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『存在する』に物理法則は不要なのか?

存在が存在するために原因が有るのか、無いのか、分かりませんが、存在とはただ存在しています。 また、物理学では、存在が存在するという存在の本質はつかめません。 何故なら、物理法則自体も何故存在しているのか分からないけれども、ただ存在しているだけでしかないからです。 結局、何故だかは分からないけれど、存在とはただ存在しているとしか言いようがありません。 つまり、何故存在が存在するのか? という存在の本質を考えると「何かの原因によって存在が存在するという結果に結ばれる」というような因果律も存在しないし、それが成り立ってもいない、因果律によって「存在が存在する」という存在自体の本質に対して考えることは全くの無意味です。 もはや、ただ存在するとは因果律を超越していると言わざるを得ない結論にたどりつきます。 それなら、宇宙は『魔法の世界』と言えるかもしれません、存在するとはまるで魔法そのもののようです。 『存在とはただたんに存在する』のなら、因果律が成り立っていないし、そして因果律を超越していると言えます、また、物理法則自体も『存在する』ということ自体を説明するものではありませんし、また、物理法則は存在の原因にも成り得ません、物理法則は存在を存在させるものでは無くて、ただ存在に秩序を与えるものでしかないのなら、物理法則によって存在が存在しているという訳では無いことになります、結局、どこまで遡っても存在はただ存在しているとしか言いようがないからです。 因果律が無意味なら『存在はただ存在するだけ』であり、『存在する』ということに対し物理法則(秩序)は不必要ということでしょうか?それとも存在に物理法則は必然でしょうか? 必要ない場合、物理法則が無い状態のただ存在するという『物理法則に縛れない存在』(無秩序)が可能ということになりますが、物理法則を持たないとは一体どのような状態の存在でしょうか?(法則が全く存在しない状態など想像できません) 例えば、その『物理法則に縛られない存在』とはまるで魔法のようで、秩序が無いということは、つまり、無限の可能性を秘めている存在なのでしょうか? 存在するということを原因と結果では説明できませんしそれは無意味であり、存在とはつまり原因と結果を超越していて、存在とはただ存在するだけでしかありません。。

みんなの回答

  • sibat0901
  • ベストアンサー率10% (1/10)
回答No.13

絶対の世界と相対の世界を混同されているようです。 因果律が働くのは、相対の世界のみです。 絶対の世界、つまり存在がただ存在するだけの世界では、因果律はありません。 絶対の世界の存在が自らのあらゆる局面を経験するために、自己を分割して相対の世界を創ったのです。 結果とは、ある時点の出来事ことであり、それには時間の要素がないと、ある時点が区切れません。 絶対の世界では、時間・空間はありません。 時間・空間は相対の世界の要素です。 おっしゃるように、”存在とはつまり原因と結果を超越していて、存在とはただ存在するだけ”です。 その存在とは、絶対の世界の唯一の存在=我々の生まれでた元 のことだと思います。

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.12

それって。。 あれのこと? かな ・

  • eld3399
  • ベストアンサー率4% (16/345)
回答No.11

存在を追求すると、ただ「それ」としかいえません。宇宙に漂っている「それ」です。

noname#194289
noname#194289
回答No.10

デカルトのコギトエルゴスムのことでしょうか。存在を支えるために物質的前提が必要かどうかということなのかもしれないと思いました。デカルトは物の存在と、それを知る心の起源は別としたのではないでしょうか。しかし体あっての心というのは否定しにくいように思います。つまり体の中にどうして心が生まれてくるのか。そこで物質とは何かという話になるのかもしれません。

回答No.9

量子論的世界像では、有限な存在性は観測によって生じています。 不確定性原理の相補的不確定性を、確定化して無限不確定性に 発散させないよう、階層現象表面(仮象)的に“いい加減”に捉える 事で、有限的な存在性(宇宙)は派生している、ていう。 自我仮説と時空仮説の相補分化‥‥全ては、あなたが存在する ための(物理的根源にまで遡った)補完なのです。 (自分を切り取った雌型が環境) 相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によってしか 存在性は無い、という帰結を潜在的に持っています。 絶対的時空や客観的存在というのはない、というものであり、認識性 (相対)を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、 「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の感受 表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去=超光速) による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生しているのです。 無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性」の相補としての 「時空仮説性」。 「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の 収束におけるhの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸と なって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、超光速(過去 =経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化する受け皿となり、 同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事で相補的不確定性を生じ、 経験による予測=現象表面的定性化における有限的存在(=非光速)を 幻出しているのです。 その仮説的時空軸は、(相対性理論において時間項がマイナスゆえに) 等距離点に「ライトコーン」と呼ばれる、0の界面を生じます。 なぜライトコーンかというと、それこそが光の描く軌跡だからです。 「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた 時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、 存在は生じていると言えます。 換言すれば、無いとは分からない事が有なのです。 物理とは、その“存在幻想”を無へ還元するプロセスだと言えます。

