• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ダヰ゛デに何が起こったか?)

ダヰ゛デに何が起こったか?

noname#143207の回答

  • ベストアンサー
noname#143207
noname#143207
回答No.12

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > ☆ もしこのように視野を開くかたちに賛同いただけたのでしたら 話は――初っ端に述べましたように また わたくしにとっては―― 分かりやすくなって来ました。  この度は、どうも失礼致しました。  概ねまとめますと、以下のようになりましょうか。 ・「旧約の時代」と「新約以降の世界(キリスト・イエス以降の世界)」では、律法に対する考え方・捉え方が異なる。 ・バテシバ事件におけるダビデの行動とその処罰に関しては、その罪を神が取り除いてやるというかたちにおいて、「キリスト・イエスの愛」と共通するところがある。その意味での自然史過程にある。 ・もしくは、アブラハムに起きた信仰の原点への《立ち帰り》が、ダビデの身と心において成った。ゆえに、ゆるされた。 ・なぜゆるされたのかについては、ひとに対して説得不可能な要素を持つ。つまり「キリスト・イエスの時代としての愛」の世界であり、そういう自然史過程である。 ・であるならば、ひとこと神は「すでに旧約の時代においてあたらしい契約の世界にも入っているのだよ」と言って欲しかった。言っているようなんですが 果たしてどうなんでしょう?(エゼキエル書33:11)  4. では ただし なんぢ姦淫するなかれというモーセの戒律を犯したその罪を 神はどういうわけでゆるしたのか?  5. アブラハムの信仰が その文章が規範とされ律法として持たれるようになった。もしこの信仰のための養育係としての律法が正式に与えられているのであれば その条文の違反を どのように取り扱うのか。どう扱えば 明らかな違法行為をいともかんたんにゆるすことが出来るのか?  6. これは ゆるしてはいけないと言うためではなく 人びと一般がどう納得するかたちを取ったのか? これを知るために問い求めるものです。通俗に言えば ダヰ゛デひとりをそうたやすく赦すのであれば 社会生活として見れば しめしがつかないではないか? という問いです。  なお、“4”、“5”および“6”についてなのですが、以下の福音書を見る限りにおきましては、モーゼの律法の罰則は意外と曖昧であったように見受けられます(もし、厳密ですと、即座に連行されて処刑されていたかと推察されます)。 ヨハネ伝 08:03-08:05 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」  ですが、“6”にもございますように、“ダビデをそうたやすく赦すのではしめしがつかない”のではないか?、との疑問も持ってしまいます。 > ☆ 律法という養育係あるいは 規範とされたからには何らかの目隠しのような覆いを 社会としては正式に掲げつつ 人びとそれぞれの主観としての内実において後世のキリスト・イエスの愛をじわじわとにじませつつ しめそうとしていたでしょうか?  これは、あくまで愚見ではございますが、自然法がどのようにして生まれた・形成されたのかを考えてみましたときに、突き詰めますと、神のご意志等にまで行き着くものと思われます。 「自然法が人間には直接的には認識不可能であるという立場からは、何らかの補助手段を用いることが要求される。その場合、キリスト教の自然法論は、神からの啓示を重視する。それは、専ら新約聖書および旧約聖書から得られる指図である。典型的な啓示は、モーセの十戒である。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95   例えば、今回出てきております“姦淫”でございますが、我が国でも、“売春禁止法”により、ある程度の制限がなされています。そこで、当法律の律法主旨は、以下の条文から“人としての尊厳を害し”、“性道徳に反し”、“社会の善良の風俗をみだす”が問題であるからとされています。  ですが、例えば援助交際のように、自らの意志で行った場合では“尊厳を害する”ことに繋がるのか?という疑問もございます(金銭の授受の契約がなされていますと、被害者はいないと思われます)。さらにスイス、ドイツやオランダでは、売春は合法化されておりますが、登録制、年齢制限等が設けられる等、国・自治体の管理下におかれておりますが。  