神の存在論について考える

このQ&Aのポイント
  • ホーキング博士が神の存在を否定している一方で、神に祈ることで救われる可能性があるという意見も存在する。しかし、一応祈るだけで救われるのか、また祈る者しか救われないのかは不明であり、神の存在については証拠がないと言える。
  • 一部の宗教の信者たちは意味のないことをしているのではないかとも言われている。しかし、暗闇や無になることを恐れているために神や輪廻、復活などを信じるのか、あるいは論理的な証拠に基づいて神の存在を主張しているのかは不明である。
  • 神の存在についての証拠はないが、信仰することで心の支えになり、救われる可能性もある。それぞれが自分の信念に基づいて生きることが重要であり、他者の信仰を否定することは避けるべきである。
回答を見る
  • ベストアンサー

神はいない!?神はおられる!?

天国はない、神の居場所はないとホーキング博士は明言されました。 すると世界中の数十億とも言われるキリスト教徒などは意味のないことを していることになりますね!?(他の宗教の人々も含めて) また一方で神がいるかいないかはわからない、だから一応神に祈って おこう、いれば救ってくださるし、いなければいないでもともとなのだから。 という人もおられるそうです。しかし、神は一応でもいいから祈っていれば 救ってくださるのでしょうか?また、逆に神は、ご自分のことを熱心に 祈る者しか救わないのでしょうか!?もし自分のことを熱心に祈る者しか 救わないのが神ならば、それはそれでなんだか自己中心的な方ですねー。 質問の内容=暗闇が怖いから、つまり無になるのが怖いから神とか 輪廻とか復活などという絵空事を主張しているだけですか? それとも神が実在するという確たる証拠はあるのでしょうか? (カテゴリー違いかもしれません)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • o-sai
  • ベストアンサー率19% (199/1001)
回答No.19

「宇宙の絶対法則」が神だとすれば、「神は存在する」です。 でもそれすらわからないし、宇宙誕生の経緯すら不明です。 はっきりしてるのは、宗教は「人がつくりしもの」であり、時の権力者の治世詭弁だということです。 神の定義自体が屁理屈ですから、証明しようにも出来ない仕組みになってます。 こういう場で宗教を語っても、各人好き勝手に答えるだけですよ。

