• ベストアンサー

寺山修司さんの

happyend090の回答

回答No.3

解釈がしっくりこなくて当然なのです。内容的には大した意味はありませんし、どう解釈するかは読み手の問題でしかありません。 この短歌は上句が客観、下句が主観という構成になっていて、それをくっつけた形になっています。上句と下句のずれ。それを最後の「ありや」で作者の顔がニュッと出てくる形にしたという展開の面白さを味わえばいいのではないでしょうか。

noname#17364
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 構成のアンバランスさと不安定感、そこに私もトラップされ、妙に気になっているのだと思います。 確かに解釈は二の次というか、それぞれが感じればいいことですね。私は他の皆さんがこの詩からどのようなことを感じ取っているのかが気になっていましたので、大変参考になります。 ありがとうございました。

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