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正義は人の数だけある
こんにちは。 倫理や正義の話題になると、最近は「正義は人の数だけある」的な言葉がトレンドでしょうか。 私には愚か者の詭弁に聞こえる事が多く、この言葉を言う人の多くを少々軽蔑的に見てしまう事があります。 どうして「正義は人の数だけある」のか。 これが私にはよく解りません。 例えば、比較的解りやすいお題として「殺人」をたたき台に「正義は人の数だけある」。つまり殺人が正義になる場合があるのかどうか辺りから話を進めさせて頂き、「正義は人の数だけある」という言葉の水準やパブリックとインディビジュアルのボーダーラインなどの理解を進められればと思い、質問させて頂きました。 真面目な質問なので、誠の見られない発言や、知性或は真摯さに欠けると見られる意見、その他これらに準ずる発言は無視します。 よく自分の中で既に答えがガチガチに固まっており、それに同意する意見のみを求めるものがありますが、私の場合は固まっている訳ではありません。 本当に自分の理解を進められたら良いと思って質問しています。 どうぞよろしくお願い致します。
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- kenchin
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>やはり最近の「正義」という単語を都合のいい様に使おうとしている風潮があるという考えをお持ちでしょうか? そうですね、ガチガチに思っている訳ではないですが「そういう方が増えてるんじゃないかな?」とは感じています。 もうちょっと自分の考えに沿った表現でしたら、「正義」という概念の解釈が以前と変わっていないか?と思うんです。 正義という言葉が大げさなら、「正しいor正しくない」ですかね? 定義が以前と変わってきて、自分なりの定義を持たれる人も増えてきた(社会通念というより自分の考えで正しいかどうか。)のだろうと思います。 昔なら「悪いことをしている子供が居れば皆がしかるのが社会通念」だったのに、いまは「他人がわが子を怒るのは保護者の”権利”の侵犯」だという風に考えるとか。 >「都合」と「正義」は違うんですが、そんな事も解らない人が多いという事なんでしょうか。 ええ。結果として混同も起こっている気がします。 都合が正しいことを証明するために、その場その場で色々な物を持ちだして正当化して、かつその誤りを認めない。(認めないのでその人の中ではその考えが無謬の正しさを持つ。) 討論は出来ても議論は出来ないと言いあらわしたら適当ですかね? 私も御質問者様とキャッチボールしながら「正義ってなんだろうな~」と再度考え始める事が出来ました。 ありがとうございます。
- 山田 太郎(@testman199)
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>私は言葉に言い表せる様なものではないと思っています。 私には愚か者の詭弁に聞こえる事が多く、この言葉を言う人の多くを少々軽蔑的に見てしまう事があります。 言葉にできないと言われりゃ、ああそうですかとしかなるしかない物ね。 >逆に、アメリカの正義、イスラムの正義、それぞれ言葉で表現できますか? 無いものを表現できないでしょ。 あるのは精々マジョリティの正義だけ。 唯一無二の心理を知っているあなたなら説明してくれるのかと思って
- 山田 太郎(@testman199)
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>正義は一つなのではないかな(世界共通)と思っています。 一つであれば言葉で表現できてもいいかと思いますが、 それは何でしょうか? アメリカの正義、イスラムの正義、飢餓国の正義、戦国時代の正義、 石器時代の正義、犬の正義、ネズミの正義 。。。私には共通の正義は見いだせません
お礼
ご回答ありがとうございます。 何となくギリギリな感じですが、お応えします。 何でも言葉で言い表せると思ったら大間違いです。 私は言葉に言い表せる様なものではないと思っています。 逆に、アメリカの正義、イスラムの正義、それぞれ言葉で表現できますか? できればお願いします。
- hekiyu
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正義てのは必要に迫られて人間が勝手に 創り出した概念です。 人は社会を構成します。 その社会には秩序が必要です。 禁止抑制したい言動は正義に反するとして 秩序を維持するために創り出した概念に過ぎません。 だから、人の数だけ正義がある、としたのでは 社会の秩序が保てずに、結局正義概念の否定になるわけです。 このように、正義てのは人間が歴史上造って来た ものですから、正義の内容は歴史に求めることが できます。 欧米では正義論が盛んですが、その多くは 結果から来ています。 例えば殺人は正義に反する。 ではそれをどう理論付けすればよいのか、 という問題になっている場合が多いのです。 殺人は何故正義に反するのか、ということには 触れられていません。 それは歴史上殺人は正義に反する、とされて 来たからに他なりません。 では許される殺人と許されない殺人とをどう区別すれば よいのか。 正当防衛の場合は許される殺人としなければならないだろう。 つまり正義の殺人とする必要がある。 同じ様な例は、やれ死刑だ戦争だ、とまだ沢山あります。 