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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

noname#143207の回答

noname#143207
noname#143207
回答No.57

 前項からの続きでございます。 > もしよろしければ 次の考え方について再度吟味していただけないでしょうか?  微力を尽くしたく存じます。 ☆(No.53お礼欄) ~~~  § 12 生活世界は つねに目の前にあります。 > 煮詰めた議論としましては 目の前の生活世界において《わたし》と自称しつつ互いに意志疎通をおこなっている人として 《わたし》は それぞれ互いにとって《自己》であり《他者》であると言えます。《〈わたし〉という自称が指し示すその存在》は と言いなおしたほうがよいかも知れませんが このような社会的な《わたし》どうしの関係 これが 生活世界であるとも言えまいか?  生活世界の基本はその通りかと存じます。 > その意味は――このような言語交通という切り口から世界や事象を見ることの意義は―― 《わたし》においてすでに主観でもあり 言うとすれば客観でもあるかたちになっている。誰もが みづからの《わたし》において そう見止めるかたちになっている。  はい。《わたし》においてすでに主観であるものの、同時にまた無自覚にも客観をも形成している、誰しもがそのようにみなしている、と考えております。 > そのうえで 自分とは違う存在として《わたし》を自称する者を 他者と呼ぶことにすればよい。そのような共通項としての《わたし》をわざわざ《自我》だのと呼び変える必要は生じていない。そんなことをしたら かえってややこしくなりはすまいか? だってこのように考えることをしているのは 《わたし》なのだから。それともわたしの脳の神経細胞のどの部分かを突き止めなくては 納得しないのだろうか? それを《自我》と名づけて 自我大明神としてたてまつるというであろうか。  ~~~~~  原則、“わたし”、“わたくし”、よろしいかと思われますし、それでじゅうぶんかと考えております。確かに、仰られますように、脳神経のどこかにその意識部分等を探り当てたいという人たちもいようかと推察されます。これは諸説あるようでございますが、意識なるものを全て、物理(反応・信号)に還元できるとは、今のところ考えられていないようでございます。 > ○ ~~~~  他者は わが個体(つまり自分なる存在)と ヒトとしての自然本性において通底しており 《わたし》という自称行為を 言語習慣として・しかもおそらく社会生活にとって必須のコミュニケーション行為として 共有している。  そのうえで おのおのの自由意志による思惟および行動についての取捨選択とそこにおける判断 これを――自由という基礎のうえにであるからには――異にしうるという存在およびその共存のあり方をしている。  しいて言うのなら 自己のわれと他者のわれとは 共通我と非共通我とを持っている。  ~~~~~~ ☆ こう言わなければならないのではないか? 《非我》と言っただけでは 分かりづらい。  その通りかと存じます。《非我》、これはおそらく学術用語なのかもしれません。ただ、この語彙が、日常化してしまい、全く異なった意味合いを持つことは懸念してところでございます。 > なぐり書きのところがあるかと思いますが 考えてみれば これだけ批判している場合には ていねいに表現すると かえっておかしな印象がついてまわります。  つまり よほど腹に据えかねて 企むところがあるのではないかと見做され疑われるおそれが 出て来ます。これを回避するためにも 独り語りのごとく きつい表現にて 批判を表わしています。  波風を立たせようと思ってなら こんなきつい捨て台詞のような言い回しはしなかった。赤き血の流れていることだけは 示したかった。・・・  実を申しますと、愚生も真剣に回答させていただきました。これは、デリダらによるフッサール批判、さらには、竹田批判に肩入れしてしまった愚生の過去に対する反省によるものでございます。振り返ってみますと、今でも印象に残っておりますのは、フッサールだけというありさまでございます。竹田氏は確か在日の方で、その当時は一文芸評論家に過ぎませんでした。