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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

noname#143207の回答

noname#143207
noname#143207
回答No.60

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > キネステーゼ問題:  ☆ これも そう言ってはすみませんが 当たり前のように思われます。何もからだを動かしていなくても 人は時間過程をたどっています。坐って窓の外の桜をながめているときにも 桜のほうが動いているという側面もあります。風に吹かれれば 花びらが散ります。  こう言ってしまえば、身も蓋も無いのですが、当然のことを言っているかと考えられます。ただ、(影響力の大きかった)デカルトの点的時間性問題を克服すべく、あえて設けた概念かとも考えております。 > こう考えて来ますと ほかの事項では合意に達したか それは当然のことではないかという見方に達したと思われ どうもこの復習の作業は あまり生産的ではないかも知れません。と思えるようになりました。  ある程度理解してしまえば、既知のことを単に言葉をかえて述べているに過ぎない、もしくは、少しばかり内容が付加されたもの、このいずれかになってしまうものなのかもしれません。 > 《自然的態度》のパラドックス問題。主観は 世界の内か外か。  ☆ これにつきましては まだ納得が行きません。  ☆☆ ~~~  逆説はないという見方もありうる。  主観は世界の内にあり そのように主観みづからを含めた世界を事象として捉える。  主観は主観じしんの内外を合わせた世界全体をあつかう。  ~~~~~~  ☆ もしこうだとしますと このとき  ★ 対象化する以上は、”その外部から”、という考えがあったものと考えております。  ☆ というその意味は 或る程度において《その対象を わが主観の内に視像や概念像として認識しているというかぎりで 距離を取りつつ――或る意味で――超えたところから見ている》ということでしょうか?   もしそうなら 《内部・外部》という表現が ふさわしくないように思います。  愚生はそのように理解しております。  ただ、もしかしますと、メルロ・ポンティの「世界が意識や主体の外部にあるのではなく、意識とは世界の内に生きることによって定義されるようななにかであり、意識が世界を知覚するのではなく、意識とは世界を知覚しているようなものである。」との対比を示したかったのかもしれません。 > ★ [人格主義的態度] ~~~~  ここで、自然主義的態度は人格主義的態度に従属しており、自然的態度が理論的分析をはじめるやいなや自然主義的態度に陥ると、人格主義的態度は忘却されて自然主義的態度が独立性を獲得し、そのことによって自然は不当に絶対化されてしまうこととされています。  ~~~~~~~~~~~~  ふうーう。ややこしいですね。  とにかく、フッサールは考えては、新たな術後を用いていくタイプの人ですので、致し方のないものとして、諦めております。  この“人格主義的態度”を抜きにして、理論分析してしまいますと、自然を誤って絶対化してしまう、との危惧感をしめしているものと考えております。  ○ ~~~~ > 1.自然的態度:日常生活において 自然および社会をそのまま捉えたその認識にもとづき みづからの考えを決めその判断に従って行動するその態度。  “自然主義的な態度”とは、(物理学的)自然的態度を構成する諸作用の相関項が物理的自然であるという態度(理論的態度)を意味しております。このため自然と呼ばれうるものはすべて物理的自然に基盤を持っていることとなります。これは、イデーンIIにて述べられている言葉ですが、この対義語である”人格主義的態度”は、その後の”危機”の”生活世界”と同じ意味内容のように察せられます。 > 2.このように定義するなら じつはそのときにもすでに 他者はいます。社会は 人間関係から成ります。おのれの考えとは違った考えをするほかの人間がいるとわたしは知ります。すでに相互主観性の芽は生まれています。  はい。そこでは、相互主観性も生まれるはずでございます。  > 4.ただしもしどうしても《現象学的反省》を 自然的態度は持たないというのであれば それは 思惟をめぐらす主観そのものを 同じ主観が捉えるということをしないと言っていましょうか?   “自然主義的な態度”に基底をおき、《現象学的反省》がなされれば、おそらく、”人格主義的態度”に通ずるものと考えております。 > 5.そうであっても 自然的態度はすでに 相手を主観どうしとして受け留めて互いの考えを突き合わせそれらをまとめようとしていると言える限りで 相互主観性を帯びる。こう考えてよいのではないか?  