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始まりの前の混沌

聖書の中に『光有れ』という命令文が盛り込まれていますので、其の表現の意味を鑑みました際に、次の通りの疑問が浮かんで参りましたから、教えて下さい。 光が誕生する前には、闇の存在が認識され得たのでしょうか?

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  • ベストアンサー
回答No.13

 No.5&9&11&12です。  信仰という動態においていくらか違った状態を想定なさって それについて問うておられます。  ★ (No.12お礼欄) 『天地人の本来的な合一(梵我一如)』の場合には、信仰の対象の存在を自己の外部に切り離せませんので、  ☆ これは 《宇宙の霊 ないし 仏性 ないし 神の聖霊》が人間である《わたし》に宿るという・信仰の動態をめぐるひとつの状態をまづ言っているはずです。  そして 信仰の対象(つまり 非対象)を 何ものにも依存せず自立する存在として《ブラフマン(梵)》と名づけた場合です。宇宙の主宰者だとも規定されます。  そして 人間の《わたし》は 《アートマン(我)》としてあります。  かくて 梵我一如という状態を言っているわけだと考えますが これは あくまですでに信仰が一般的なかたちで成ったあとのその状態の説明であるかと見ます。  ですから  ★ 信仰の対象の存在を自己の外部に切り離せません  ☆ というのは あくまでそのひとつの状態――つまり非対象の何ものかがあたかも経験存在である《わたし》に宿ると見立てての状態――にかんして そのように捉えようとしていることを意味します。ですが これは 実際にはあり得ません。  もともと 信仰の対象は 非経験であり おのれの心においては非思考として成っています。そのあと そこにおいて 《梵我一如》の状態が成り立っているのだと見ています。いくら修行を経たあとその状態になるのだと言っても 信仰の成立という一時点〔における一事件〕にかんしては ブラフマンのほうからはたらくのであって そこで一如となった状態を切り離すも離さないもないと考えます。  すなわち重ねて述べますが この《一体(一如)》を  ★ 切り離す  ☆ かどうかは 信仰にかんするかぎり 問題になりません。人が丸っきり自分ひとりの力でその一体の状態を得たとは考えられず――つまりは 生まれた状態において一たんその一如の状態に近いかたちにありますが それもウソをつくことで損傷が出来ました―― 人が内部・外部の別なく切り離すことのできるかたちで一体であるのでもない。こう考えます。  もし切り離した状態になろうと思うなら――ほんとうには 神はどこへも行きませんが―― 自分の心に逆らってウソ・イツワリを重ねて行動すればよいはずです。神から遠ざかるという状態に置かれて行くものと思われます。  したがって 信仰という動態にかんするかぎり  ★ 〔・・・信仰の対象の存在を自己の外部に切り離せませんので、〕 信じることさえもが為され得ず、無心状態の振る舞いを疑わない態度の保持が必要になるのだろう、と思われます。  ☆ という気づかいは 不要です。  信仰は 神のほうから心の窓をノックするといったふうにおとづれてくれます。そのとき 受け容れたなら 信仰が成立し 救いも与えられ あとは ウソ・イツワリを為すかどうかの問題になります。それ以外の何かが わたしを神から離すということはあり得ません。気づかいは無用です。大船に乗った気持ちでいていいはずです。  次の《管理者 あるいは 組織宗教の指導者》は そもそも必要ではありません。  ★ でも、残念ながら、『自己主張の責任を転嫁させてくれ得る管理者への積極的な依存』の為に、烏合の衆の中へ参加したがっている、という不純な動機さえもが、多くの信者達の心の中に残り続けている様ですね。  ☆ 《不純な動機》は ひとえに《ウソ・イツワリ》の問題です。  ★ 従いまして、純粋な晴れ上がり  ☆ としての信仰の動態は 曇りも雨もあるいは嵐をも容れて 成り立って存続します。  ★ 従いまして、純粋な晴れ上がりの【妄想】的な体験を語る説得的な折伏が、今後の日本でも繰り返され続けるのでしょう。  ☆ 要りません。  ウソ・イツワリの世界に自分がい続けようという心つもりでいながら 信仰において心の晴れ上がりを求めるという場合には あせってそういうあたかも簡便法としての信仰を――つまりイツワリの信仰です―― 求めそれにすがりつづけるということがある。そういう分析をなさっている。  このように考えます。