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.8

存在と物理法則についての十分な答えではありませんが 私の考えは以下のようなものです。 物理法則ではなく物理学法則として考えます。ご承知のように観測により得られる観測値の説明は 因果律に従う論理の一つ物理学法則と思います。まだ論理解として不十分としても将来に論理解はみつかると思います。しかし、観測以前の説明は 必ずしも因果律に従っていなく論理ではない ことを量子力学が示しているのです。しかも 量子力学の予想にしたがった期待される観測事実は いまでのところ例外なく間違っていないのです。量子力学は物理学法則の一つですので 物理学法則は観測後は論理であり 観測以前は必ずしも論理ではない というのが現状とおもうのです。 そこで お考えの存在ですが 観測に掛かれば論理物理学で説明できますが 観測以前なら 非論理であってもおかしくない とおもいます。量子力学が非論理であっても なぜ重要視されるのか は予想が100%期待を裏切らないからです。再現性が重要とおもうのです。観測以前の存在から導かれる答え が有用で再現性があれば いかように考えてもいいと 思います。この延長には物理学は有用、再現性に重点を置いた見直し(論理的法則の見直し)が掛かるべき だという主張があるということです。 ここで もっと拡大して考えます。この場合 個人の脳内のメモリーにある存在という言葉で表されるモノは個人の恣意的な思考を含んでおり 必ずしも だれもが納得できるモノ(再現性)ではない と思います。この固有の その個人しか納得できない存在は その個人にとって有用と考えることが出来るなら有用なモノでしょう。まあ 害を与えない限り 勝手に考えても いいのではないか と思います。 しかし、一方では 淡い期待ですが 量子力学の非論理部分は 物理学法則として未完成であり あくまで物理学法則は論理の一つである という主張は根強くあります。物理現象は全て 論理で説明されるべき であるという未完の思想です。 以上参考までに

回答No.7

「存在」は 最初から存在していたとしか考えようが無いと思います。 しかし、それも 考えてみれば あまりにも衝撃的謎ですよね。 ですが、 さらに それを意識できる私が 同じ様に意識できる可能体として生きている生物である《私たち》の中にですが、  存在しているという事実は、    つまり たった今こうして キーを打ち たった今(その時間の今ですが^^)これを読んでいる彼方が「ここ」にいると言うこと自体、さらに衝撃的謎なんですよね。 これを「神」と読んだところで 何もわからないままです。 「神」という言葉を使ったとたん、 解らないはずのところを 解ったつもりになれるだけ^^です。 逆に イメージの中で勝手に謎を操作しているだけとなり、むしろ実際には その?に驚けなくなります。 質問者様は、 その不思議に驚いている人、深く気が付いている人なのだと思います。 が そこから、。「》無限の可能性を秘めている《& 》魔法《」を連想するのは、何故ですか? そこを こちらから質問したくなりました。 キリスト教哲学者たちは、そのへん神を「超自然」と位置づけているようです。 神のことは 人間の脳で解釈は出来ないけれど 存在それ自体がそうであるだろうように 超自然には違いないというふうにです。 そのような意味での神を求める心なのでしょうか? 存在とは 神そのものの何かなのでは?!という感じの期待感です。 神は死んだ、 ではなくて^^、 その逆に やっぱり神とともに(対話ができる空想上のものではなくて)存在している その不思議で確かで新鮮で無限な可能性とともに存在しているという何かの 気づき でもごくあたりまえの ただの気づきと  がゆえの実際の ある魔法の世界をです。 違いますでしょうか? 実際の私たちの誰にも可能な気づきの問題ですから この際キリスト教徒は一切かかわり無いことでもあるわけですけど、 そのへんは「キリスト教にも一理ある」というふうな^^。 私自身の考えは 単純に  たった一枚の葉っぱすら  心という存在は それを無限に豊かに味わえる可能性を持って この奇跡の星の大地の上に生きている 「 健康であある限りにおいて」」という  本当に単にスポーツや健康の愛後者であるだけです^^。 でも ほんとうに 一枚の葉っぱの存在すら 無限に豊かでありうるのです。 あるときは 都会の病気で苦しんでいる人の窓辺から覗いた葉っぱに 雪が降り積もり  あっ とその人の心は 心だけさへ健康を取り戻し 心安らぐかもしれません。 まあ このへんも キリストの言うように 子どものような心、 新鮮で 混じりけの無い感性と関わるのでしょうけど、 つまりたいていは 大人のそうした感動は 子供の頃のなんらかの記憶と関わる、海馬領域の脳にもたらすものなのでしょうけれど、 それもこれも含めると 水が定着した奇跡の星は あまりにも豊かです。 つまり もうすでにある意味 魔法です。   でも 弱い 死にゆく 生物でもあるのですよね。 私は 存在を信じます。 いつか 命は 海馬領域とともに復活して(というか 魔法なので そんなのは当たり前のこととして^^)  この 何よりも懐かしい(その可能性ということにもなるのですけど…) 同じこの地球に戻ってこれるとも信じています。   霊が生きていて 精子にやどって生まれ変わるというのは作り話に思えてしまう人間なのですが、  事実としての存在 とは 人間にとって そういうもの というふうに信じるというようり 感じてしまっています。 だからなのでしょうけど、 永遠の命というより( これもし ただ飽きるだけの感性だったら そんなもの地獄でしかないです) 永遠の新鮮さの可能性を存在に見出すという 実際の驚きの世界、 悟りとかとかの たいそうなものではないですよ^^。 それは 弱い生物として苦しんでいる 同じ仲間としての「友」としての 私たちの  今 しか心に見えないというか関心が無くなる世界だと思うのです。 あるいは 他に生物としての逃避性とかが命を支配してしまう時もあるでしょうけど その限界内においてはですけど    この世に苦しみがあるという一点を   ただ せつせつと   なんとかしなければと思う気持になるということです。 これ わかりますでしょうか?       永遠に生きられるんだから 今の苦しみなんて本の一瞬の幻に過ぎない などという理屈とは 真逆になるということです。 そこが 空想の中の永遠の命とかとの 違いです。 愛の気づきと言えば 言えないことないですけど、 これも 愛の悟りとかではないですよ。 たいしたことないですから、 ただの当たり前の 相身たがいの気づきです。 日本人がもともと かなりの特性としてもっていた心の世界への回帰みたいなものです。 言いたいこと解っていただけましたでしょうか? 当たり前の 人間性への より確信犯的な回帰への希求が、 そちらの質問?自体に、 存在しているのでは、 と思ったということです。 ニュートンの時代の科学者は、もっと 存在の不思議に謙虚だったと思います。 ニュートンは、膨大な実験資料とかが置いてあった小屋が 一匹の子犬が原因で火事となり、一瞬に燃え尽きてしまった時にも その子犬が無事だったことを喜び 抱きしめたと言います。  それを見た人が不思議がっていると 「私のこんな資料や知識なんて 神の前には 宇宙の中の砂粒にも満たない。  この子犬の命も 存在だ」という意味のことを言ったらしいです。 いずれにしても ビックバンまでの壮大さがわかってきたというのに それに驚く謙虚さの方は 失いたく無いものと思います。