では、なぜ“売春”が一般的に”道徳に反し”となるかを突き詰めましても、明確な答は得られないものと思われます。おそらく、これは”自然法”に帰するものかと考えております。やはり、“性行為の乱れの行き過ぎ(十戒の姦淫)”は、社会秩序の混乱を招く恐れがあることを、それとなくほのめかしていたのかもしれません。 売春防止法 第一条 この法律は、売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ、<略> > バテシバあるいはその子ソロモンに対する〔ようになる〕ダヰ゛デの態度が 自分の思わくはなくまったくにおいて神の声に従うものであるということでは 一致した見方だと受け取りました。  ご賛同いただきまして、厚くお礼申し上げます。 > 次の点について ダヰ゛デが終始 夢遊状態であったという見方は 修正したほうがよいようですね。  了解致しました。 > ★ ~~~~~  なぜ、そこまで[キリスト・イエスの降臨が]遅れたのかにつきましては、残念ながら愚生にはわかりません(全国に広まる、という条件、つまり、最大帝国であったローマ帝国の頃を待っていたのかもしれませんが、それ以上のことは残念ながら・・・)。  ~~~~~~~ 里程標のひとつとして 掲げました。  どうもありがとうございます。 ただ、以下の福音書にもございますように、神だけがご存知なのかもしれませんが・・・ マルコ伝13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。 > まとめに向かうことができましょうか。  そう願ってございます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 自然法  ☆ という法もしくは法源 あるいはさらにその法源としての神の法(永久法)といった視野のもとに 旧約≒律法の時代とそこから抜け出て来るあたらしい契約(むしろ無契約というほどに 無根拠のもとに なにかがはたらく)の時代との照らし合わせをおこなっていただきました。  律法からは いまの主題になっている姦淫の問題を取り上げ そして現代においては売春防止法におけるその問題の扱い方を 説明いただきました。  昔むかし 法源といえば 法律条文に明文がなければ 慣習法にもとづくのであり 慣習法も明確でなければ 条理によるのだとおそわりました。その教授がいかにも法律家(法学者)のように見えたものですから よくおぼえています。  木の板にも その縦・横の筋目がある。この筋目に沿って板は切るのであって その筋をたがえるならば 困ったことになる。この筋目が 人間と社会との道筋としての条理であると。  だとすると 自然法ないし自然本性とは 理性ではないでしょうね。ただ単に理性というのではないでしょうね。心というふうに広げておいたほうがよいでしょうし 境地と言って その現存在といった存在のあり方や動態を捉えてその平安や健全なる筋道のことを言ったほうがよいのかも知れません。  その奥に むしろ無根拠としての神の場があるということでしょうか。  無根拠としてこそ いわゆる国際法も 自然法にもとづくというかたちになるのかも知れません。  ところで  ▼ (レビ記20:10) ~~~~  人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は  姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。  ~~~~~~~~~~  ☆ とあります。そして 他方では――時代を隔てているでしょうが――  ▼ ( イザヤ書 55:7) ~~~   神に逆らう者はその道を離れ  悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。  主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。  わたしたちの神に立ち帰るならば  豊かに赦してくださる。  ~~~~~~~~~~  ☆ とも しるされています。  ○ ダヰデもバテシバも 《立ち帰り》が成った。  ☆ と受けとめることとします。その説明は むしろ無根拠のもとにあって 他人には分かりがたい。と。  ちょっとあっさりし過ぎましたでしょうか。  あとは――あたらしい回答者のあたらしい見解がまだあるかも知れませんが それをも含めて―― しばらくのあいだ みなさんからも補遺やまとめを書きこんでいただくために 開けております。    まことにありがとうございました。みなさんにも 感謝申し上げます。これからもよろしくお願い致します。  