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

たとえ『受け入れられるべき境遇への納得が難しい』と感じられましょうとも、【疑われ得ない真実(イデア)】が目の前に立ちはだかっているのでしたら、信じられずとも【容認】が可能なのではないでしょうか?

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 『無心状態で受け入れる』という態度は、機械の冷静な挙動(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%86%85%E8%94%B5%E6%96%B9%E5%BC%8F)に似ていますね。 例えば、エレベータの遠隔監視の中枢の側では、たとえ信号の人為的な遣り取りを積極的に行ないませんでしても、ポートが開放されているだけで、各端末からの異常発報を(自動的に)受け付けられる様に出来ています。 従いまして、人類の場合にも、若し本来の健康的な無心状態が取り戻されたのでしたら、inputの直後に原始的な能力(火事場での閃きの様な馬鹿力)が経絡を辿って自動的にoutputされるのでしょうね。

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その他の回答 (17)

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.18

>現実の【繰り込み】は数学的な解釈の不完全性を証明してくれていないのでしょうか? 必ずしも数学が現実の模写にはならないということだと思います。 数学論理で反証可能性を有する証明がとれれば「現実のコピー」がとれるものの コピー自体が現実からの遊離であり不完全であります。 現実には「未可能」という延長が含まれて居て解釈しうる結果の絶対を保証していない。 内部も外部もない・・・全てのものとの距離、過去も未来も今にない。けど今に凝縮されている。 ロゴスもうどうでもいいんでしょうね。 惰性感ではなく。 フラクタルも何も私は数学もチンプンカンプンで言語化に無理があることですが。

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

認識は対象の外部の主体によって為されますので、先の時点から、『ロゴスの使い手達』は認識対象の【周辺】の環境の一部に属していなければならないのではないでしょうか?

BuffaloAndJtp
質問者

補足

物理が数学的な解釈に遅れを取っているのではないでしょう。 下記のページの内容によっても象徴されています通りに、修正されるべきなのは寧ろ数学の側なのではないでしょうか? http://search.yahoo.co.jp/search?fr=sb-kingbrw1&ei=UTF-8&p=%E6%95%B0%E5%AD%A6%E3%80%80%E6%9C%AA%E8%A7%A3%E6%B1%BA

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回答No.17

認識の主催者達は認識対象の外部に位置していますので、 光への認識の為には、当事者達が闇の中にしかいらない、と思われます。 従いまして、闇への認識の為には、闇から距離を置く必要が御座いますから、たとえ光の誕生の前に認識主催者達が存在していましょうとも、闇の存在への認識は難しいでしょう。 若し宜しければ、続きの交流の為に、 下記のページへの回答提供を御願い申し上げます。 http://okwave.jp/qa/q6968601.html http://okwave.jp/qa/q6968554.html http://okwave.jp/qa/q6910816.html http://okwave.jp/qa/q6909557.html http://okwave.jp/qa/q6902888.html

BuffaloAndJtp
質問者

補足

認識主体達と環境との一体感が混沌を構成しているのでしょうか?

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  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.16

しつこく連投失礼します。 下の回答は蛇足でしたが、神に矛盾も捏造もありませんから失敗もありません。 何かのはずみで「クスっ」と微笑まれたのではないでしょうか? 笑うなんてこと、これも異常事態であったのです。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

精神的なソフトウェアは、単にハードウェアに宿されているだけに留まっているのではないでしょうか?

