• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ダヰ゛デに何が起こったか?)

ダヰ゛デに何が起こったか?

littlekissの回答

回答No.16

こんばんは、bragelonneさん。 ● 一難去ってまた一難。(TT)ブヒィ。 ↑ ひとぎきのわるい、それもいうなら、アコースティック・ギター? http://okwave.jp/qa/q4444319.html 「ありがとう!」←アリス:チンペイ風 やがてリングと 拍手の渦が ひとりの男を のみこんで行った You’re king of kings 立ち上がれ もう一度その足で 立ち上がれ 命の火燃やせ 【QNo.340361ほにゃらか形而左右学 檻と機械】 http://okwave.jp/qa/q3403691.html 【QNo.4338027現代芸術における表現形式は どうなんですか】 http://okwave.jp/qa/q4338027.html そやねん、別件、電気増幅云々をあたってます。 【鉄道・なぜなに教室】 http://www.tawatawa.com/denshanani/index.html 【安全性・信頼性向上のための鉄道信号 システムの設計手法に関する研究】 http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28727/3/Honbun-4772.pdf 昨日は、昨日で、朝もはよから電車乗って滋賀大のある彦根まで行ってきました。 頭煮詰まりそうになってましたから、お外の空気は新鮮。しかし、マジ歩いた。歩いた、歩いた。暑かった―!あんまり暑くて、ノド乾いて、一息いれにどっかで腰落ち着かそうとおもい辺りを見回しては見るもののお店屋さんらしきものはみあたらず、道行く土地の人に声をかけたずねた。「あの、この辺りで食事をとれるとこありますか?」「ああ、少し行けばキャッスルロードに出るから、そこ行けばお店屋さんが並んでるよ」「すぐそこだから」と、気軽い返事が返ってきた。「あ、どうも。ありがとうございます。」その言葉に従い、歩くのだけれど、いっこうにキャッスルロードに行き当たらない。 “すぐーそこ”と“すぐーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーそこ”すぐそこって、どんだけ歩かなあかんねん。“すぐそこ”―――この距離感のちがい、どうよ。おそるべし、地元民。延々と歩き、やっとこさキャッスルロードに行き着いた。キャッスルロード沿いには両側にお店屋さんが並んでる、たしかに。とにかく、早く一息つきたかったから、人が混んでいなそうなメイン通り一本を入ったところのお店に入った。 “エルソン“って名のお店に。ここの、お昼のパスタランチあたり!!冷製パスタ+ピザ+サラダ+ドリンク+デザート3種類盛り←これヒットです。ボリュームがあって。極めつけが、デザート。チーズケーキ+シフォーンケーキ+チョコのアイス2つが1枚のお皿に乗って出てきた。完食。至福のひととき。午後からは、彦根城周辺を散策。散策してる中、井伊直弼大老の像が公園にいてはった。 【所有と労働の循環】 http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/~yagi/nakano1.doc 【TPP(環太平洋戦略経済連携協定)(Trans-Pacific Partnership) 詳細解説】 http://eco.goo.ne.jp/word/issue/S00412_kaisetsu.html 【わが国の通商戦略に関する提言 別添】 http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2011/030/betten.pdf 【QNo.5128328 日本はなぜ 産業革命】 http://okwave.jp/qa/q5128328.html ●そして、藤津氏はハウルの城に集まった者はまさに他者・弱者 であり、ハウルの城は「開かれたアジール」になっているといっ ているのです。「アジール」とは、法や権力の及ばない不可侵の 領域を意味しています。 ↑ A国のなかにB人とC人が暮らしていた。しかし、ことあるたびになにかとぶつかりあう。 で、あるときこの国に暮らすB人とC人は互いに[もうお前とはやっていけん]とばかりに それぞれに国をつくった。B人ばかりが住むB国とC人ばかりが住むC国を。 さて、それぞれに国をつくりB人ばかり、C人ばかりとなったB国・C国の中では諍いはもうないかといえば、これがそうでもない。そこに住み暮らす者同士の間でこと何かあるたびに諍いは起きていた。A国に暮らしていたときはB人はC人がいるから諍いが起こると考え、またC人もB人がいるから諍いが起きると。自分と同じでないものを互いに排除することで諍いがなくなるとでも考えていたのだろうか。結果、B国とC国をつくったもののそれぞれの国の中で諍いは無くならない。 A国に住んでいたある人がB国とC国からさほど遠くないところに1軒の家を建てた。 諍いのない暮らしを求めて。 家は建ったが、その家を訪れる者はいない。 だれも訪れることのない家にいるのは家を建てた男一人。 いつ訪れてくるかもしれない人をただ一人待ち続ける。 幾日の年月が過ぎたころ、B国人同士の諍いに疲れB国から逃げ出してきたB人と、同じくC国人同士の諍いに疲れC国から逃げ出してきたC人がこの家にやってきた… 【記憶の彼方へ】 http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20100709/

