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『絶対無』から『相対無』へ

認識の動作主達は認識対象の外部の環境に属しているのでしょうから、認識の動作主達と其の周囲の環境との峻別の為には、当該認識対象によって逆に認識して貰うか、或いは別の認識主体に介入して貰うかのどちらかが必要になるのだろう、と思われます。 従いまして、そう考えますと、次の疑問に突き当たりましたから、教えて下さい。 Q:「原初的な【無極】から【太極】への分化に続く展開の際にも、外部領域からの(先験的な)認識が入れ子人形的に介入し続けていたのでしょうか?」

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

量子論的世界像において、環境(存在的有限性)は、 認識される事によって派生します。 その点において、真の自己とは、認識される「自己」 の外側である。 時空が、時間的流れ=記憶=過去と、空間的広がり =予測=未来に分けられる時、「自己(感受=現在)」 の内外に該当する。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

別のページ(http://okwave.jp/qa/q6881694.html)へ類似の質問をスピンオフさせて頂きました。

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 錯綜体の在り方なのでしょうか?

その他の回答 (1)

回答No.2

 一なる無から限定側面の現出がなされ、それから個と多なる個への展開における個別意識の働きのことを仰せなのでしょう。  インテリジェンス(知)とコンシャス(意識)の発生と展開ですね。  入れ子人形的に遡行していくともういつまでも取りとめがなくなるので、どこかで(どこでも)その本性を確定して、それを本源なる主体とする神話の説明は私達のSelf-Realization Fellowshipというヒンドゥ思想ではやっています。  宗教ですから価値的で精進的な理論でして、哲学の論理を最後まで貫徹しようとすれば不満の解消されない説明ではあります。  初めに無なる唯一の創造者が存在し、意識と個別化認識の機能が出てきたときが人間の発生であるという展開になります。そうなっているのだ、ということですのでご不満でしょうね。  ここらは哲学という知のプロセスで入れ子でいくか、価値存在を認めて足を地面から離すかの問題ですね。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

第一原因論ではなくて、認識主体の存在を認識する別認識主体の存在が入れ子的に必要になる、と見做されてきた可能性の有無を、此処で私は伺っておりますから、再投稿を賜れると助かります。

JidousyaGaisya
質問者

補足

すいません。 例によって、又々の不毛な無駄話ですね。 どうして思索の邪魔を試みたがるのかの科学的な説明を促す質問を、此処で私が貴方に試みている訳ではなかったのですが、貴方の欲求不満の充足への協力の為に、此処で其の幼稚な理由を伺わざるを得ないのでしょうね。

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