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哲学と宗教の違いはどこにあるか。。

哲学と宗教は違うと思いますか? 違うとすればどこにあると考えられますか? 宗教とはどのようなものであり 哲学とはどのようなもの その特徴とか。。 ・

みんなの回答

  • sibat0901
  • ベストアンサー率10% (1/10)
回答No.12

回答者へのお礼をみていると、おまえは無駄な知識が多いな。

agripapa
質問者

お礼

君は必要は知識が不足してる上に間違った認識をしてるのかな?

agripapa
質問者

補足

ああ。。わかる人にはわかる暗喩というのもあってねww

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回答No.11

素人ですので、間違っていたらお許しを請う事になります。 哲学は人間の理論脳の答えを探す事に重点を置いて『思考』するところに存在すると思います。つまり『言葉において表現する事』です。 宗教は人間の内面や環境など全ての存在の把握を目的としていると思います。つまり『人間の存在を内面から、外面に向かって思考する事です』 処が人間の思考方法には『言葉によらない思考方法が存在します』この思考方法の結論が在ります。その結論が『キリスト教においては、神と和解する事』です。『仏教においては、自分自身に内在する、命の働きを知る事』です。言葉を替えて表現するなら『見性』です。つまり悟りを開くところが、その最大眼目という意味になります。 今書いた理由によって結論つけられる事が在ります、哲学は健常者たる人間としての知的欲求、或は探究心を満たす事がその目的になっていると云う事になります。つまり『知的疑問の解消です』言い方を換えるなら、人間としての疑問を『苦悩しない範囲での』疑問の解消を目的にしている事です。 もっと言うなら『人生の意味を、苦悩しない範囲で、知的な解釈を見つける事』と思います。 宗教の場合では、同じ人生の意味を、『苦悩しながら、或は深刻な苦悩の中にその意味を探す事を意味します』つまり『人生の意味を魂の苦悩の叫びとして見つけようとする、心の働き』という言い方が出来ると思います。つまり『魂の救済』が宗教の目的と思います。 この『有限の命に対する』救いのない人生に存在する『我』の救いを求めて行く事が宗教の目的になっているという意味になります。 純粋に哲学に傾倒する人は、人間の悩みが分からない事を意味すると思います。その意味は健常者と言う人が『心を病む人や、悩みが深い人の心の内面を、想像さえ出来ない事』に通じています。 従って人生の意味を同じ探る事を目的としながら、哲学では苦悩しない思考方法で探る事事になっていると感じます。 宗教の場合では『人生の意味を深刻な悩みや疑問として』その解消方法を探す事を意味します。 人間の心の矛盾の解消が『宗教の目的』になっている事を意味します、言い換えるなら『人間の悩みや疑問は、人間の心の矛盾』を感じている事を意味します。 つまり『魂の救済』とは『心の矛盾の解消』と云う事を意味しています。 と言う事で『人間には二つの心が存在している事を示唆していますので』その根拠をウイキペデアから載せておきます。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” この脳の機能分化が完成される事を『聖書』では、知恵が付いたと表現しています。機能分化が完成される頃、つまり思春期頃から『人間は天国から追放されてしまう』という意味ですが、悩みが始まると言う意味です。 二つの機能として働き始める『二つになった人間の意識が』別々に独自に勝手に働き始めることを意味します。 このもう一つの意識は、機能分化が完成した時、『無意識の奥に封印された形で、隠れてしまいます』この封印された形で存在している事が、今の医学の盲点となっています。 という意味は、『心を病む事や、神経症や、自律神経失調症や心身症』等の、検査をした場合に異常が見つけられない場合の原因を特定出来ない事と関係があります。つまり『心の矛盾』がこれ等の原因と言う意味です。

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回答No.10

 亜具立派さん。  後半の細くはあくまでも軽口でした。  しかし内容はよく読んで判断した方がいいと存じますよ。  お礼欄と補足は余りに回答者の気持ちを踏みにじっていますね。