そして、病的なまでに「ロゴス中心主義」、「差延」等の陳腐な言葉の繰り返しをしていただけのポストモダニズム(ニーチェとフッサールの焼き直し+自然数論の一部分に過ぎないものです)に対して、竹田氏は批判を唱えた訳でございます。ですが、浅田や柄谷らからは、現代哲学を理解できない無能力者として小馬鹿にされていました。そこで、今回、過去の自分の反省を致したく、尽力してみた次第でございます。    いつもながらではございますが、最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 おかげでここまで来ました。今回は 互いにさらなる現象学的還元と反省を重ねつつ 或る程度の合意を見て 共通の見解に達したところが少なくないと思います。  ポストモダンの流行の問題にも触れていただきました。  直前のお礼欄(No.56)でも触れましたが 次の研究書に就いて あらためて主題ないし課題を取り上げしっかりと復習して行ければと考えました。   ◆ 新田義弘・常俊宗三郎・水野和久編著:『現象学の現在』        (世界思想社 1989)      序 / 現象学における《思惟の事象》についての所感:新田義弘      I 現象学の方法と目標   1 現象学の方法論:水野和久     ○ 構成/超越論的態度/他者構成/相互主観性   2 学問論としての倫理学:常俊宗三郎     ○ 多様体論   II 経験的世界の構造   1 経験の基礎――根本の輪郭 :小川侃     ○ 現出性と地平性   2 時間と存在をめぐって――生き生きした現在の謎と内‐存在論    の試み:斎藤慶典     ○ 反省の構造/《生き生きした現在》(《生ける現在》)         3 身体――受肉せる主体:宮原勇     ○ 《私の身体》ということ/人称的自己身体意識   4 鏡と眼差し――自己意識の現象学のために:魚住洋一     ○ 引き裂かれた自己   5 地平――世界生の動的構造:工藤和男     ○ 志向的対象の地平/経験の地平/生世界の地平性地平志向      の機能/地平の創設   III 現象学の諸問題   1 対話における言葉について:品川哲彦     ○ 言葉の意味のイデア性話し手・聴き手の異他性・/対話的      存在としての人間   2 芸術作品:梅原賢一郎     ○ 音楽における身体の抑圧・身体の発見/絵画における身体      の抑圧・身体の発見/・・・      3 人格と価値:湯浅慎一     ○ 人格の時間性/人格的同一性とその自己性/人格の絶対価値      と社会性/人格・明け開け・価値/人格・交わり・自由   4 生と責任――現象学における遂行と自己責任:谷徹     ○ フッサール現象学における倫理的問題の位置づけの変遷     5 現象学と社会の危機理論――危機の概念と批判の概念:引田隆也     ○ 《理性》批判――カントとフッサール/生活世界と理性の危機   6 歴史的世界の基底――歴史を歴史化するもの:伊藤徹     ○ 《いまなお何のための歴史学か》/歴史を歴史化するもの     * ○ のしるしのあとの項目は 引用者が勝手に拾ったものです。  いきなり水野論文から 次のくだりを引きます。No.56お礼欄における《モナド》問題の項を参照ねがいます。  言語交通における《わたし》どうしの関係 これとしての社会 こういう切り口とは別に 《モナドとしての〈わたし〉 そしてその主観としてのモナド共同体》といった切り口が提出されたとのくだりです。  ★★(回答No.56) ~~~  (無数の各個人により、無数の世界が存在している)この世界は、それぞれのモナド(構成させている各個人)が、相互扶助的に共存する多数の自我の(個人の主観的な)共同体として、さらには最終的には(間主観性による)モナド共同体が構成されるということを述べているものと考えております。  ~~~~~    ◆(水野和久:他者構成の問題) ~~~~   ところが ここで超越論的自我が身体化された自我から区別しても思考可能であるかぎりでは 超越論的自我が超越論的他我を構成するときに 身体化された他我を媒介として要求する必要はないはずである。    ☆ 《超越論的自我》とは 《モナドとしての個人・その    超越論的主観性》と解して間違いではないと思います。     まづは 《身体》をもエポケーしうるかも知れないとい    う議論のようです。  