dokidoki777
質問者

お礼

このようなサイトで質問するには不適切であるということが わかりました。それがわかっただけでも一歩前進。 回答ありがとうございました

その他の回答 (18)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.18

そもそも キリスト教が描く神の概念って どこからきたのかと考えた方がいいと思う。 http://www.youtube.com/watch?v=-_eLaY-fQgE エジプトのホルスが元の物語なのかどうかはわからないが、しかし 少なくともはっきり言えることは、2000年前に聖書に書いてあるイエスなる人物は            実 在 し な か っ た それは100%存在しなかったことは証明できた。 イエスは神だとキリスト教は主張しているが、そもそも そんな人物は                  実 在 し な か っ た だからといって神は実在しないとは言えないが、少なくともキリスト教が主張する神イエスは           実 在 し な か っ た 西洋の人は長い年月 捕囚されていたってわけです。 バビロニア捕囚。 王や高位の祭祀や政治家など3000人ほどが、バビロニアに移住した事件。 彼らはバビロニアという高度な文明の国に移住して、そこで活躍した。 いわゆる 在日みたいなものです。 日本という国で一旗あげようとやってきて、苦労の末 日本で成功したたくさんの在日の人がいるし、政治他いろんな分野で功績を残している人いますよね。 アメリカという国は、ヨーロッパで宗教のよって不自由な暮らしをしていた人たちが、宗教からの脱出のためにアメリカに移住した人たちでもともと構成されていた。        宗 教 か ら の 自 由 を求める人たちだったが、 彼らに言う宗教からの自由とは、特定の人間から支配されてやらされる宗教。 ヨーロッパは貴族と宗教聖職者が結託して、人々から自由と金をむしりとっていた。 そのような世紀末のようなひどい世界から、脱出したのが アメリカに移り住んだ人たちだった。 彼らは 神を捨てたわけじゃあない。 自国の権力者の作る偽の神は信仰しない だけ。 アメリカ政府が宗教を保護する法律を作ったとき、ピューリタンはその恩恵を受けることを拒否した。 なぜなら、その傘下に入ると、また ヨーロッパで体験したことと 同じ目にあうとわかっていたから。 その集団の一員になると、どんなことになるか わかっていたから 拒否。 「税金面でも優遇して信仰の自由を保障するってんですよ この保険に入らないなんて馬鹿じゃいですか」と政府は何度も説得したが、ピューリタンの人たちは 断固 その保護を受けることを 拒否。 入ってしまったら また 奴隷として利用され、信仰心を踏みつけにされてしまうとわかっていたから。 さて、アメリカはヨーロッパで宗教なんてコリゴリと 宗教によって支配されていない土地を求めて移り住んだ人々の国だったので、19世紀後半までは、各地で細々と信仰をやっている程度の穏やかな暮らしだったそうです。 ところが 自由となったとき、あまりにも自由すぎて それが辛すぎるって人もでてきた。 ベトナム戦争で、反戦活動をして 自由に生きるという ヒッピー文化も生まれたが、あまりにも自由すぎて 苦しくなっている人も多くいた。 ヒッピー文化で 拡散してまとまりの無い社会になったことを嘆いた人が福音主義で、宗教への帰省を呼びかけたところ、自由すぎて辛かった人たちが、規制してもらえるとなり、信者になっていった。 何をどうしろと ことこまかく規定されていたので、何をどうするか自分で考える必要はなくなり、言われたままをただやれば それだけで天国に行くことを保障するという すばらしい保険に飛びついた。 信者になるという保険に入れば、死亡時 天国に行けるという保険が適用されるというもの。 保険に入ったので もう安心。 奇跡などさかんに ある という福音主義の説教は 未来に希望を与えてくれるものだった。 選挙で当選するには 教会に多大なる寄付をすればいい。 牧師が礼拝のときに 神に貢献した人として 信者に推薦をしてくれるから。 信者は自分たちを導く常に正しい判断ができると信頼している牧師の指示にしたがって、推薦された人に票を入れる。 こうやって ヨーロッパで起こったことと同じことが、またしても宗教からの自由を求めた人たちが移り住んだアメリカでも起こってしまった。 ウイルスがヨーロッパからアメリカンに飛び火し、潜伏期間を経て大流行したようなもの。 バイオハザードという映画がある。 噛まれた人が感染し ゾンビになり、ゾンビではまだ無い人を襲ってゾンビにするという映画。 ゾンビ同士は共食いしない、生きている人間のみを集団で襲う。 日本がかつて鎖国した理由。 それはキリスト教という猛毒のウイルスから 日本を守るためだった。 鎖国する以外 感染ルートを絶つ道は無かった。 キリスト教国がアジアを植民地化していったとき、日本は恐怖を覚えた。 韓国がキリスト教国に支配されたら、次は日本が植民地になってしまう。 それで自国を守るために行ったのが 日露戦争。 満州という防人の国を作ったこと。 そうきたか とゾンビ国は日本を別のルートで食うことにした。 兵糧攻めをして、アメリカに喧嘩を吹っかけるように仕向けた。 日本はゾンビたちがそのような考えだと知ることもなく、まんまと罠にはめられ、ハワイにある米軍基地を攻撃。 あとはご存知のとおりです。 ただし日本はゾンビ化していない。 かつてのユダヤ国がローマ帝国に高い税金を納めることで、自分たちの自由が保障されたように、高い税金を払うことで、自国で自由に暮らせる権利を得ている。 ヨーロッパやアメリカで大流行したゾンビ化は、日本では起こらなかった。 キリスト教が言うような神は実在しなかったことは証明されました。 本当の神の存在は証明できない というか 神とはどういうものか 定義されていないので、定義されていないものを実在証明できはしない。 日本は一度目の感染で抗体を作ってしまい、それ以降開国後 キリスト教というウイルスに接触しても感染しなくなった。 日本人の免疫力のすごさですね。

dokidoki777
質問者

お礼

回答に感謝。

回答No.17

 ANo.9のお礼欄コメント: 1.【神が仮に人を創造されたのならその目的は何でしょうか?】  神は窮極価値、目的。だから神なのですよね。  だから、そこに目指すまでの人間には目的や理由はあるんでしょうね。  でも神自身には神が目指さなければならない、何の理由も目的も無い。  それはあるとすれば、神自身だということになるのです。 2.【ただ単に、この地上の他の動物や生物と同じものですか?】  神が人間において経験し、行おうとすることと他の生命体で行おうとする事は違う、内容が。  しかしそこで自分を神は経験する。ということは同じです。 3.【言葉をもち意思をもつことができる、自由意思がある。】  “意思”と“意志”を区別してください。  人間における経験と存在、そしてそこにおける言葉の機能についてご考察されるといいと存じます。  そして他の生命体ではそれがどうなっているか、ですね。 4.【ただ、神が人類に対して無関係ならそこでは信仰も無関係】  人類って、神だという事にはならないのですか?無関係も何もそのものでしょう。 5.【偶然からできて偶然に生きている】  偶然と必然、当為と存在。そして目的と価値、理念。  そこらが曖昧だからそんなご疑問が問題なんですね。  そういう観念と概念は全て人間という存在に迷い込んでいる神の妄想なんですね。 6.【不完全さ(神という完全物ではない?)があるから互いに殺戮を続けているのである】  完全であれば神は何も創れない。つまり自分でしかない。  創造という不完全で自分をそこに経験しようとしているだけですよね。  そこに人間の課題が生じている、つまり神の課題が。

