• 締切済み

桶狭間合戦の丸根砦と鷲津砦

信長公記では丸根砦と鷲津砦を攻撃したのは家康になっていますが、実際は鷲津砦を攻撃したのは朝比奈泰朝だそうですが、これはどういった資料から判明した事実なのでしょうか? あと信長公記では丸根砦と鷲津砦は、落居と覚しくて、というふうに落ちたらしいとしか書かれていないようですが、最近の桶狭間を扱った本では全滅とあるようです。この二砦の最後はどんな資料(信長公記のような古い本)をあたればわかるでしょうか? ご存知の方どうかお教え下さい。お願いします。

みんなの回答

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.1

後者についてだけですが、『信長公記』には「鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り候」という煙が上がっているので攻略されたのだろうとという牛一の推測の記述がありますが、その次の天文21年5月19日午刻の条に、「鷲津・丸根攻落し、満足これに過ぐべからず、の由候て」と義元が両砦を攻略して満足していた様子が記載されています。 この二つから、『信長公記』のみに拠ったとしても、攻略されたものと判断できると思います。 確認はしていませんが『三河物語』などの徳川系の史料には、家康が砦を攻略した様子の記載があると思われます。良質かどうかはまた別の問題ですが。

noname#154784
質問者

お礼

参考になりました。 回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 『桶狭間の戦い』の謎???

    『桶狭間の戦い』に関する記述で「信長公記」に書かれているものは 1.信長は「おけはざま山」近辺の地理(潮の干満、山の勾配など)を完璧に把握していた。 2.義元はおけはざま山に陣をはっている最中に襲われた。 3.義元が襲われた時、雨が止んだいた。 4.地元の人間が酒などを奉納したという事は書かれていない。 5.木下藤吉朗の事はまったく書かれていない。 などが書いてあります。 特に不思議な事は最終場面では信長勢の2000名が、今川の本陣300名に攻撃を仕掛けています。 つまり兵力の逆転現象が起きています。 ということは、やはり奇襲攻撃だったのでしょうか? 司馬遼太郎は信長が桶狭間の戦いで勝利した理由としては 「騎兵の集団活用により、思いもよらぬ速度で今川の陣に突撃したため」といった理由を挙げています。 また、日本史上、騎兵のみで編成された部隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。 武田の騎馬隊は歩兵との混合部隊なので純粋な騎馬隊とはいえないそうです。 モンゴルやハンニバルのように騎馬隊を用いたのは源義経と信長だけと書いていました。 司馬遼太郎が挙げる桶狭間の戦いで勝利した理由は正しいのでしょうか? あなたが知っている『桶狭間の戦い』の真実を教えて下さい。

  • 石見・出雲を切り取り次第

    明智光秀が信長に謀反するきっかけとなった出来事について ・信長からいじめを受けていた ・家康の接待役をはずされた と言うのは後世の資料に拠る根拠の無い事であると判明していますが ・丹波と近江を召し上げ、石見・出雲を切り取り次第 と言うのは「日本史」や「信長公記」には出てきますか?

  • 異説 桶狭間

    現在通説となっている"桶狭間の合戦"には、ここ何年かの間に大きな変遷がありました。 私が子供の頃は、信長率いる少数精鋭部隊による迂回奇襲が常識でした。 ですが、このところの十数年間に"迂回奇襲説"は真っ向から否定され(TVドラマや関連本での表記も皆目無くなった)、信長軍が低地の中嶋砦より攻め上り快勝を収める"正面強襲説"が有力となり、私自身"桶狭間"のイメージが様変わりして仕舞いました。 しかし、ここ最近"迂回奇襲説"が復活してきています。 主力の正面強襲部隊以外に、今川本隊(桶狭間山)の背後に廻り込んでいたと思われる別働隊の存在が取り沙汰されています。 もしこの別働隊の存在が本当だとすると、織田軍はただでさえ劣勢の兵力を膳照寺や鳴海城方面に割き、それ以外に別部隊を抽出していたことになり、戦の常道としてこの様な作戦が成り立つのか不思議でなりません。 やはり信長の天才たる所以なのでしょうか? 皆さんのご意見をお聞かせください。

  • 織田信長の自伝でよいものは?

    織田信長の自伝でよいものはありますか? 「信長公記」は読みました。 この本に続く資料価値の高い本はありますか? よろしくお願いします。

  • 北条氏政は、信長の家臣?????????