関連するQ&A

  • 死刑廃止論者の死刑執行

    死刑廃止論者の死刑執行 千葉氏は死刑制度の廃止論者だったと言われていますが、法務大臣として2名の死刑執行を命令しました。省内からの圧力だったか、あるいは自らの選挙戦敗北から次期への布石が働いたのか、誰も真意は読み解くことはできません。 みなさんは、死刑制度の是非について、どのようにお考えですか? これは質問と言うより、「見方」をお聞きするものです。 このテーマはあまりに重く、簡単に何が正しいとか、おかしいとは言えない話題です。 人の普遍的な問題を含んでいるからです。 かつて、鳩山邦夫法務大臣は死刑囚をパッカパッカと13人も執行を命令しましたが、私は法務大臣の死刑執行の"命令"の有無はあまり大きな問題でないと思っています。なぜなら、最高裁など国の司法機関で法律に基づいて判断した以上、法務大臣がこれを否定するのもおかしな話ですから。 本当の論点は、「法的」な死刑制度そのものです。つまり、本当に国の機関が「人の死を決めていいのか」です。例えば、アメリカの大統領は、アフガンやイラク、ベトナムでも何万人という民間人を殺害してきました。しかし、その戦略を支持した大統領や国務長官などは有り余る報酬で老後を優雅に生活しています。そう言う歴史はよくある話で、日本でも起きています。「大量殺戮すれば免れ、数名でも個人だから死刑」という矛盾を含んでいます。 一方、自分の愛する子供を突然、殺されて心のやり場のない苦しみにある家族がいっぱいいるのも事実です。なぜ、最愛の家族を亡くしたのに、殺人者が刑務所で生きながらえているのかという絶えがたい憤怒が家族に湧き上がるのも必然です。全国犯罪被害者の会が今も立場を主張しています。 一方で、我々は、自分の「意志」でこの世に生を受けてきた訳ではありません。また、人を殺すために生まれてきた人もいません。近代の哲学者カントの認識論には、人間の思考にある後天的なものを明確に取り上げています。例えば、鳩山邦夫氏の両親が、小さい頃に離婚し精神的に情緒不安定になり、非常に生活にも困窮していたとしたら、場合によったら、窃盗や、生きるための非人間的な行動に陥ったかも知れない。これを100%、否定できないでしょう。人は誰も社会で育ち、規制改革などの失敗も含め、国の制度や施策の影響を受けています。自殺者が多いのも、ある意味、国の施策の原因が何パーセントかあるでしょう。 では、もし、刑務所内で飯を食って長らえているのは許せなくて、なんとか、死をもって償うこと以外、家族にとって許容できるものが無いという考えだけが優先されるとしたら、上記のような後天的な国が作った要因はどうなるのだろう?死刑を執行する国そのものにも遠因があるはずである。 さらに、死刑執行が本当の意味で、被害者家族に、苦しみを乗り越えられる安息を与えることになるだろうか?殺された愛する家族が戻ってこないという事実は、未来永劫、決して消えないし、結局、被害者自ら運命を乗り越える以外に無いのも事実である。 果たして、怨念と敵(かたき)によって、残された人間は苦しみを乗り越えることができるのだろうか?何も生まないと私には思えてしようがない。例え、国家であろうと、死刑制度は、人が人を殺すことに変わりない。冤罪の問題もあり、凶悪事件の抑止に直結するとも思えない。 内閣府の死刑制度に関する調査によると、最近は85%ほどが容認となっているようである。ここ何年か増える傾向にあり、秋葉原殺人事件のように「誰でも良かった」とするような理解を超えた残虐性が増えていること事にも原因があるのかもしれない。 一方、世界的には死刑制度は廃止の流れが強い。 みなさんも、是非一度、感情論だけではなく、人はなぜ生きてきて、何で苦しみを乗り越えられるのか、また、社会制度を果たして絶対的なものとして受け入れていいのか、自問して欲しい。