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  • miko-desi
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回答No.15

追加です。人工物として「数学」も実態はないけど人間には便利に機能してますね。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

フラクタルは無限の分割を論理化していますが、若し物質群の内部構造が無くなる程迄にそれ等が細分化されましたら、其の際には、内が無い故に外さえもが成立し得なくなりますね。 従いまして、其処からでも窺われ得ます通りに、現実の【繰り込み】は数学的な解釈の不完全性を証明してくれていないのでしょうか?

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  • miko-desi
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回答No.14

>『始めに(は)言葉(が)有き。』ですよね。 ありがとうございます。 個人的なことでありますがとてもいい(と関心して)ヒントを頂きお礼申し上げます。 観念についても考え中であったのです。 万物は無を有に変えた神の創造物で、「自然物」です。 宇宙も人間も犬もぱそこんもポリバケツも。 パソコンやバケツは人間が作った「人工物」だという主張もありますが、 神の創造物を加工して一時的に利用できるようにしたに過ぎなく、 神以外の者で「まるで実態があるかのように認識でき機能し、他へ影響を及ぼす人工物」 は人間が人間のためにこしらえた義務権利と保証書と同じ「数学と観念(言語、ロゴス)」がありますね。 人類が義務や権利を思いついたのとロゴスを用いるようになったのはどちらが先でしょうね。 混沌は自然物以外のなんだかの未来への意思。 なぜその硬度、温度、自由度であるのか、雲のように煙る気体のように。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 ロゴスは宇宙の生成化育のシステム・仕組みなのでして、人類が想像・創造し得る言語と違っていますよね。

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回答No.12

 No.5&9&11です。  No.11補足欄に書き込んでいらっしゃる内容は むしろご自身のほうがたしかな理解をされていましょう。  わたしは 部分的に確かだと思われるところでのみ考えた結果を申し述べました。  さて  ★★(No.9お礼欄) 混沌の中を迷える子羊達の心に一条の光が差し込まれる前には、彼等が心の闇の内在を自覚する事は難しかったのでしょうか?  ☆ こう考えます。  もしこの自分にも光が差し込んだと思ったなら そのときには 心がやわらがしめられて周りの人や世間やあるいは自分自身とも和解が成ったと思う瞬間だと思われます。  そしてそれは 誰であっても ほんとうはその光のことを以前にも心において知らなかったわけではないというのが 人間の自然本性である。こう考えます。  光のことをほんとうは知っていたとしても これを避けていたということが考えられますし あるいはつまりなおも闇の中にいつづけたという場合が考えられます。   ところが逆に いつもわたしは闇の中にいると思っていたとしても つねに光が差し込もうとしておりすでに差し込んでさえいたかも知れないという場合もあり得て そういうときには 意識では闇の中にあっとしても すでに光のめぐみは与えられていて つねに世間におけるめぐりあわせは 〔あとから考えれば〕好循環であったという場合です。  ★ 混沌の中を迷える子羊達  ☆ の中に位置していて その闇と混沌を その電磁波を受けてのように 一身に受けとめ自分は暗い闇の中にいるんだ あぁ といつも思い悩んでいた人間が それほど――つまり ほかの人びとの悩みをも引き受けて歩むことができるほど――めぐまれていた。という場合は考えられるのではないでしょうか?

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

『天地人の本来的な合一(梵我一如)』の場合には、信仰の対象の存在を自己の外部に切り離せませんので、信じることさえもが為され得ず、無心状態の振る舞いを疑わない態度の保持が必要になるのだろう、と思われます。 でも、残念ながら、『自己主張の責任を転嫁させてくれ得る管理者への積極的な依存』の為に、烏合の衆の中へ参加したがっている、という不純な動機さえもが、多くの信者達の心の中に残り続けている様ですね。 従いまして、純粋な晴れ上がりの【妄想】的な体験を語る説得的な折伏が、今後の日本でも繰り返され続けるのでしょう。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 迷いの内在を自覚し得ている時点で、子羊達は救いの可能性に気付いている(余り深く疑っていない)のですね。