この点を追究したマーシュが導出しようとする帰結は 《超越論的自我の構成能力にとって身体化は必然的だ》というのである。    * マーシュ:Marsh, J., " An Inconsistency in Husserl's Cartesian Meditations" in: The New Scholasticism, vol.LIII, 1974, N.4        ☆ 質問者としましては 身体と精神とを分ける必要はない     という立ち場に立ちます。《わたし》が統覚しています。  ただし その身体は所有の対象でもなく 道具的手段でもなく 運動感性(キネステーゼ)的主体である。    ☆ 《わたし》に感性がはたらくと言ってしまえば よいの     ではないか。  しかもキネステーゼ的身体は習慣性によって自己同一的持続を支えている。    ☆ 《わたし》がであろうと 物言いをおこなう。  マーシュのねらいは ここから超越論的自我の観念論的性格を払拭し 自然的相互主観性の日常性へ還帰することにある。    ☆ 質問者の物言いにおいては 《生活世界が 初め(非     反省的態度)においても途中(超越論的還元および反省     を加える過程)においてもおしまい(本質直観が得られ     る瞬間)においても わたしの目の前にあり それは常     に大前提である》です。      とにもかくにも 《わたし》はすでに《生活世界》で     もあるということであろうし そこにはすでにわが主観     が 他者と自然本性において通底しているといった意味     で相互主観性をも宿しているとも見ている。      これは 原点ないし出発点だと思われる。意志疎通に     とっても出発点であり 人間存在がその基底において     《わたし》としてあるために最低限必要な条件という意     味で原点であると。      この原点および出発点として 先の《モナド》説が     《言語交通》説と並んで 取り上げられるようです。      《生活世界》というからには・またそう言っていても     そこに 《存在の原点》も《意志疎通の出発点》も共に     同時に宿している。わが主観は 相互主観性をすでに宿     すかのごとく備えており 共同主観を形成し得て 共同     体性をも持つと。  マーシュの帰結をさらに徹底化したことになっているカニンガムの戦略は 言語の社会性への着目である。    * カニンガム: Cunnnigham,S., Language and the Phenomenological Reductions of Edmund Husserl, The Hague, 1976    ☆ 《〈わたし〉と自称するわたしたち》から 日常世界    ないし生活世界は成る。この言語交通が 主観における相    互主観性の契機を保証している。に通じるか?  自我の習慣的持続性を支えるに必要な条件は言語であり 言語は私的ではありえない以上 すでに構成されて通用している言語が話されている当の社会が前提されないかぎり あらゆる自我について語ることはできない というのである。    ☆ へへっ! ついにわれわれの議論に追いついたか。    それにしても 《自我》とは いやはや分かったようで    分からない。のではないだろうか。  マーシュはカニンガムの帰結は 身体化と言語的社会性がすべての知の究極の前提であることを確認することであった。    ☆ そのとおり。ところが そこにも落とし穴があると     いうことらしい。次につづく。  この前提そのものの素朴性に対する超越論的反省は ここではもはや必要とされない。その意味では 彼らの見解は超越論的探究の放棄を前提としている。    ☆ この《前提》は 人間存在の所与そのものであって    大前提である。つまりは 超越論的還元および反省を重    ねて到ったその本質直観に属する。     単なる目の前の日常世界に焦点を当てるに過ぎないと    という反論だと思われる。超越論的探究に行き詰まった    というのであろう。     この単なる現象としての生活世界が 無根拠という根    拠にもとづくと見るその本質直観があるということ こ    れを見落としてはいまいか?    *  一たん休みます。(補足欄へ)。    