noname#143207
noname#143207
回答No.6

 はじめまして、ひどっち と申します。 > 結局、どこまで遡っても存在はただ存在しているとしか言いようがないからです。 因果律が無意味なら『存在はただ存在するだけ』であり、『存在する』ということに対し物理法則(秩序)は不必要ということでしょうか?それとも存在に物理法則は必然でしょうか?  一応、ひとの観点から見ますと、人間原理という説がございます。この説を鑑みますと(もちろん、証明はなされておりませんが)、「物理法則は必然」となろうかと考えられます。 ・弱い人間原理と強い人間原理  人間原理には弱い人間原理と強い人間原理があります。前者は、「宇宙の年齢は100億年以上である(偶然ではなく、人間の存在によって縛られている)。なぜなら、主として重元素からできている太陽系や人間が存在するためには、宇宙の開闢当時存在しなかった重元素が星の内部で合成され、それが星の爆発によって外部に放出され、そこから太陽系ができるまでに100億年以上かかるからだ」といったものです。  強い人間原理はさらに論を進めます。「宇宙の存在は人間のような知的生命の認識にかかっており、もし宇宙に知的生命がなかったとすると、その宇宙の存在は認識されないのだから、存在しないも同然である」とまで主張します。   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8E%9F%E7%90%86#.E5.BC.B1.E3.81.84.E4.BA.BA.E9.96.93.E5.8E.9F.E7.90.86   ご参考になれば、幸いでございます。

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.5

美人も綺麗だと思うから綺麗に見えるだけで、ありのまま観ると奇妙だったりします。演奏も名曲だと構えて聞くからなめらかに聴こえるだけで、実際はでこぼこだらけです。 ということは、存在というのは概念と記憶の構成物でしかないのかもしれません。 ある存在がそのように存在するように感じるのは自己と人類の内部にある概念と記憶の蓄積のせいであり、因果はそこにありそうです。

noname#176957
noname#176957
回答No.4

人間は真理を直知できません。 因果は、人間の脳が世界を理解するための「思いこみ」の様なものであることは、ヒュームによって明らかにされているではないですか。 また、物理学をはじめ科学は、真理そのものではありません。人間の思いこみの中で、最も実践的であったものの集まりに過ぎません。例えばコペンハーゲン解釈が支持される理由は、それが数式として実用的だから、というだけのことだそうです。 その点を踏まえると、ご質問は「物理法則」なる言葉の使用に関して、幾分かの混乱が見受けられる様に思います。もともと「物理法則」とは、「存在するとはどういうことか」といったことを説明するためのものではないのです。

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