無友不如己者とは?

このQ&Aのポイント
  • 無友不如己者という言葉は、論語に出てくる一節です。この言葉は、「自分より劣る者を友とするな」という意味を持っています。しかし、この考え方にはいくつかの解釈があります。
  • 一つの解釈は、孔子にとっては「自分が友と思ってれば、相手がそう思ってなくとも友」ということです。つまり、自分より優れている人がいても、その人を友と思って接することが大切です。
  • もう一つの解釈は、「自分と同レベルの者と付き合え」ということです。自分のレベルが少し上がったら、新しい友人を作ることも大切だと考えられています。
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無友不如己者

論語で「無友不如己者」という一節があります。 これは、「自分より劣る者を友とするな」という意味ですが、これを守ろうと すると一生、友達なんかできないような気がします。 私より劣る人を相手にせず、私より優秀な人と友人関係を築こうとしても、 その優秀な相手から見れば自分は劣っているので、相手からは相手にされなく なってしまうからです。 となると、字面よりちょっと深読みすると、以下のふたつの解釈のどちらかに なるのかしらと思いました。 (1)そもそも、孔子にとっては、「自分が友と思ってれば、相手がそう 思ってなくとも友」 要は、「自分より優れている人がいると思えば、例え相手にされなくても、 その人を友と思って接しなさい」 →他人に相手にされないのは、ある意味、惨めな生き方です。レベルの高い 人だけを見ていて、なおかつ、自分が試行錯誤しても成長できなかったら、 それは、その人にとって、ものすごいストレスになります。 (2)「自分と同レベルの者と付き合え。自分のレベルが少しあがったら、 今までの者とは距離を置いて、少しレベルが上の新しい友人を作れ」 →同レベルだと、なかなか、人間的にも能力的にも成長できないような 気がします。程度の高い人と接することで、触発されて成長するものだと 思うので・・・ となると、どう解釈すればいいのかなあと思っています。 真意について、統一見解などあったりするのでしょうか?

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回答No.2

 学而の第八  子曰、君子不重則不威、學則不固、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改ですね。  まぁ鉄幹の   友を選ばば、書を読みて、六分の侠気四分の熱っていうようなものですかね   自堕落になっていくような友は選ぶな   安易に誰とでも適当に付き合うな   自分のこれから修行し精進することと傾向の違うものを選ぶな   友は大事だぞ   ともに切磋琢磨する関係になれ   自分に楽させてくれる人は友ではないぞ   というようなことでしょうか。   君子、重からざれば則ち威あらず(軽佻浮薄に挙措動作するな)、学べば則ち固(頑なではない)ならず。忠信を主とし(真理と同義に忠実で信頼を培え)、己に如(し=似つかわしくないものを)からざる者を友とすることなかれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ  とでも解釈できますね。まぁ#1さんの自由な解釈をしなさいに励まされて。下村湖人の論語物語も読んでみるといいですよ。角川文庫であります。

misawa1985
質問者

お礼

日本の文壇の方々も、論語の解釈をしているのですね。 で、どう解釈できるかは、読み手の人生経験にかかってくるのですね。 偉人たちの解釈や、自分の人生経験を交えながら、論語に親しんでいこうと 思います。 どうもありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1444/3521)
回答No.3

遅くなって恐縮ですが、ご質問の件に関連して考えたことを回答させてください。 学生時代の私であれば、ご質問と同様の疑問を持ったと思います。「すべての人が『自分より劣る者を友とするな』と考えて実行すれば。友達なんかできないのではないか」いうのは理屈としては一応もっともです。ただしよく考えますと、そうした疑問が生じるのは、「劣る・優れている」という個人の評価を、例えば学校の入学試験の成績のように、最終的には一番からビリまで総合して序列を付け得るということを無意識のうちに大前提にしているからだと気づきます。 しかし現実の社会に生きている人間の評価はそう単純ではありません。Aさんは体力に優れ。Bさんは知力に優れ、Cさんは胆力に優れ、Dさんは思いやりに優れ…というように、それぞれ分野を限定すれば優劣を付けることができても(それも困難であることは確かですが…)、個人を総合した優劣や序列など、とても付けられるものではないし、また付けるべきでもないと考えます。変なたとえですが、数学で言えば、実数と全く同じようには複素数の大小を比較できないようなものです。そして人間は複素数よりもっと複雑です。 そうであれば、それぞれが相手のことを「自分より優れたところがある」と考えて友達になることができますし、自分の体験からもそのことが言えると思います。論語のこの文章は、「悪い友達と付き合って、『朱に交われば赤くなる』と言われないようにしなさい」くらいの意味に考えていればいいのではないかと、学校を卒業して長く経ってしまった今の私は思っています。

misawa1985
質問者

お礼

回答いただきまして、どうもありがとうございました。 自分より劣る「者」というより、劣る「部分」と考えるという感じでしょうか。 私も、そういうことになるのかなあと思いはじめていました。 どうもありがとうございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

    ご参考までに     http://izayoi315.blog98.fc2.com/blog-entry-1461.html    「くだらない人を相手にして、えらそうにしないこと」という解釈には下記を         http://bonjinrongo.seesaa.net/category/2847587-1.html     いろいろありますね。     統一見解を求めない事が儒教的だったりして、、、

misawa1985
質問者

お礼

人それぞれ、いろいろな解釈で論語に親しんでいるのですね。 私も、自分の見解を他者に伝えつつ、他者の見解も教えてもらいながら、 論語を読んでいこうと思いました。 教えていただきまして、どうもありがとうございました。

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