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄から続きます。  水野論文も 承前となります。  ◆ (水野:他者構成の問題) ~~~~~~~~~~~     ・・・新田義弘ほか編著:『現象学の現在』 pp.22-24    しかし〔* カニンガムが 言語習慣といった事象を取り上げそれに拠ってそのような日常の現象としての生活世界を前提とすることに関して そこに見られる・〕《超越論的態度》の放棄を度外視しても 〔* その〕マーシュやカニンガムの素朴な前提は いまひとつの現象学的フィルターを通過しないかぎり 一般的に承認されうるものとはなりえない。   ☆ たぶん 出発点で 見解の違いがあるからだろうと思われ    ます。言語交通ないしそれの行なわれる生活世界を前提とす    ることは すでに超越論的還元を経たあとの本質直観として    得た内容だと見る見解がありうると こちら側は言い張りま    す。  それは 科学の《自然主義的成果》によって身体と言語を《説明》するのか それとも その科学的成果そのものが《人格主義的態度》から出発して《理解》されうる意味形成体なのかどうか という《自然的態度》における現象学的区別の検閲をうけなければならない。   ☆ この一文の内容を理解するために 次のくだりを引きます。   ◆(水野同論文 pp.20-21 ) ~~~~~~~    《自然的態度》のパラドックス・・・。・・・〔* それに    対して〕フッサールの基本的な意図〔は〕あくまでも《超越    論的態度》にある・・・。     《自然的態度》をとりつづけるかぎり 主観と世界との間    に逆説的関係が現われる。主観は 認識するものとしては世    界を対象化する以上 世界の外に位置する。ところが 実践    するものとしては主観も世界の内に存在する。・・・    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ すなわち ここでもすでに出発点での見解の相違が見られ   ると言わなければならないように思えます。逆説はないという   見方もありうると。    主観は世界の内にあり そのように主観みづからを含めた世   界を事象として捉える。ただこれだけのことだと こちら側で   は考えているからです。    主観は主観じしんの内外を合わせた世界全体をあつかう。し   かもその主観はその自然本性(≒《自然的態度》)においてす   でに相互主観性を宿していると。  自然科学と社会科学の成果によって 精神物理的な自我論をキネステーゼ的身体論の背後に予想する立論は 現象学的方法からの二重の後退になるからである。   ☆ われわれは――と勇みこんで―― すでにじつは初めの《自   然的態度》(つまり反省をおこなう以前の態度)においてすで   に白紙の状態にあると言う。そこに 予備的な道しるべとして   も事後的な後づけとしても じつは 何らの理論を用意してい   るわけではない。    《身と心から成る人間存在としての〈わたし〉》を捉えるこ   とのみから出発する。そこでは 一方で個体としての社会的な   独立性にかんがみ モナドとしてのわたしを捉えそのとき同時   にすでにモナド共同体性をも見ようとしている。    他方では 《わたし》たちの言語交通のならわしを捉えてそ   こにすでに 単位体の主観は 互いに主観であると同時に客観   (他者の存在とその主観を見止めざるを得ないというほどの意)   でもあると見る。    キネステーゼは この《わたし》の機能である。そして《自   我》と呼ぶほどの何かを見ようとしていないし そんなものは    《わたし》を離れて存在するものではないと言っている。  超越論的視点を度外視したとしても 個別身体と言語共同体に関する現象学的記述を堅持するためには 少なくとも《人格主義的態度》を放棄することはできない。   ☆ モナド存在としてのわたしが言語共同体をすでにその主観    において構成するという視点は 初めの自然的態度にして    おわりの本質直観のものでもある。こう言い張っています。     《人格主義的態度》の放棄いかんは その見方においては    かかわっていないと。  超越論性を含まないこのような現象学的基礎学は 新手の《哲学的人間学》といわれている。   ☆ たぶん《新手》ではないと思われる。人間の存在を《コギ   ト》という部分的なハタラキに還元してしまう以前の――古代の   ――の哲学について見れば 新手ではないと分かるはず。  その代表的旗手はシュッツとワルデンフェルスである。