事は、理解できるのですが、それでも私は尋ねてみたいものです「光は有るのかと」 不出来の質問で、ご迷惑をおかけしますが、宜しくお願いします。

  • フッサールは《純粋意識》に もののあはれを知ったか

     《あは!》という思いを感じるときに到るキッカケを フッサールというドイツ人は 《エポケー》と称しました。わたしは 判断中断と訳すとよいと思います。  ▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC  エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή  epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。  ▲ フッサールおよび現象学においては、  エポケーは 世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。  すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。  ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。  世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かったような分からないような感じですが ひとつにギリシャ語を引っ張り出して来ているので 古代人に関係あるかも分かりません。  もうひとつに 基本的なこととして このエポケーのあとに得られる結果が 《もののあはれ》だということだと解釈します。  これをフッサールとしては 《純粋意識( reines Bewußtsein )》が得られると言っているようです。  ▲ (ヰキぺ:現象) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1  フッサールは、  哲学や諸々の学問に確実な基礎を与えることをもくろみ、  意識に直接的に現れている現象を直観し、その本質を記述する方法を追及した。  そのために彼は、外界の実在性について判断を中止し(=エポケー)、それでもそのあとに残る純粋意識を分析し記述する、という方法を採用した。  この場合、フッサールは現象について、本体などの背後にあるものとの相関については想定しない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいは 《本質直観 / 本質観取 / 本質看取 ( Wesensschau )》と言うのだそうです。  《もののあはれを知る》のほうが 理屈づけではなく全人的であると思われ その点 推奨されます。  《 Wesensschau 》は英語では Being's show と言っているのですから さしづめ《もののあらはれ》でしょうか。日本語とは 一字違いですね。  フッサールのほうは――わたし自身もおそるおそる言っているところがありますが―― 純粋意識を得て ようやく《生活世界( Lebenswelt )》に戻って来るという恰好にもなっているようです。くわしくは たとえば次のサイトをご覧ください。  ▼ (フッサールの方法とその諸問題)   http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html  この現実に帰って来たときにも・そしてエポケーの状態であはれを感じたそのときにも 《おそれ》をひとは覚えるのでしょうね。《きよらかなおそれ》。  しかもこれは ものごころが着く前の幼児のときの《聖なるあまえ》と同じ筋の状態だと確認できるのではないでしょうか。  おそらくこのことを 《ハカラヒ》を《義》と言いかえて 親鸞は 《義無きをもって義とす》と言った。  一般にヨーロッパ人は ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします。もっと全体論として捉える視点をも推し進めるのがよいと思われます。それには 日本人は――《ふつうの人》が――生活としてすでに実践している現実があるはずなのであり その生活の歴史の中からさらに哲学のあたらしい展開のために 見直すのがよい。歴史を洗い直すのがよいと考えます。  俳句や短歌は それだけでは 文学としてもまだ練れていないと考えますが その生活感覚の中に 哲学の鍵語が得られるかも分かりません。  当否を問います。

  • 本質の意味についてご教示お願いいたします。

     本質という言葉の意味がいまいちよくわかりません。 辞書を引くと以下のような解説が出てきました。  (1)あるものをそのものとして成り立たせているそれ独自の性質    (2)変化常ない現象的存在に対し、その背後または内奥に潜む恒常的  な   もの。  (3)実在に対する語として、なんらかのものが現に存在しているとい  う事実から離れて、そのものが「何」であるかという定義によって   いわれているもの。     あまりにも抽象的すぎてわかりません。    (1)~(3)までの本質の意味を具体例を交えてご教示いただけまし   たら幸いです。     又、僕なりに(1)と(3)の意味を考えて、具体例を交えて書くの    で、    それが正しいかそうでないかの判断もお願いします。     (1)は、ある物事の定義されている性質の事でしょうか?哲学    の本質を言うならば、「前提や問題点の明確化、概念の厳密     化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な    主題について論じて研究を進める学問」がその本質なのでしょ    うか?(WIKIPEDIAを元にして本質を定義しました。     (3)は、例えば1+1はいくつか?という問題があったとした    らその問題の本質は「足し算」。    

  • 電気の本質を理解したいのです

    私、一応機械工学を修めたエンジニアです。 電気の電流や電圧は現象を説明する上で便利な「概念」と理解しています。 さて、電気を使って何らかの仕事をさせたとします。このとき消費されたエネルギーの正体はなんなのでしょう。電子が消費されたわけではない、負荷の前後で電流値は変わらない。電圧が消費されるわけでもない。電子が持っている何が消費されるの? (水力機械にたとえた説明は本質なの?)