相互主観性を帯びる、とみなしてもよろしいかと存じます。 > 6.このような日常生活における一般的な自然的態度にかんして そこから 《自然主義的態度》や《人格主義的態度》が出て来るのでしょうか?  対義語としまして、《人格主義的態度》が出てくるようであります。 > 9.人格主義的態度というのは この規範にもとづこうとする考えなのでしょうか? 主義というからには その人格の内容を規定した規範ないし道徳がすでに体系化されていましょうか?  いえ。日常世界に基盤をおくという、”科学主義的自然的態度”とは逆の概念でございあます。従いまして、敢えて申しますと、≪環境世界≫とさまざまにかかわりあいを持つ、といったものかと考えております。 > 10.自然主義的態度は ぎゃくに規範にはもとづかず 経験の積み重ねにもとづきつつ そのつど人格ないし人格関係としての人間関係をかたちづくりつつ 社会をいとなむ。といった考え方でしょうか?  上述”1”をご参照くださいませ。   > (水野:相互主観性の超越論的根拠) ~~~~~~~~~~~ ・・新田義弘ほか編著:『現象学の現在』 pp.24-26  ◆(No.57補足欄の再掲) しかしひとたび現実のなかに暴力が登場するや たちまち中間性〔*――すなわち 《自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間〉》なる原領域――〕は対話相互の間のロゴス的中間から 対話と暴力との力の中間へ移動せざるをえなくなるであろう。  要素に還元したあとの《中間》であれば そういうことになる。《全体》――《わたし》である――がはじめに置かれていれば その中で暴力も大きく言語交通の内に捉えられよう。  ある意味当然のことを言っているとしか・・・ > ◆ 超越論的関心の欠如に由来するたんなる中間追求は 出現しているものの根拠を問うのではなく ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求へ次元のメタ性に無関係に移動せざるをえないからである。  ☆ 《次元のメタ性に無関係に》 対話の相手と互いにその見解を明らかにしその異同を確認し 対立点については さらに総合的な見解を互いに模索するということ このことは 暴力によって――つまりは 対話の席を切れて立ったり 相手の言い分を無視したりすることを含む暴力によって――無力にされる。されるけれども その対話の姿勢――相互主観性の保証力――は つねに有効である。暴力という無効のちからが 社会的に有力になっても 有効な態度とその意志は つねに有効である。  中間追求:《物理学的自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間の追求〉》と解しますと、もちろん、根拠たるものを問うものではなく(事実は問うかもしれませんが)、「次元のメタ性に無関係に(超越論的意識へのメタ性の変化なしに)」移動するしかない、と言えるかもしれません。 > ◆ ラントグレーベは フッサールの必当然的な超越論的意識の優位性を 交換不可能な個体の絶対的事実性へ読みかえようとする。  ☆ 《モナドとしての主観》に似ている。  お者られる通りかと存じます。  ◆ ラントグレーベにとって 自己存在の《絶対的事実性》は 対象的カテゴリーのなかで偶然性と対比されるような必然性によって規定することのできない《現存在》の背進不可能な零点の規定であり それは歴史的時間のなかに位置づけられた個体の交換不可能性である。  ☆ たぶん その事象にかかわる《わが主観》がみづからの意志としてえらんだ道を その途中でそれまでの意志内容とは別のかたちに変えることのできないそのときその場の位置関係のことか? 人生において 誰かの連れ合いになるという選択は 互いにそれ以外の道を選択しえない位置関係に ひとを置く。相対世界における出来事ではあるが 意志行為は そこまでの《絶対的事実性》を帯びる。或る人の連れ合いの座を その歴史的時間なる現実を全面的に別のかたちに改めたあとでないと ほかの人が 交替するということは出来ない。  個体の交換不可能性:個体(各人の)の固有性、唯一性、ととらえたのですが、いかがでしょうか。  さらに、フッサールの「自己責任」、さらに前期ハイデッガーにも及んでいきますが、本日はここまでで、お許しくださいませ。誠に申し訳ございません。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 生兵法は怪我の元。新しい術語には警戒してあたらなきゃだめ。というわけで ちょんぼをしでかしました。  ひどっちさん こんにちは。ご回答とご指摘をありがとうございます。  ○ 世界の内と外:  ★ ~~~   ☆ 《内部・外部》という表現が ふさわしくないように思います。  愚生はそのように理解しております。  