シュッツは 超越論的自我の必当然的固有性の説と 超越論的に構成された私の身体と他の身体との類似性に基づいて他者主観を《移入》によって知覚する説とは 両立しないという。   * シュッツ: Schütz, A., Das Problem der transzendentalen Intersubjektivität bei Husserl, 1957   ☆ この経験的にして相対的な世界について 要素還元の手法   によって分析して得られるその究極のものは 《超越論的自我》   であるとして想定する仮説じたいは あり得るであろうけれど   そこでそれ自体について さらになお《必当然的な固有性》を   証明しようとすることは おそらく議論が堂々巡りになると思   われる。    相対的な事物や事象に その根拠は見つけられないからであ   る。どうしても相対世界を超えた絶対の領域を想定せねばなら   なくなる。想定したとき それは――人間には分からないナゾで   あるのだから―― 無根拠だということになる。    言いかえると ただの現象としての《モナド個体》および   《言語交通》の説についても けっきょくは 無根拠にもとづ   くというかたちで 同じ手法ではある。    すなわち 《超越論的態度》の放棄や《人格主義的態度》の   やはり放棄をしていたとしても その自然的態度は 本質直観   にたどり着いたという最終の条件をすでにじゅうぶんに構成し   ていると踏ん張りたい。  シュッツの人間学的解釈に対してワルデンフェルスは 生活世界の現象学の登場が超越論的主観性を撤回する理由にはならないとしながらも 独我論の解消法は 観念論か生哲学かのいづれかをとるしかないと考えている。   * ワルデンフェルス: Waldenfels, B., Phänomenologie in Frankreich, 1983   ☆ つづくところを聞こう。  《私の内( mein Innnen )》から世界構成へ進む道は ラディカルではあるが観念論であるのに対して 《世界的外部( das Weltliche Außen )》から出発する道は 人格主義的ではあるが自然的な立場へ帰る道である。ワルデンフェルス自身は みづからの学問的原領域を 《自然的態度》のなかで醸成される《対話的中間( das dialogische Zweichen )》に見いだそうとしている。   ☆ つまり どうしても要素還元をした上でなければ 議論に   (学問に)ならないと思っている節がある。     われわれは 《自然的態度》そのままでよいと考えるが    そ《のなかで醸成される〈対話的中間〉》という立ち場がある   という。それは 次である。  これは 《自然性》と《超越論性》の階位の差異と 哲学にとっての《超越論性》の不可避性と生存にとっての《自然性》の不可避性とを同時に満足させる場所は 日常のロゴスの交流のなかにしか見いだされないと考えた結果であり 日常のロゴスの交流点を《原領域》とするならば 学問的ロゴスの導出も可能であろうと考えた結果である。   ☆ たぶん はじめに全体があったと見た結果であろうと わ   れわれの立ち場からは 考えられる。全体とは このちっぽけ   な存在である《わたし》のことである。その主観である。    《ロゴス》と言うと そぐわない側面が出て来るけれど 要   するに 社会性としてどうしても意志疎通を図らねばならない   ヒトなる動物の絶対的条件(与件)としての言語交通のことで   ある。    別に《日常のロゴスの交流点を〈原領域〉とする》までもな   いとは思われる。生活世界は 逃げては行かないし 消えてな   くなるものでもない。  しかし ワルデンフェルスがいかに対話的ロゴスを原点にしようとしても 素朴にロゴス的な仕方で自然的態度へ還帰することは 結局 自然的態度以外への関心(超越論的関心)がないことを意味している とアギレはいう。   * アギレ: Aguirre, A., Genetische Phänomenologie und Reduktion, 1970   ☆ この批判の意味は 次のように水野によって説明されてい   る。  しかしひとたび現実のなかに暴力が登場するや たちまち中間性は対話相互の間のロゴス的中間から 対話と暴力との力の中間へ移動せざるをえなくなるであろう。・・・出現しているものの根拠を問うのではなく ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求へ次元のメタ性に無関係に移動せざるをえないからである。   ☆ 要素に還元したあとの《中間》であれば そういうことに   なる。《全体》――《わたし》である――がはじめに置かれていれ   ば その中で暴力も大きく言語交通の内に捉えられよう。    *