それをキチンとまとめて体系だって説明できるようにするためには 正義をどう理論構成すればよいのか、 どう定義付けをすればよいのかというのが 正義論です。 はっきりいってあまり意味のある議論とも思えません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 正義は必要に迫られて人間が勝手に~ これは私は賛成しずらいです。 例えば正当防衛の殺人も、それが正義だと人間が決めたのであればその正当防衛で相手を殺した人に後味の悪さというものが存在するのはおかしいと思うのです。 この「後味の悪さ」が語るものはなんでしょうか。 法律や公倍数的な事を語りたい訳ではなく、個人の倫理観や道徳観について考えています。 私は、都合は人の数だけあるだろうが、正義は一つなのではないかな(世界共通)と思っています。 因に不健全な精神状態の人の価値観を踏まえるつもりはありません。 その私の考えに間違いがあるか無いかが知りたい、はっきりさせたいのだと思います。 よろしくお願い致します。
- kenchin
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>でも、自分が納得できる形で「正義は人の数だけある」という言葉を受け入れる事ができるかもしれない。それはそれで画期的だと思っての質問です。 この一文に心が動きましたで申し訳ないですがもう少し駄文を。 正義という尺度で判断するのが似つかわしく無い問題もある、それを上手く説明できずに結論だけ付けようとした表現において「正義は人の数ほどある。」なんて表現が生まれているんではないですかね? (敢えて”似つかわしくない”という表現を採ります。) 例えば殺人の場合を考えてみますと。 被害者が生まれたばかりの無垢な赤ん坊として。 何不自由ない生活を営んでいる加害者は、相手の身上も解らずに通り魔的に殺人を犯した状況だとします。 身上が解らないのですから、宗教が理由にもなりませんし、赤ん坊ですから思想の差異も理由にならない。 何不自由ない生活なのですから物取りでもない。 こうやって条件を限定すると、行き着くところは「加害者だけが抱える自分自身の内面」が理由であって、それは行為の重大性と相まって、大半の(ホボ全ての人が)「不正義」と断定すると思うんです。 じゃ、昨今言われている原発停止問題はどうか。 停止するのが正義である、稼働するのが正義であるという「論調」が出ておりますが......。 確かに技術論や経済論、安全保障論に則ると停止する方が「よりメリットがある」のかもしれないし、稼働する方が「よりメリットがある」のかもしれない。 でも関係する人々が多すぎ、生活基盤も多種多様で、従って価値観も多くあるのですから、結果を「止める止めない」という二極に絞ってしまうと、どうしても最大公約数となってしまう。 しかも、獲得できるのは、実は「満足or安心」であって、自分の欲求が満たされた状態を「正義」とすり替えているだけではないか?(満たすために、そのような状態を「正義」と定義しているのではないか?) 雑駁な考えなんですけどね。 確かに正義という尺度は一つの物差しではありますが、世の事象は一つの軸だけで定義できるほど単純なのか?と思うんです。 むしろ正義という定義に嵌まらない事象の方が多いんではないか、それを無理やり正義性の有無で表現していないか? 多くの価値観が入り混じる事象、価値観が多いのだから着地点も多いだろうが、それを正義という二極的な表現で片付けるなら、それは人の数だけ正義が発生してしまっても仕方ないんじゃないか? 先の原発論で言うなら「直ぐ止める」「従来通り」「段階的に止める(段階にしても期間ごとに多くの種類)」「その他種々の対策」と、着地点も色々あり、個々人毎にどれが最高と考えるかは分かれるところであろう、ならば「満足=正義」で色分けするなら、人の数だけ正義が存在する方が人間として自然であろう.....と。 でも、そう言う事象は、実は正義で表現すべき問題ではないんではないだろうか? 笑う赤ん坊を見ての素直なジャッジは「かわいい」であって正義ではない。 同じようなことが人の行為や規範においても存在するのではないかな?と思うんですね。 つまりは、「共通規範があるもの、あってしかるべきもの、あることが似つかわしいもの」においてのみ正義という二極的は物差しが通用するのであって、多種多様な価値観が入り混じるものにおいては正義という尺度を適用するのはどうなんだろう?と思うんです。 こう考える故に、私は正義は好きですが正義論は嫌いですし、べき論(○○であるべき)も嫌いなんです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やはり最近の「正義」という単語を都合のいい様に使おうとしている風潮があるという考えをお持ちでしょうか? 「都合」と「正義」は違うんですが、そんな事も解らない人が多いという事なんでしょうか。
- kenchin