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回答No.11

 No.5&9です。  ★ 可能世界  ☆ についてわたしはまったく無知でして ヰキぺを読んだだけです。    まづ初めの印象としては:   ○ おっしゃるところの《コンピュータが描き出すワ゛-チュアルな可能世界》とそして《現実世界が無数の可能世界の一つである》というときの《可能世界》とは いくらか違っているように思われます。  ★(No.9補足欄) ~~~  そもそも、コンピュータが描き出すヴァーチャルな可能世界は人間の実際的な参加の【経験】を許してくれていませんでして、アバター(仮の偽者)に代理を委ねる遣り方の採用しか人間には許されていませんよね。  従いまして、そういう意味では、コンピュータが『(二進数等の)数式的な手段』で描き出した【ヴァーチャルな可能世界】は、人類の経験の対象に属していない、と言えましょう。  ~~~~~~~~  ☆ これは 経験され得ないという条件において経験世界に実際に何らかのモノ・コトが起こっているということではないのですか? 量子の不確定な存在(動き)の世界のような。  それに対して:  ▼(ヰキぺ:可能世界論) ~~~  現在の可能世界論は、可能性や必然性の意味論を扱うため、ソール・クリプキらによって1950年代に導入された。  可能世界論では、現実世界は無数の可能世界のなかの一つであると考える。世界について考えうる異なる「あり方」ごとに異なる可能世界があるとされ、そのなかで我々が実際に暮らしているのが「現実世界」である。これに基づき、可能性や必然性について、以下のように分析することができる。  (1) 真なる命題とは、現実世界において真であるような命題である。  (2) 可能な命題とは、少なくとも一つの可能世界において真であるような命題である。  (3) 偶然的な命題とは、それが真である可能世界も、偽である可能世界も存在するような命題である。  (4) 必然的な命題とは、全ての可能世界で真であるような命題である。  (5) 不可能な命題(必然的に偽の命題)とは、全ての可能世界で偽であるような命題である。  ~~~~~~~~~~~  ☆ このいま・ここの現実世界のほかの可能世界は みな想像上のモノ・コトではないのですか? そこで何かが起こっていたとするのは あくまでそのように想像してみるだけのことではないのですか?  別の言い方をすれば:  ○ ~~~  (4)の命題によって 《すべての可能世界》をまとめて《ひとつの世界》としてみますと その内いま・ここの現実世界のほかは みな人間にとって想像の領域に入るのではないでしょうか?  ということは 《想像》という人間の行為があるからには その限りで経験世界に属すると言うべきモノ・コトなのでは?   ~~~~  ☆ と考えます。  いまわたしにおいて確実だと思われる内容は ここまでです。  ★(No.9補足欄) ~~~~   でも、逆説的ながら、寧ろ其の御蔭で、(たとえ人類の科学技術が何処迄の順調な発達を辿りましても、)人類が到達を許可して貰えない可能世界の『擬似的なシミュレート』が可能になっているのですね。  勿論ながら、所詮、其処で分かる「超越的」な情報は、擬似的なシミュレーションの域に留まり続けざるを得ませんので、若し人類が其の情報に関わりたいのでしたら、適切なのか否かを知ろうとせずに、無数の確率の中の一部を【無心】で信じ込むしかないのでしょう。  ~~~~~~~~~~  ☆ 分かりません。理解が進んでいません。  それでもいまの段階で ひとつだけ言い得ると思われることは こうです:  ○ 《無数の確率の中の一部》という表現が与えられるのであれば それは《たとえ未知であり人間にとって未知でありつづけるとしても やはり経験世界に属する》と見なすことになるのでは?  ☆ とんちんかんなことを言っていましたら 直していただくか それとも うっちゃっておいてくださいませ。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 確かに、別の回答欄で仰って下さっています通りに、可視光線への視覚認識さえもが経験の対象に留まっていますね。 従いまして、若し【『経験され得ない情報だけ』によって構成されている可能世界】を非経験の次元が志向しているのでしたら、たとえ【複素数のデータによるヴァーチャルな時空間のシミュレーション】が人類の直接的な経験の範疇を超越していましょうとも、不完全性定理の領域からの完全な解脱を果たせませんでしょう。 でも、たとえ真空の光速を超越する技術を人類が獲得し得ましょうとも、何処かの異次元にコンピュータのヴァーチャルな可能世界が見出されるとは考えられ難く、妄想に留まり続けざるを得ないのでしょうから、そういうヴァーチャルな世界は、『存在を信じて貰える』対象にもなれないのではないでしょうか?