agripapa
質問者

お礼

ユダヤ系の人の形した神じゃんなくてインド系の梵でも見てきましたってか? ・

agripapa
質問者

補足

;自己の成り立ちと深奥と根底に到って(推論的結論ではなく、その存在になりきって)その中に一切を観、有し、存在させる 嘘抜かせ湯桶読み みたいなw ・

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

哲学と宗教は違うと思いますか? ○こういう質問に接すると、月とすっぽんがイメージされます。すっぽんが月を観てあれは哲学か宗教かと問うているように思えてなりません。 思考過程において正邪、正しいか間違いか、あるいは正義があるかどうかを判断する基準、それなくしては思考もそれに伴う行動も人間のものとはいえなくなります。人間であるためには人間であるための基準が存在します。それらの基準を哲学と表現しょうがが宗教と表現しようが、それは勝手であろうと思います。生存中の人間知において、宗教の範囲はあの世とこの世の範疇を含み、哲学の範囲は主にこの世の範疇と捉えるかもしれないが、それもすっぽんの考えであり、月から見ればなんら変わらないものですね。 哲学も宗教も個別に観れば玉石混交の領域ですが、真の玉は同じものということですね。おおくのものが巷にある石を玉と勘違いするので判らなくなってしまっているだけですね。

agripapa
質問者

お礼

石。。 ・

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.8

哲学と宗教は異なるものですが、密接した 関係があります。 特にキリスト教との関係が強いです。 つまり、哲学の根本は存在論ですが、 キリスト教によれば、神が人間を創ったと いうことになっています。 そして、神は人間を特別なモノとして創った。 人間は神の姿に似せて創られたのだ。 だから、人間の存在には他の生き物とは異なる 何か特別な意義、意味があるに違いない。 存在とは何か。 こういう考え方です。 だから日本のある哲学者はキリスト教信者でなければ 本当に哲学を理解することはできない、 日本人には無理だ、とまで言っています。

agripapa
質問者

お礼

もはのの間違い どえしたw

agripapa
質問者

補足

キリスト教信者じゃなくてユダヤ教とは何かを知る も間違いじゃないですか? もっとも。。。。。 ですが ・

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回答No.7

 哲学は自己だと誤解している自意識の君臨している思弁・推論のが是認し満足するように結論を出し、その中に所有してしまう。  宗教は多様であり、一般論ではいえない。そして同じ宗教でも、人によって自己を以って、そして固持して理屈で考えている人もおり、ただ信じている人もおり、盲目的に頼っている人もいる。  理念としての宗教では世界と自己の成り立ちと深奥と根底に到って(推論的結論ではなく、その存在になりきって)その中に一切を観、有し、存在させる。  これはagripapa氏ならばできることであり、凡人には地上に把われ捉われている間はできない。  agripapa殿、自分のやることを見つめ、どうか早く自己への任務を遂行してください。

agripapa
質問者

お礼

煽てられたら気をつけなってのがあってね 以下余韻無し

agripapa
質問者

補足

中身も何も知らないのだろうのに。。。

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noname#150682
noname#150682
回答No.6

哲学は、疑い考える事から始まり 宗教は、疑わず信じる所から始まる。

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  • sibat0901
  • ベストアンサー率10% (1/10)
回答No.5

哲学は自分で答えをだします。 宗教は他人の答えに頼ります。

agripapa
質問者

お礼

雨上がりのため池で遊ぶ小魚は海の深さを知らず 庭先で遊ぶ小鳥は空の高さを知らない ・

agripapa
質問者

補足

ソクラテスの産婆術は自分から積極的に答えを出そうとしてないですよね あれはそうすると哲学ではないのかな? 宗教は他人の答えに頼るのではなく 非思考で頼れと言ってるのではないですか? もっともらしそうに言ってるけど 何もかもが嘘っぽいなぁww

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  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.4

我思う故に我在り、と思うのが宗教で 我思うされど我なし、と考えるのが哲学 心を大切に、が宗教 心を捨て知恵によりて見よ、 が哲学 思惑愛好家の拠り所が宗教 愛知者(哲学者)の拠り所が哲学 文学や芸術の基が宗教 幾何学や物理学の基が哲学 バラモン思想の対立物として起こり栄えたのが釈迦の哲学 バラモン思想の反抗として起こり、釈迦の哲学を滅ぼした、 大乗仏教=ヒンズー教が宗教 古代エジプトの神を自分たちだけの神に作り替えたユダヤ思想が宗教 反ユダヤ思想としてのギリシャ思想と、近代ドイツの思想が哲学? 死は無であるが宗教 死は、死体、白骨へと転化する、が哲学 多弁が宗教 無口が哲学           落書き終わり。  

agripapa
質問者

補足

無窮なるかな 天 ・

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回答No.3

こんにちは。  エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。  このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。  この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている   ならば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあ   やまちとして気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひと   を殺すこともなければ むさぼることも裏切ることもなかろう。  といった規範を得る。  この規範を どう思ったか 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。  一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。  やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。あるいは どの人の思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。

agripapa
質問者

補足

天がける 龍尾 なんちゃって http://www.youtube.com/watch?v=U19rg7vCgN8&feature=related

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