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    お世話になります。 現象学について、いま一つ理解できません、質問も整理が出来ないようです。 個々に感じる疑問を羅列してみますが、誤解している点を指摘していただけると幸いです。 1)現象学は、感覚が絶対的なものではなく、したがって、認識を放棄して、現象を本質直観により現象学的還元を行い、人間にとっての有用性を、考察することとすると、 これは、遠回りして、物質と表象を分ける以前の、素朴な直観に、戻ったことになるのでしょうか。 2)個別諸科学も、最後の観察によって(コンピュータで解読された数値を読み、二重螺旋を顕微鏡・あるいは模型で確認する)その絶対性に、疑問が表れます、経験によらない知覚が無い以上、フッサールの言う「生活世界」の境界が、どのような意味を持つのか、理解できません。 3)我々の知覚が相対的で、生きるために与えられた器官だと言う事は、理解できるのですが、それでも私は尋ねてみたいものです「光は有るのかと」 不出来の質問で、ご迷惑をおかけしますが、宜しくお願いします。

  • フッサールは《純粋意識》に もののあはれを知ったか

     《あは!》という思いを感じるときに到るキッカケを フッサールというドイツ人は 《エポケー》と称しました。わたしは 判断中断と訳すとよいと思います。  ▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC  エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή  epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。  ▲ フッサールおよび現象学においては、  エポケーは 世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。  すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。  ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。  世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かったような分からないような感じですが ひとつにギリシャ語を引っ張り出して来ているので 古代人に関係あるかも分かりません。  もうひとつに 基本的なこととして このエポケーのあとに得られる結果が 《もののあはれ》だということだと解釈します。  これをフッサールとしては 《純粋意識( reines Bewußtsein )》が得られると言っているようです。  ▲ (ヰキぺ:現象) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1  フッサールは、  哲学や諸々の学問に確実な基礎を与えることをもくろみ、  意識に直接的に現れている現象を直観し、その本質を記述する方法を追及した。  そのために彼は、外界の実在性について判断を中止し(=エポケー)、それでもそのあとに残る純粋意識を分析し記述する、という方法を採用した。  この場合、フッサールは現象について、本体などの背後にあるものとの相関については想定しない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいは 《本質直観 / 本質観取 / 本質看取 ( Wesensschau )》と言うのだそうです。  《もののあはれを知る》のほうが 理屈づけではなく全人的であると思われ その点 推奨されます。  《 Wesensschau 》は英語では Being's show と言っているのですから さしづめ《もののあらはれ》でしょうか。日本語とは 一字違いですね。  フッサールのほうは――わたし自身もおそるおそる言っているところがありますが―― 純粋意識を得て ようやく《生活世界( Lebenswelt )》に戻って来るという恰好にもなっているようです。くわしくは たとえば次のサイトをご覧ください。  ▼ (フッサールの方法とその諸問題)   http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html  この現実に帰って来たときにも・そしてエポケーの状態であはれを感じたそのときにも 《おそれ》をひとは覚えるのでしょうね。《きよらかなおそれ》。  しかもこれは ものごころが着く前の幼児のときの《聖なるあまえ》と同じ筋の状態だと確認できるのではないでしょうか。  おそらくこのことを 《ハカラヒ》を《義》と言いかえて 親鸞は 《義無きをもって義とす》と言った。  一般にヨーロッパ人は ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします。もっと全体論として捉える視点をも推し進めるのがよいと思われます。それには 日本人は――《ふつうの人》が――生活としてすでに実践している現実があるはずなのであり その生活の歴史の中からさらに哲学のあたらしい展開のために 見直すのがよい。歴史を洗い直すのがよいと考えます。  俳句や短歌は それだけでは 文学としてもまだ練れていないと考えますが その生活感覚の中に 哲学の鍵語が得られるかも分かりません。  当否を問います。

  • 本質の意味についてご教示お願いいたします。

     本質という言葉の意味がいまいちよくわかりません。 辞書を引くと以下のような解説が出てきました。  (1)あるものをそのものとして成り立たせているそれ独自の性質    (2)変化常ない現象的存在に対し、その背後または内奥に潜む恒常的  な   もの。  (3)実在に対する語として、なんらかのものが現に存在しているとい  う事実から離れて、そのものが「何」であるかという定義によって   いわれているもの。     あまりにも抽象的すぎてわかりません。    (1)~(3)までの本質の意味を具体例を交えてご教示いただけまし   たら幸いです。     又、僕なりに(1)と(3)の意味を考えて、具体例を交えて書くの    で、    それが正しいかそうでないかの判断もお願いします。     (1)は、ある物事の定義されている性質の事でしょうか?哲学    の本質を言うならば、「前提や問題点の明確化、概念の厳密     化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な    主題について論じて研究を進める学問」がその本質なのでしょ    うか?(WIKIPEDIAを元にして本質を定義しました。     (3)は、例えば1+1はいくつか?という問題があったとした    らその問題の本質は「足し算」。    

  • 電気の本質を理解したいのです

    私、一応機械工学を修めたエンジニアです。 電気の電流や電圧は現象を説明する上で便利な「概念」と理解しています。 さて、電気を使って何らかの仕事をさせたとします。このとき消費されたエネルギーの正体はなんなのでしょう。電子が消費されたわけではない、負荷の前後で電流値は変わらない。電圧が消費されるわけでもない。電子が持っている何が消費されるの? (水力機械にたとえた説明は本質なの?)