  • 「現象」ってなんでしょうか?

    最近、ふとした事で認識学とか科学哲学としての「現象」という言葉を聞きました。 面白いな、と思って調べてみようと思ったのですが現象学という本は見つかっても 「現象」そのものについての本は見つからず現象学というのが「現象」についての 学問なのかも良く分かりません。 (人にとって)見えるもの、つまり(外面的な)<<現れ>>のこと。出来事を、それが存在するかどうか、本当かどうか、といった、その見える<<現れ>>の背後にあるものは問題にせずに、その観察された<<現れ>>として扱うとき、それを「現象」と呼ぶ。対義語は本質。(ウィキペディア2012/02/02) 私は特に上記のようなものがすごく面白いと思うのですが、人に説明をするほど理解することが出来ません。 もし良ければ分かりやすく教えていただけないでしょうか?

  • 物事の本質を“ズバッと”言い当てている本

    23歳女です。物事の本質を言い得ている本を探しています。 以前人間関係を見直そうと思い、 カーネギーの「人を動かす」を読みました。 なんというか…深さ、潔さを感じさせる内容で 言葉がスーッと心に染み入るような感覚がありました。 そして読後とても爽快な気分になりました。 以来実用書を選ぶ時には、 本質を突いているかどうか?という点を意識するようにしています。 ちなみに最近気になっている本は ・藤原 正彦 「国家の品格」 ・M・バフェット「億万長者をめざすバフェットの銘柄選択術 」 ・ボブ・ディラン「ボブ・ディラン自伝」 です。 ジャンルは問いません。 “ホンモノ”な本を教えてください。

  • 宗教の本質

    宗教の本質 哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。 1.宗教の発生時期   宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。   どのような原始社会においても宗教は発生しています。   宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。 2.宗教の種類と数   宗教は全世界に溢れています。   その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。   また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 3.宗教を構成するもの   宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。   この3つの概念を備えない宗教は存在しません。 4.宗教の宇宙観   全ての宗教は有限宇宙観に支配されるものです。   すなわち宇宙はある一時期をもって開始し、その広がりは有限であると。 5.宗教を動かすもの   宗教は心地良いものです。   修行と名のつく様々な宗教的所業も結局心地良さの追求です。   酒を飲むと心地よくなるのと同様の現象です。   もちろん酔いが醒めると辛いものが待ち受けておりますが、宗教も同様であることに説明の必要はありません。 6.宗教の目的   宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。   これは古代エジプト王国などをみればよく分かることです。   大勢の奴隷を効率よく統治管理するための道具として有効利用されたのです。   この状況は根っこの部分においては現在でも全く変わっていないと言ってよいでしょう。   国が宗教を擁護するのもこのためです。 7.宗教の未来   統治の道具としての宗教の力は既に失われています。   これは近代科学、近代文明が発達した結果としての自然の成り行きなのです。   それと同時に宗教を支配した神、天国、地獄の3概念もそのイメージが次第に弱まってきました。   つまり宗教の役目は失われつつあり、既に宗教の時代は終わったといってよいでしょう。 8.宗教の次にくるもの   それは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。 御意見ください  

  • 本質直観について

    こんにちは。 現象学の本質直観について、 具体的なやり方が 詳しく載っている本があったら教えてください。

  • 哲学。結局、「他者」とはどのように理解できますか?

    社会学系の大学院で課題のレポートを書いています。 講義でフッサールの現象学においては、「世界」は意識の志向性とそれに応じた現われである、ということを学びました。その場合、物質的なものに対してはなんとなく理解は可能な気もしますが、他者(他我)についてはどのように理解すればよいのでしょうか?なぜ、他者と概念的な共有可能で関係性の構築が可能となるのでしょうか?(言語の意味はなぜ他者と共有可能(のように感じる)のでしょうか?  いろいろ見てみたのですが、議論が膨大すぎてどこから手を付けていいかわかりません。もし詳しい方がいらっしゃいましたら、フッサールの時代から現代にいたるまでどのような議論がなされてきたのか簡単な流れについて教えていただければ幸いです。(記号論?等についても)