  • 障害者のサラブレットに生まれて

    現在21になる大学生です。 私の家族は、祖父が解離性障害、父が重度の鬱病、母が統合失調症を患っています。祖母は私が生まれたときから脳梗塞による痴呆状態・半身麻痺で、後に植物状態となりました。 私が生まれてからも家族の病状は悪化の一途を辿り続け、私を除く全員が入退院を繰り返して父も職を失いましたが、この頃の、まだ家族が揃って我が家で暮らすことができていた日々が、私にとって唯一の、そして最も幸福な思い出となっています。 私が幼稚園に通い出してからは楽しく通園していましたが、小学校に上がってから友人の健全な家庭を比べるにつけて我が家の異常性を一層認識するようになり、苦悩も強くなっていった私は、学校へ通うことができなくなりました。 父は早速私を児童専門の精神科に連れて行き、そこの医者と家庭環境のことも含めて相談したようですが、家庭環境のストレスが主要な原因と考えられるため、その場合私の症状の回復は絶望的で、このままだと将来的な社会復帰どころか中学への進学も厳しいと言われたそうです。 診断結果は父と同じ鬱病でした。 この診断以降、本当なら通院を継続しなければならなかったのですが、私を医者に連れて行くべき親の症状が悪化して病院に行けなくなり、結果的に通院はそれきりとなって私の治療は放置されたまま打ち切られました。 今でも覚えていることがあります。精神科の待合室で、一人の女の子が明らかに挙動不審な様子だったのを見て、あの子は頭の病気じゃないかと思ったのですが、その時はっと気がついて、ここに連れてこられたということは、周りからすれば自分も同じように見られているのかと考え内心衝撃を受けました。 もしかしたら自分は生まれたときから欠陥を持っていたのに勝手に正常だと思い込んでいただけかもしれない。 そもそも自分がまともかどうかを、一体どうやって自分が確かめることができるのでしょうか? 狂った人間は自分の狂いを認識できないからこそ狂っているのであれば、まともな人間のまともである根拠は、自分のまともさを認識できないからこそまともであると言えるのでしょうか。 私は自分の精神的な不安定さについて家族の遺伝的傾向がどこまで影響しているのかという問題を考えねばなりません。遺伝の問題にさかのぼればそれはもはや私個人の努力で克服できる問題ではなく、根本的な自己解決は不可能になります。そもそもまともな人間は自分がまともであるかどうかを疑うでしょうか? つまりこの問いの設定自体が私の精神が既にまとものものではないことを示しているのではないかと思えるのです。 私の不登校は中学を卒業するまで続きました。 もしも父親が病気にならず仕事を続けられていたら、祖父や祖母が健康でいられたら、母が健常な精神をもって私に接してくれたのなら、しかし私の力ではどうしようもない問題でした。幼少期における環境が子供の発育に与える影響は大きいとされています。その場合常人の想像を絶する私の環境は私を最悪の人間へと育てることになります。 環境が人間を作るのだとしたら、個人は自分に対してどこまでの責任を負えばいいのか、私は努力によって環境を克服することで、環境因に対する自由意志の優位さを証明できると考えました。そのことが、私の人間性は環境ではなく自分の力で作ることができるという決意へと導いたのです。 中学を卒業して、学力的にそこしか入れるところがなかったのですが、夜間の定時制高校へと進学した私は不登校を脱しました。 高校に進学してからは、祖父が錯乱の果てに死亡し、続いて祖母も他界、積み重なった医療費がまかないきれず生まれ育った家と土地を売却するはめになって追い出され、父親が自殺未遂を犯しました。一家心中も検討され、不幸の末路がどんな結末を描くのかを私は目の当たりにしました。 しかし家の売却金を使えば経済的には大学に行くことが可能となりました。そのため高校を皆勤で卒業した私は大学進学を決意し、一年大手の予備校に通い、首席で卒業して早稲田大学に入学しました。卒業まで継続する返還不要の奨学金も獲得しました。 大学合格によって、環境に対する自由意志の勝利を、つまりは私を支配する運命に対して私という人間が勝利を収めたことを証明したつもりでした。今まで奇異と軽蔑の眼差しを私と家族に向けた人間に、そして自分にも、実は私こそが誰よりもまともな理性と精神を持った人間だと宣言したかったのです。 自由意志によって自分の運命を支配下においた私は、自分の能力が無限の可能性に溢れていることを信じ、それに見合う賞賛を得て人生が祝福されることを期待しました。しかし私の不登校時代から続く自己肯定感の不在は大学入学を果たしても消えることなく、それどころかかつてない力を込めて私に襲いかかってきたのです。 