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  • miko-desi
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回答No.10

>光さえもが時空の歪みの影響を受けますが、 >光自体が時空の歪みを拵える訳では御座いませんよね。 仮にですが、光を「事実の供給者」とします。 時空は「多様化されうる受容者」とします。 時間は本来どの空間でも同列であったのです。 偶発的な出会い(?)により自由度が(多次元化)増して 迎合接近、反発というものが、供給者たる光の秩序にも起こったのかもしれません? 異常事態ですが!、異常を異常と唱える別の自由?がなければ異常でもなく。 私がいうことだからここんとこもアテになりません。 時空の歪は重力が関係しているとされますよね。 重力については物理学に明るい詳しい方の説明が貰えるといいのですが。

BuffaloAndJtp
質問者
BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 そもそも光だけが存在していたのでしたら、時間の歪みは起こり得ません。少なくとも、重さを備えた物質の存在が必要になります。 従いまして、重力波が伝播し始める前の最初に、若し光が存在していたのでしたら、光は闇と混ざり合い、其処には文字通りの【混沌】が広がっていた、と言えるのではないでしょうか?

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回答No.9

 No.5です。  ★ ~~~~~~~~  「(1個の)太極」の分化は可能ですけれども、「(0個の)無極」の分化は不可能ですので、【始源】はリアルに経験され得ず、数式的な手段によって暗示されるヴァーチャルな可能世界に【始源】の状態は留まり続けているのでしょうか?  ~~~~~~~~~~  ☆ これは 推測(想像)の問題になりますが 【始源】は 「(1個の)太極」か「(0個の)無極」か いづれかの経験事実の世界だと考えます。    1. 【始源】は いま現在 事実としてあるこの世界とつながっているからです。  2. ただしその《初め》が 《零個の無極》なら いわゆる無始無終の時空間が経験世界としてあるとなります。あるいはそうではなく《初め》が 《一個の太極》であれば 一見して言えば一般に言うところの《無から有が生じた》となります。    3. ただしこの《無から有が現われた》は じっさいには表現を間違えています。《有が現われた》その《以前》は いまの経験世界に住むわれわれにとって《無か有か》は分からないからです。《無とも有とも何とも表象も規定も出来ない》非経験の領域が この《太極という初めの以前》にあった(ないし なかった)。となります。  4. けれども 《一個の太極》にしろ《零個の無極》にしろ いづれの場合にも 《非経験の領域(つまり 大いなるナゾ)》は 想定として必然的に 考えられて来ます。前者の場合には その初めの以前であり 後者であれば この無始無終の世界を超えたところに想定され得るからです。  5. さらに おどろくなかれ どちらの場合にも 《非経験のナゾの領域――つまり 神――》は それらの二様の初めからつづくこの世界を 蔽い・包み しかも その内部にも介入して来ます。  6. 想定に従うかぎり そうなります。経験世界を超えているからです。超えているということは 経験世界の外〔だけ〕ではなく 中〔だけ〕でもなく すべてを覆い包む何ものかだからです。  7. 有限ではなく無限であり 相対ではなく絶対だからです。  ゆえに  ★☆(修正しました) ~~~~~  【始源】はリアルに経験され得るいま現在の世界とつながっている。  いま現在の世界が事実であるかぎりで 【始源】も 数式的な手段によって暗示されるヴァーチャルな可能世界ではなく 事実世界である。  ~~~~~~~~~~  ☆ ただしそこに添えることとしては 始源から現在にまで到るこの経験世界を超える非経験の領域が 想定されることになる。  なぜなら 人間の存在とその能力には 限界があるからである。限界があると知る人間は しかしながら その限界を超えたところの領域を 想定として――つまり何が何だかいっさい分からないが 想定として――ある(または ない)と捉えている。有神論または無神論という非思考(信仰)として 心にいだいている。  こう考えますが いかがでしょう?