ただ、もしかしますと、メルロ・ポンティの「世界が意識や主体の外部にあるのではなく、意識とは世界の内に生きることによって定義されるようななにかであり、意識が世界を知覚するのではなく、意識とは世界を知覚しているようなものである。」との対比を示したかったのかもしれません。  ~~~~~  ☆ 《意識が世界を知覚するのではなく、意識とは世界を知覚しているようなものである。》 これの意味は必ずしもはっきりしませんが 要は 研究史に就けという問題であるようです。あるいは フッサールの原典から出発せよということのようです。  ○ 人格主義的態度  ★ ~~~  とにかく、フッサールは考えては、新たな術語を用いていくタイプの人ですので、致し方のないものとして、諦めております。  この“人格主義的態度”を抜きにして、理論分析してしまいますと、自然を誤って絶対化してしまう、との危惧感をしめしているものと考えております。  ★ ~~~  “自然主義的な態度”とは、(物理学的)自然的態度を構成する諸作用の相関項が物理的自然であるという態度(理論的態度)を意味しております。このため自然と呼ばれうるものはすべて物理的自然に基盤を持っていることとなります。これは、イデーンIIにて述べられている言葉ですが、この対義語である”人格主義的態度”は、その後の”危機”の”生活世界”と同じ意味内容のように察せられます。  ~~~~~  ☆ ややこしいようです。  ○ 自然的態度:思考や判断はおこなうが その主観を見つめる主観(そのメタ性)という考えはしていない。  ○ 自然主義的な態度:精神=物理的な態度(?)。    ★ (物理学的)自然的態度を構成する諸作用の相関項が物理的自然であるという態度(理論的態度)  ○ 人格主義的態度:自然的態度が世界における現象を扱うに際して 身体やものごとの物理的自然としての基盤を問わないかたちを採る。ただし 《反省》をすでに織り込んでいるとすれば 自然的態度から主観のメタ性へと移行している。    ★ “自然主義的な態度”に基底をおき、《現象学的反省》がなされれば、おそらく、”人格主義的態度”に通ずるものと考えております。    ★ 敢えて申しますと、≪環境世界≫とさまざまにかかわりあいを持つ、といったものかと考えております。  ○ 超越論的関心の欠如に由来するたんなる中間追求 / ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求  ★ ~~~~  中間追求:《物理学的自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間の追求〉》と解しますと、もちろん、根拠たるものを問うものではなく(事実は問うかもしれませんが)、「次元のメタ性に無関係に(超越論的意識へのメタ性の変化なしに)」移動するしかない、と言えるかもしれません。  ~~~~~  ☆ それでも――と ただちにわが田に水を引きますが―― 言語交通説では 意識ないし主観のメタ性に直接にかかわりないままに 主観はみづからの中に相互主観性をそなえて 共同主観をもかたちづくりうると言おうとはしています。  《反省》を 主観のメタ性において捉えなくても そうでなくても おのれの主観と他者の主観との異同を認識したあとに その矛盾や対立の関係をおのが主観の内に省みて それを超えようとして次元をあらためるかのごとく まとまった見方をかたちづくろうとする このことに限定したとしても 相互主観性を備えていると見る。  極端な言い方をすれば 相手との見解のあいだの隔たりにかんして単なる《中間追求》をしたとしても それによって 相互主観性の欠如を指摘しきるということは出来ないであろう。《中間追求》――足して二で割る――といった解決策しかなかったという場合は たとえメタ主観を駆使して本質直観に達して思考したとしても 同じ結果が現われることは いくらでもあると考えられる。  ぎゃくに もっと次元の高いところで解決策が見つかるとすれば それは・それも メタ性抜きでの反省においても 得られるはずだという見方です。  本質直観こそが つねにただしく 優位性を保つといった観念には与したくありません。つまりは 無反省においても 直観ヒラメキは 人に起きると考えます。  ○ モナド  ☆ という概念は 扱いよいようで それでよいのだろうかと不安を残すようにも感じられます。(議論を展開しようとしてではありません。感想です)。  ちょうどその個体をめぐってですが:  ★ 個体の交換不可能性:個体(各人の)の固有性、唯一性、ととらえたのですが、いかがでしょうか。  ☆ だとしたら 所謂る存在についての《掛け替えの無さ》のことだと思われます。  ★ さらに、フッサールの「自己責任」、さらに前期ハイデッガーにも及んでいきますが・・・  ☆ よろしくお願いいたします。

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