bragelonne
質問者

お礼

 ガスト――ふつうのではなく お箸のガスト――でいまカレーとサラダのバイキングをやっている。ドリンクバーを加えると 飲みものも飲み放題。うまかったよ 二人前。デザートは別。  何の話?    ○ アジール  ★ A 国のなかに B 人とC人が暮らしていた。・・・  ☆ むつかしいなぁ。ソロモンも解けないかも。  ★ 【記憶の彼方へ】  ☆ これをちらっと読んでみたけれど むつかしい。それとも アジールとしての話そのままかしらん。  あぁ 夕方に書き込んでくれたんだった。ほかの質問で応えていたら(4件) もうこんな時間。  ご回答をありがとうございます。ギャル曽根ねえさん。  もういっぺん出しておきます。  【Q:「うつくしい」って何ですか?】と訊かれたなら あなたはどう答えますか?  あぁ そうそう。ダヰ゛デの話。  ▼ (ヰキぺ:ダビデ) ~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87  § 曾祖母ルツ   ユダヤ教原理主義者には無視されがちであるが、彼(ダビデ)はモアブ人の血を引いている。   彼の曾祖母であるルツは、『ルツ記』の記述に従えばモアブ人である。   当時のイスラエル人と周辺諸民族は共存、通婚していたことを示している。   加えて、彼女がモアブ人としてのアイデンティティと宗教的慣習を放棄し、イスラエル人のナオミが信じていたヤハウェ神を受け入れて回心したことが、イスラエルに受容されたことの大きな理由となっていると考えられる(ルツ記1章16~17節を参照)。  ~~~~~~~~~~  ☆ ナオミは ルツの夫の母 つまり義母。ナオミも ルツも いづれも夫を早くに失くしている。それでも後継ぎをもうけることができた。その曾孫が ダヰ゛デ。  モアブ人は 遠くユダヤ人と血はつながっているが よそ者に近い。  あぁ これで  ★ A 国のなかに B 人とC人が暮らしていた。しかし、ことあるたびになにかとぶつかりあう。・・・   ☆ と少しはつながった。異民族や異者は たしかにその異なるところを認めあって おつきあいしましょう。イエスは ダヰ゛デの血筋です。つまり ルツねえさんの血筋です。  あとは またあとで。  こんばんはでした。

bragelonne
質問者

補足

 ▲ (浄福) ~~~~~  ・・・テレンティウスが賢明にも     汝の欲するもの起こり得ぬゆえに     汝のなし能うものを欲せよ  と語った・・・。この言葉の凱切なるを誰が疑い得ようか。しかし これは悲惨な人に いよいよ悲惨ならざらんため与えられた助言なのである。  ところが すべての人がそうあることを欲する幸福な者には 汝の欲するものが起こり得ぬ と言うのは正当でもなく真実でもない。なぜなら もし彼が幸福であるなら 彼が欲することはみな起こり得るからである。  それというのも彼は起こり得ないことは欲しないから。  けれども このような生は私たちの可死性の生ではない。それは不可死性が存在するであろうときでなければ 存在しないであろう。  もしこのような生が人間には決して与えられないとするなら 浄福を問い求めても空しいであろう。浄福は不可死性なくしてはあり得ないからである。  (アウグスティヌス:三位一体論 13:7)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが目にとまった。  あとは これこれに注目というふうに言ってくださったら 注意深く読んでみます。あしからず。  ダヰ゛デの曾祖母のルツは ミレーの絵《落ち穂拾い》の人物です。まづしい暮らしでした。

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