  • 「現象」ってなんでしょうか?

    最近、ふとした事で認識学とか科学哲学としての「現象」という言葉を聞きました。 面白いな、と思って調べてみようと思ったのですが現象学という本は見つかっても 「現象」そのものについての本は見つからず現象学というのが「現象」についての 学問なのかも良く分かりません。 (人にとって)見えるもの、つまり(外面的な)<<現れ>>のこと。出来事を、それが存在するかどうか、本当かどうか、といった、その見える<<現れ>>の背後にあるものは問題にせずに、その観察された<<現れ>>として扱うとき、それを「現象」と呼ぶ。対義語は本質。(ウィキペディア2012/02/02) 私は特に上記のようなものがすごく面白いと思うのですが、人に説明をするほど理解することが出来ません。 もし良ければ分かりやすく教えていただけないでしょうか?

  • 物事の本質を“ズバッと”言い当てている本

    23歳女です。物事の本質を言い得ている本を探しています。 以前人間関係を見直そうと思い、 カーネギーの「人を動かす」を読みました。 なんというか…深さ、潔さを感じさせる内容で 言葉がスーッと心に染み入るような感覚がありました。 そして読後とても爽快な気分になりました。 以来実用書を選ぶ時には、 本質を突いているかどうか?という点を意識するようにしています。 ちなみに最近気になっている本は ・藤原 正彦 「国家の品格」 ・M・バフェット「億万長者をめざすバフェットの銘柄選択術 」 ・ボブ・ディラン「ボブ・ディラン自伝」 です。 ジャンルは問いません。 “ホンモノ”な本を教えてください。

  • 宗教の本質

    宗教の本質 哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。 1.宗教の発生時期   宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。   どのような原始社会においても宗教は発生しています。   宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。 2.宗教の種類と数   宗教は全世界に溢れています。   その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。   また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 3.宗教を構成するもの   宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。   この3つの概念を備えない宗教は存在しません。 4.宗教の宇宙観   全ての宗教は有限宇宙観に支配されるものです。   すなわち宇宙はある一時期をもって開始し、その広がりは有限であると。 5.宗教を動かすもの   宗教は心地良いものです。   修行と名のつく様々な宗教的所業も結局心地良さの追求です。   酒を飲むと心地よくなるのと同様の現象です。   もちろん酔いが醒めると辛いものが待ち受けておりますが、宗教も同様であることに説明の必要はありません。 6.宗教の目的   宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。   これは古代エジプト王国などをみればよく分かることです。   大勢の奴隷を効率よく統治管理するための道具として有効利用されたのです。   この状況は根っこの部分においては現在でも全く変わっていないと言ってよいでしょう。   国が宗教を擁護するのもこのためです。 7.宗教の未来   統治の道具としての宗教の力は既に失われています。   これは近代科学、近代文明が発達した結果としての自然の成り行きなのです。   それと同時に宗教を支配した神、天国、地獄の3概念もそのイメージが次第に弱まってきました。   つまり宗教の役目は失われつつあり、既に宗教の時代は終わったといってよいでしょう。 8.宗教の次にくるもの   それは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。 御意見ください  

  • 本質直観について

    こんにちは。 現象学の本質直観について、 具体的なやり方が 詳しく載っている本があったら教えてください。

  • 哲学。結局、「他者」とはどのように理解できますか?

    社会学系の大学院で課題のレポートを書いています。 講義でフッサールの現象学においては、「世界」は意識の志向性とそれに応じた現われである、ということを学びました。その場合、物質的なものに対してはなんとなく理解は可能な気もしますが、他者(他我)についてはどのように理解すればよいのでしょうか?なぜ、他者と概念的な共有可能で関係性の構築が可能となるのでしょうか?(言語の意味はなぜ他者と共有可能(のように感じる)のでしょうか?  いろいろ見てみたのですが、議論が膨大すぎてどこから手を付けていいかわかりません。もし詳しい方がいらっしゃいましたら、フッサールの時代から現代にいたるまでどのような議論がなされてきたのか簡単な流れについて教えていただければ幸いです。(記号論?等についても)