    信長公記 巻十二 天正七年 駿河路鳴動 氏政甲州表へ働の事 10月25日、相模国の北条氏政が信長公に好を通じ、約六万の軍勢を率いて武田氏攻撃のため出陣し、甲斐に向かって黄瀬川を隔てた三島(1)に陣を取ったとの報が届いた。この動きに武田勝頼も甲州の兵を出勢させ、富士山麓の端三枚橋(2)足懸りの砦を築いて在陣した。また徳川家康も北条勢に呼応して駿河へ攻め入り、諸所に火煙を揚げたとのことであった。 なおこの時期、相模の北条氏政の弟大石源蔵氏照(2)が鷹三連を京まで送り、信長公へ進上していた。

  • 今川義元について、記述された史料は存在しない。

    今川義元について、記述された史料は存在しない。今川家の通史もない。小和田哲男による研究本があるだけです。信長、秀吉、家康の本に、桶狭間討死と登場するだけです。今川氏の研究家は独自研究の疑いがあります? なぜ、今川義元をマンセーするのか?

  • 鉄砲はどう武田軍の騎馬隊を勝つのか

    織田信長と徳川家康が長篠で武田軍の騎馬隊を完全に破壊した理由のは たぶん無敵だった鉄砲の威力のためだった、と私はしてましたね。 でも、最近、どの人から面白い意見を聞いてました。 当時の鉄砲の射程距離は50メトール(meter)だったし、 一分には、たって1或いは2の人だけ殺せるんだった。 三段鉄砲の場合もただ1分で3より6までの騎兵を討った。 それでは、武田の騎兵が1分で50メトールを飛び掛かれなかったのか 実例をあげると、秀吉の朝鮮攻撃中、どの戦いでは朝鮮軍の弓兵二人が日本軍の鉄砲隊300人から150人を討ったこともある。 信長公記には、信長の鉄砲隊が浅倉から笑い種となったと記録もある。 言わば、信長軍の鉄砲じゃない何が武田軍の騎馬隊を破壊したって話しでした。 どちらが正しいですか、当時の鉄砲はほんとう

  • 「本能寺の変」の黒幕???

    信長が本能寺を検証するにあたって 『信長公記』『川角太閤記』『当代記』『言経卿記』『フロイス日本史』『本城惣右衛門覚書』『昔咄』徳川家資料を参考にすると 1.公家に反信長の動きは存在した。更に義昭、堺衆、本願寺、雑賀衆、丹波衆等、反信長勢力は各地に数多く存在し活動していた。 2.本能寺の変の当時、光秀は在京信長軍団幕僚のトップであった。織田軍に関わる情報のすべては、在京幕僚のトップに位置していた光秀のもとに集っていた。そして、光秀は変前の一年間、ほとんど信長の周辺にいた。 3.本能寺攻めは、明智光秀方の将兵達にも敵が信長であることを知らせないまま、粛々と実行された。明智軍兵士達は、「徳川家康」を攻撃するとばかり考えていた。 4.本能寺攻撃の現場に明智光秀はおらず、直接指揮をとったのは、斉藤利三や明智秀満勢であった。 5.本能寺には信長以下100人に満たない将兵が、守りをほとんど行わないまま滞在していた。本能寺では戦いらしい戦いはされず、しかも、信長のみを狙った作戦であった。 これら事実を見つめていくと、当時の織田軍に関わる情報のすべては在京幕僚のトップに位置していた光秀が握っています。 そして、光秀がそれらを順次、分析して対応し、その結果を信長に報告しているという政治構図です。 私は在京幕僚のトップの光秀が反信長勢力の何者かにそそのかされ「本能寺の変」を起こしたと推測します。 もし「本能寺の変」に黒幕はいたとすれば、その黒幕は誰だと思いますか?

  • 織田信長について

    戦国時代の織田信長は、超有名ですが、最近の歴史の本を読んでいると、信長の政策のうち、その多くが、独創的なものではなく、信長が最初に行ったものではなかった、とされているようです。 また、昔は、独創的な戦術と言われていたもののうち、桶狭間の戦いは奇襲作戦ではなく、長篠の戦いでは三段撃ちはなく、美濃攻略でも一夜城はなく、というところで、戦術的に独創性がそんなにあったわけでもない、と言われているようだす。 政治的にも、信長包囲網を作られてしまったり、石山合戦では、必ずしも必要がなかったのに、本願寺と泥沼の戦争をしたり、失敗もおおかったようです。 ただ、それでも、天下統一まで、あと少し、というところまで成功してきたという事実はあるわけです。 信長が成功した要因として、他の戦国大名と、決定的に異なったのは、どういう点だったのでしょうか?

  • 桶狭間合戦のIF

    もしも、、、 (1)今川本隊が織田軍の接近にいち早く気付き、織田軍を撤退させた場合 (2)今川本隊が襲撃され壊滅したものの、義元が単騎逃げることが出来た場合 この二つそれぞれで その後の駿・遠・三および尾張の情勢はどのように変化していたと推察しますか?

このQ&Aのポイント
  • スギ薬局アプリでパスワードロックが掛かり、ログインできません。
  • ログインできない問題の解決方法について教えてください。
  • パスワードロック解除の手順を教えてください。
回答を見る