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

混沌の中を迷える子羊達の心に一条の光が差し込まれる前には、彼等が心の闇の内在を自覚する事は難しかったのでしょうか?

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 【始原】の前は、矢張り『絶対無即絶対有』なのですね。 徐々に双方の話題の趣旨が漸近してきている様に感じられますので、非常に嬉しく思います。 因みに、他の質問でコンピュータの通信の仕組みに触れていました理由にも、此処の質問との関わりが御座います。 そもそも、コンピュータが描き出すヴァーチャルな可能世界は人間の実際的な参加の【経験】を許してくれていませんでして、アバター(仮の偽者)に代理を委ねる遣り方の採用しか人間には許されていませんよね。 従いまして、そういう意味では、コンピュータが『(二進数等の)数式的な手段』で描き出した【ヴァーチャルな可能世界】は、人類の経験の対象に属していない、と言えましょう。 でも、逆説的ながら、寧ろ其の御蔭で、(たとえ人類の科学技術が何処迄の順調な発達を辿りましても、)人類が到達を許可して貰えない可能世界の『擬似的なシミュレート』が可能になっているのですね。 勿論ながら、所詮、其処で分かる「超越的」な情報は、擬似的なシミュレーションの域に留まり続けざるを得ませんので、若し人類が其の情報に関わりたいのでしたら、適切なのか否かを知ろうとせずに、無数の確率の中の一部を【無心】で信じ込むしかないのでしょう。

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回答No.8

西田哲学の内容に関わっていますね。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

『絶対無即絶対有』の話題には、 他の方が既に触れて下さっていますね。

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     神が天地をつくったのか  ◆(α)  そう表現したに過ぎないとなぜ言わないのか?  すべては表現のもんだいであるとなぜ見ないのか?   ▲ (創世記1:1-5) ~~~~~   1.初めに、神は天地を創造した。   2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。   3.神は言った。     ――光あれ。    こうして、光があった。   4.神は光を見て、良しとした。神は光と闇を分け、   5.光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕べがあり、朝があった。第一の日である。   ~~~~~~~~~  ◆(β)  《光あれ》と神が その文字どおりに 《言った》のか?   んなわけはない。時空間を超えている〔敢えて擬人法で言えば〕存在にとって 《初めに》とか《つくる》といった時間的行為がどうして必要なものか。なじまない。  ◆(γ)  光が《ある・ない》 つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。  経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは 或る意味で 神としても手に負えない。(やたら奇蹟を起こすわけには行かない)。  人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。  そもそも手に負えないことを知ることをとおしても その存在や性質を知るようになる。  あるいは 相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。  という当たり前のことを 神の物語――人間にとって非思考の場をわざわざ人間の言葉で表わしたもの――はかたっているのではないか。  《神が創造主である。〔よって 経験世界そして特にヒトは 被造物である〕》という表現は そういうふうに人間にとって手に負えない不自由なこととそして〔悲願としての〕自由とについての哲学をかたっている。に過ぎないのではないか?  ◆(δ)  もしこの非思考の場にわづかにでも 《のぞみ》があるとするならば それは   ▲ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。  と書かれたところである。その後も《第二の日》から《第六の日》まで同じ表現で書かれている。   ▲ ゆうべがあり あさがあった。  と。《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は世界において現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へはじつは渡されることなく そうではなく すこやかな眠りを経て《あさがあった》と知る。  その自然本性〔の動態〕において人は 夜へは渡されないというのである。   ▲ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  のである。《聖なる〈あまえ〉》〔としての すこやかなねむり〕。  以上の主題をめぐって 忌憚のないご見解をおしめしください。