環境の相違というものがこれほどのものだとは、私の想像を超えていました。 大学には私と似た経歴を持つ人間など一人もおらず、ほとんどの人が経済的に安定していて、親の社会的地位も高い場合が多く、少なくとも自分の生活の安定さや社会的立場が(保証などあるわけがないのに)保証されていると信じて疑わず、家族や家がいつ崩れるかもわからない恐怖に怯えている人間など私を除いて一人もいませんでした。ましてや両親が障害者などという人間も。 即座に、環境だけでなく、積み上げてきた人生そのものに対する根本的な劣等を感じました。 友人を作ろうと思っても、彼らは決して私を理解することはできないだろうと、諦めが先走り、結局は自分から周りを遠ざけていったのです。 そのことに対する自己嫌悪、後悔、充実した生活を送り、友人に囲まれた彼らを眺める日々、大学に全てを賭け、進学してその中にいながら手に入れた機会を生かせず無為に月日を過ごした自分への軽蔑、そしてこの状態を作り出したのが紛れもなく私のせいなのだという自己否定の思い。 現在に至るまで不登校は復活せず大学への通学は続けており、毎日一人図書館で本を読み続け、そのどこかに自分が救われるヒントがありはしないかと探し続けて三年が経ちました。そして今の私は自殺願望が限界に来ています。 私は、この精神的な不安定さは環境を原因としているのではなく、もともとの私の遺伝的な問題だったのではないかという疑いを一層深めました。もとから精神に障害を持っていたからこそ、私は常に苦悩し続けているのだという結論は、今まで問い続けてきた自分がまともか障害者かというアイデンティティに関わる問題に決着をつけ、私は最初から障害者だったという回答は、絶望と同時に長い戦いが終わったという安堵を与えたのです。 私はまともでない自分を認めることはできません。障害者である私の人生を肯定することは、私の自由意志による戦いが全て無意味だったという結論を導きます。それは私の人生全てを否定することになります。 私の人生を肯定するためには、障害者である自分を殺さなければならないと思うようになりました。自殺は絶望ではなく論理によって求められるのです。 私は未来を基軸にした幸福な過去を求めています。その理由は、幸福な未来は独立して存在せず、幸福な現在の延長からしか得られません。そして現在もまた過去の延長である以上私の現在は常に不幸であることになります。 私の自己肯定感の不在もこの考え方に由来しているのでしょう。 統合失調症は現在の自己に対して否定的な態度を取ることに特徴があります。現状否定と未来希求への強い傾向は母の遺伝子が無意識にそう働きかけているのでしょうか。 私の思考がいったいどこまで病的なものを離れて私自身のものであるのかが不明です。遺伝的にも病的因子があり、環境的にも最悪な場で育った私は、一体どこに私自身の善良性を求めることができるでしょう。善良性とは環境から与えられるものでしょうか、それとも生得のものでしょうか。自分の心の内の善良生を認識するというのは非常に困難の伴う作業で、そんなものを自覚し認識できる人間が一体この世にいるのか、しかしそれを自覚せずしてなぜ生きていくことが出来るのか私には理解できません。 なぜ皆さんは自分のまともさを信じ生を肯定することができるのですか? 自分がまともでなく善良性も欠いているとなれば、生きることはできないのではないでしょうか? 客観的に見て今の私はまともか、障害者か。 また現在の思考状態に病的傾向は認められるか。 認められるとすればその病名は何か。 これ全て私が障害者であればそれが答えになるのです。複雑な問いに対する最もシンプルな答えです。 皆さんは私をまともだと思われるでしょうか。 もし回答者のなかに医者や心理学者などの専門家がいらっしゃれば、私を分析し、回答を頂ければと思います。 かつて父が自ら生を絶とうとしたとき、私がそれを止めました。しかし今では、そんな父の姿は私の未来を写していたのではないかと思えるのです。私は幼少から父の姿を見て父のようにはなるまいと誓いながら、実は私の人生はそんな父の後を一歩ずつ追っていたに過ぎなかったのではないでしょうか。   自分という人間の可能性をなんの障害も受けることなく全うできれば、私は一体どうなっていたのか。 最後に一つ書かせて頂ければ、私の夢は優しい人間になることでした。他人の幸福を喜び、私が先頭にたって世の中の不幸と戦っていけるような、そんな人間になることが夢でした。そのために努力も重ねたつもりでしたが、もともと私には不可能なことだったのでしょう。 全ての原因は、決して取り戻せない過去を取り戻せると必死になって、新たに未来を作りだそうとしなかった私の無能と愚かさが招いたことです。