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表象の対語は?(そして形象との連関)

old_shoの回答

  • old_sho
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回答No.2

私もド素人ですが、 「シニフィアン/シニフィエ」というのは二十世紀にはいってから普及した概念ですね。一度学ぶと当然のような概念ですが、それ以前は必要が無かったか、ゴッチャにしていて困らなかったとか、とにかくソシュール以前の言語学を読むときは注意しなければならないのですよね。論じている中には、この概念があれば簡単に済む話を何をごちゃごちゃ言っているのか、と見える訳です。一方それ無しで済む論題も現にあるでしょう。 という事に類比的に、「表象」ということで済む話を十八,十九世紀の人はしていた。二十世紀になるとそれでは曖昧であるとなって「表象」は厳密な用語としては使われなくなった、という所ではないでしょうか。 言語=記号は外的対象として「シニフィアン/シニフィエ」関係を見ることができるわけですが、「表象」は、人の心的活動において「内容」・「作用」・「対象」であるわけで、まったく別の切り口を持って来なければならない、という感じではないでしょうか。 近いところでは、「ノエシス・ノエマ」があるのではありませんか。表象とその対象という枠はやめて、意識現象の詳細な記述から入るのが現代的なのでしょう。

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