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どうして人の数だけ正義があるのか........。 「何が正義なのか?」という問題と表裏一体で難しい命題のような気がします。 そもそも正義の定義にあいまいな物を含んでいて、そのあいまいさ(揺らぎ)が国や集団や個々人で異なるからじゃないですかね? 正義と日本語で表現しますけど、英語で言うところのjusticeと日本語の正義は、宗教や歴史的経緯を受けて若干異なるみたいですし。 (例えばアメリカでの銃所持もしかり、無神論に対する扱いもしかり、死刑制度もしかり。) 正義論という、法哲学においては最古の問題領域があるんです。 私も興味があって年末辺りにジョン・ロールズの「正義論」という本を齧って見たんですけど。 (深く理解はできませんでしたが) 元々の方哲学における正義論は「(個々人・国家を問わず)どのような行いが既存の規範に照らしあわせて正しいと断ぜうるのか?」「どのような規範が”本来ありうべき正しさの基準”に照らし合わせて正しいと断ぜうるのかなのか」「正しさの規準が存在しうるのか、存在しうるならどのようなものか」の3つが根本命題みたいです。 となると、「既存の規範=その組織(個々人)が経験した歴史、風俗、民情等を下敷きにした価値観によって変化しうるもの」と規定するなら、国ごと人ごとに違う規範と、それを元にした正義が発生するのも当然なんだろうと。 ただ、おおむね共通する正義はあると思いますけどね。 人間は社会性の生き物で、大多数の人間が社会(集団、国家と言ってもよいかも)と縁を切っては生きていけないとするなら、社会を破壊しないのが人間共通の規範となるでしょう。 となると、個人意思での殺人は、大多数の国・地域・人の中で共通した「不正義」であると。 反面、自分が所属する組織を防衛(維持)することを目的とした殺人は「正義」と断ぜうる。 この論理が主として宗教に起因する戦争であり殺人であるのでしょうか。(古くは十字軍、近くは原理主義) ご質問の中にあった「殺人」についても、結果は同じであれ行為に至る動機が異なれば正義と断ぜられる場合もあるということですか。 社会の構成要員が全く同じ、もしくは「全く同じとは言わずともよく似た」経験を経ており、統一した言語を使い、同一の宗教を信じ(少なくとも他者を攻撃することを正義と断定する宗教が蔓延していない。)等々の条件が揃うなら、正義の数は一つという状態が成立するのかもしれないと考えます。 しかし国家間でも個人間でも、経験は異なるし宗教も異なる等々、色んな意味で「個々人の価値観を多様化させうるだけの要因があり、結果として価値観の多様化が進んでいる」とするなら、「価値観を元にした部分(規範の一部)においては正義が多様化する=人の数だけ正義が存在し得る。(それが良いかどうかは別の命題)」であると言えるのではないですかね? そういう意味では日本ってのは、ある部分(生活規範に関する部分)では、正義の数が少ない国なのかもしれませんね。 (最近では経済に対する価値観等も多様化していますから、ある部分では正義も多様化しているでしょうけど。)
お礼
ご回答ありがとうございます。 例えば偉人というのは少ないものです。 それは、「多くの人間は楽な方に流される=尊い事から離れてしまう」からだと思います。 つまり、多くの人間は尊い事から離れる性質を強く持っている。「この多くの人」の価値観を個人の尊重という名目に認めていたら、国のレベルはどんどん下がる。 私はこんな風に考えています。 ある程度の共通項的な基準があってしかるべきだと思うのですが、最近は「価値観の多様化」と言えばそれら全てから解放されて放縦の限りを尽くせる。 私は誰でも一人を質問攻めにすれば殆どの場合殆どの人の正義、不正義の基準は同じだと思っています。 殴られるのは嫌だ、殺されるのは嫌だ、etc。 しかし、そういう切迫した状態に無い放縦者達は現在の放縦を行う幅を少しでも狭めない様にいい加減な事を言う。 最近の「正義は人の数だけある」とか「価値観の多様化」という言葉を使う人の多くにこういった印象を受けるのです。 じゃぁ、とことん話し合ってみようか?と言えば恐らく彼らは話し合いに応じないでしょう。都合が悪いからです。 内心、心の隅の方では自分がテキトーな事を言っているのを知っているからです。 私はこのような感想を抱く事が多いのです。 でも、自分が納得できる形で「正義は人の数だけある」という言葉を受け入れる事ができるかもしれない。それはそれで画期的だと思っての質問です。 自分でも何を論点にしたいのか、何をどう疑問に思っているのか、何に反発しているのかがはっきりしていないのでお答えを頂くたびにこういった「質問の絞り込み」見たいなお礼をするかと思いますが、おつきあい頂けますと幸いと存じます。 何卒、よろしくお願い致します。
お礼
ご回答ありがとうございます。 この質問を出しておきながらなんですが、もしかしたら本当の意味での「正義は人の数だけある」という事が解るとそれは公共の正義と一致するのではないかと思っています。 言うまでもありませんが、これはそこらへんの○○な人たちが口にしている様な意味の「正義は人の数だけある」ではありません。 都合や事情をカッコ良く強く大きく見せる為に正義という言葉を用いている、しかもその自覚すらなくほぼ「混同している」状態な人なのではないかと私は多くの人を見ている訳です。 私のこの考えは間違っているのか、間違っているのであれば正されたい、もちろん詭弁にではなく正当なものに。 私はネット上でも実生活でも当然同じ性格で突き詰める事多いものですから、自分の意見よりも優れていると思って自分の意見を変える事ができた事があまりなく、実際今これを書いているこの瞬間にそういう機会が過去に一度でもあったかどうか思い出す事ができません。 いつも私が残ります。 そういう訳で、いつも自分の突き詰めたい事柄に対して自分一人で進むしか無く、「確認ができない」のです。 ですから、毎度毎度の事ながら希望を捨てずに「確認」或は「新境地」を求めて質問させて頂いている次第です^^; お手数をお掛けしております。