  • 神が天地をつくったのか

    神が天地をつくったのか  (α) そう表現したに過ぎないとなぜ言わないのか? すべては表現のもんだいであるとなぜ見ないのか?  ◆ (創世記1:1-5) ~~~~~~~~~~~  1.初めに、神は天地を創造した。  2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3.神は言った。    ――光あれ。   こうして、光があった。  4.神は光を見て、良しとした。神は光と闇を分け、  5.光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (β) 《光あれ》と神がその文字どおりに《言った》のか?   んなわけはない。時空間を超えている〔敢えて擬人法で言えば〕存在にとって 《初めに》とか《つくる》といった時間的行為がどうして必要なものか。  (γ) 光が《ある・ない》つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。  経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは神としても手に負えない。   人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。そもそも手に負えないことより その存在や性質を知るようになる。相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。  という当たり前のことを 神の物語――人間にとって非思考の場――はかたっているのではないか。  (δ) もしこの非思考の場にわづかにでも《のぞみ》があるとするならば それは  ◆ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ☆ と書かれたところである。その後《第六の日》まで同じ表現で書かれている。  ◆ ゆうべがあり あさがあった。  ☆ 《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へは渡されずに 眠りを経て《あさがあった》と知る。その自然本性において人は 夜へ渡されないというのである。  ◆ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  この主題をめぐって どうか忌憚のないご見解をおしえてください。

  • 前の質問をやり直してきます

    こんにちは! 前の質問をやり直してきます、よろしくお願いします。 1、懇意にしてる先生 2、あいつの言うとおりにして助かった 3、取り止めにするわけにも 4、まだみんな本気にしてないみたいだな このような文の意味が分かりますけど、何で「~にする」を使いますか?「懇意してる先生」だけではいかないか?日本語の中「懇意する」の単語が存在しませんと言われたら、「取りやめる」の単語もありませんか?要するに、何故あの動詞があるままのに、「~にする」を付けるの、余計なことではないか?例えば 取り止める>>>取り止めにする 5、土日は休むことにしている 6、見なかったことにしてください 7、発電したりすることにしている このような文で、「~にする」の作用は自分の意思で決定することですか?なら「土日は休みます」、「見なかった振りをする」、「発電したりします」と違いますか、もしくは、すべての「~にする」は同じ意味、同じ作用ですか?すべて自分の意思で事情を決定する意味ですか?そうなると、次の8、9、10を見てください: 8、口になさろうとしたときに、…… 9、じゃあまッ、一人でいただくとするか。 10、何故公表しようとしたの? NO.8の「~とする」作用は「仮に」と思いますけど、ほかの9、10の例文中で「~とする」の作用は何ですか?自分の意思で決定することではないか?なら、「~とする」と「~にする」が同じことになるんじゃないか? すべての例文の意思だけは分かります、意味を解釈しないでいい、しかし「~にする」と「~とする」の文法作用だけ理解できません。 私の日本語は小学生のようなレベルですから、表してることをしっかり見せてあげませんなら、失礼なことを言ったら、申し訳ありませんでした。お願いします。

  • 「空っぽ」と「仏教的な【空】」

    存在否定の対象の存否が認識され得ない故の『絶対無』を表現する場合に、「仏教的な【空】」が適用されるのではないか、と私が勝手に考えているからなのかが分かりませんが、次の内容が疑問になっていますので、質問を致します。 「『空っぽ』の状態と『仏教的な【空】』とは同じなのでしょうか?」 そもそも、私が是を気にし始めました切っ掛けは、或る著名人の方が次の通りの内容を仰っていたからでして、私はそれに違和感を覚えていますが、私の謬見に起因しているのかも知れませんから、御教授を御願い申し上げます。 つまり、「自然科学分野の発達の御蔭で、真空が空っぽでない事情が明らかになったが、生成・消滅が繰り返されている【真空】の状態の存在を古代人達が知らなかったせいで、彼等は『空っぽ』の意味で『空』の概念を表現していた」、という内容です。