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浄土教から見た「自灯明」

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.20

 No.4&14です。  ◆ (歎異抄) 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。  ◆ 親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。  ☆ このような命題は 案外《自灯明》という見方に かたちとしては似ているかも知れませんね。  とは言うものの 他力本願のもとにこの《ひとり》の思想が生きられることにも間違いありません。  何やらおかしなことが言い始められています。  アブラハム(初めは アブラムですが)は ふるさとを去って行けというお告げのようなヒラメキとその基礎としての信仰からすべては始まっています。  そのような旅の思想は ひとつに人生そのものが この世界への一時的な滞在であり巡礼の旅路にたとえられることを示すとも言われます。  あるいは もうひとつには――旅とは別に―― ひとつの土地への永住にともなわれる慣れから来る思考の停滞を避けたとも。  習慣から来る惰性を避けると言えば ここで人間にとってその存在をめぐって《ひとり》という思想にもつながります。  つまりは アミターユスもしくは神というのは あくまでその如来もしくは神と《われ》との一対一のかかわりにおいてある。こう言おうとしていたと思われます。(ほかの意味もある中で そのひとつとしてです)。  言いかえると 日の神の信仰を初めとする自然(自然なる神々)の信仰とそこから来る個人的な慣れや集団としての慣わしの問題も起きて来ますし。そしてナラワシにまでなればその社会におけるムレ(群れ・村)が ひとりの人間にとってその自由をさまたげるという問題も起きがちです。  つまりは アブラハムの信仰も親鸞のそれも このようなナラワシおよびそこにおけるムレ(群れたがるくせ)といった問題情況にあって一人ひとりの自由を守る――そしてそれにもとづき共生をはかる――ことを旨とした。あるいはつまり そのため以外のものではないでしょう。  その後の旧約時代の民族共同体としてのまとまりや新約時代からの教会制度やあるいは宗派をつくっての信徒団体としてのムレに片向く動き これらは あくまで歴史において派生してしまった副作用です。  ムレタガリが――悪貨は良貨を駆逐するのナラワシのとおりにのごとく―― ほとんどそれは付和雷同であるなら無効であるのに勢力を盛り返して 基本理論としてつねに有効な民主制なる自由をさまたげて 社会力学じょう有力になっただけのことです。  (現代では ムレタガリと民主制とのすり合わせが模索されていると思います。むろん後者の有効性を活かす方向にだと思われます)。  といった過去および将来についての見とおしも 大事だと思うという投稿です。  * 門徒だとおっしゃっていますのに もし理論として言うとすれば 信徒の組織を再興した蓮如は親鸞の考え方とはほとんど何の関係もない こう考えます。信徒たちの個人的な集まりや自由な助け合いは別ですが 宗派のための団体組織は 廃れるがままにしておけばよかった。その素地から《ひとり》の思想が根づいて来ることが いまにおいても 待たれます。  このようなアブラハムないし親鸞の信仰にもとづく《ひとり》の思想は 決していわゆる個人主義に堕すことなく《われ》としての存在観――互いにわれであることをとおしての縁起共生の思想――を今からでも芽生えさせて行くことでしょう。  * なお信仰においては――それは 非経験のナゾをめぐる非思考の姿勢を言っていますから―― 他力は 絶対他力のことですが 自力については それは人間の存在や能力が有限なのですから 絶対自力ということはあり得ません。それでも 聖道門において自力が説かれるとすればそれは おそらく無神論という信仰にもとづいている。こう考えられます。  《無い神》を信じている つまりそのようなやはり絶対他力の信仰である。おそらくブラフマンなる主宰神を避けた結果 そのような自力の思想が――無神論のもとに――それだけに焦点をあてるかたちで 引き出されて来たのでしょう。  自力と他力 あるいは 自灯明と法灯明 これらは それら自体として取り上げることは 屁の河童だと思います。

indians
質問者

お礼

重ね重ねありがとうございます。後半の部分、特に共感できます。

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