dokidoki777
質問者

お礼

再びの回答ありがとうございました。

  • eld3399
  • ベストアンサー率4% (16/345)
回答No.16

癒される、癒されている人がいるのなら、神がいても、いなくてもかまわないと思います。

dokidoki777
質問者

お礼

実際たとえ神がおられても、おられなくても おっしゃられているように癒される、癒されている人が 沢山おられるならそれは素晴らしいことですよね!

回答No.15

 No.11です。  ★(No.11お礼欄) ~~~~   神が人のおろかさを試しているという言い方をされる方も  おられます。であるならば人と人が何億人も殺しあって  それを見過ごされるのが神ならば・・・ひどすぎます!  ~~~~~~~~~~~~  ☆ まづここでは基本的に ふたつのことをわたしなら考えます。  1. カミについてそれが何であるかが人間に分かったならば それはカミではありません。もしくは その人間がカミであるでしょう。  2. ただしカミについていろんな説明がなされます。それとして考え合うことはあり得ます。  ★ 人のおろかさ  ☆ については その知能の限界としてのおろかさというよりは そもそも初めにカミの言うことに従わなかったそのことが根本的な原因だと説明されています。つまりカミに自分から逆らって 殺し合いならそれを自分たちで勝手にやっているという意味です。そのような自由意志をカミは人に与えたと説明されます。  ★ ~~~~~~  また神は決して人を試されないという方もおられます。  全く違った主張が飛び交っています。神はいない!  神は見えない、神を見たら死ぬ!?神は人がただ  都合のいいように作った幻か!?不明です。  ~~~~~~~~  ☆ 《神が人を試す》と見るのも《けっして試さない》と見るのも すべて主観の問題です。そのように見るならそれぞれにおいて・その主観のかぎりで それぞれの神がいるというかたちです。  ★ 神は人がただ都合のいいように作った幻か!?  ☆ これについては 答えがはっきりしています。そのように説明するだけのことではなく 神はそのようであるとするのなら 神が何であるかが分かったことですから その神は まちがいです。もしくはそのように言う人が 神であるということでしょう。  ★ それ(人びとの互いの殺し合い)を見過ごされるのが神ならば・・・ひどすぎます!  ☆ 殺し合いは 人間が勝手にやっていることですが それでもこれを神ならあわれむであろうと見るなら そのときには たとえば《神の弱さは 人間の強さよりも強く 神のおろかさは人間のかしこさよりもかしこい》と言われたりします。  神の知恵 神の心は 人間には分からないことが多いと思われます。  あるいは 要するに神に対して畏れをも抱かない場合には 話が始まらないのではないでしょうか? 放っておくと思いますよ 神は。  あるいは人によっては 無い神を神としていだいているという場合はあるようです。畏れのようなものはあるはずです。

dokidoki777
質問者

お礼

再びの回答ありがとうございました。

回答No.14

神は誰の脳内(心)にも存在しています。その証拠を脳の研究成果で紹介します。 人間に心(意識=人格)が二つ在る事を証明している文献をウイキペデアから載せてみます。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” 誰も神の存在を、明確に信じる事は出来ないかも知れませんが、脳梁を切断した場合には、自我意識の他に自我意識に脳梁を通して情報を伝えている人格が存在していたと言う事実が証明されています。 ではその人格(右脳)の機能の一端を書いてみます。人間の体と心を働かせています。暑い時には暑い事を脳梁を通して自我意識に伝えています。体には汗を流すように指令を出しています。心には涼しい所がないかを『求めさせています』 喉が渇いたときには、喉が渇いた事を『意識』させていて、水を求めさせながら、体はその時の最適になるように指令を出しています。 怖い物を見た時には『身の毛をよだつようにさせていて、心臓は早鐘を打つようにして、呼吸が早くなるように指令を出しています。最悪の危機を避ける時には、自我意識が反応するよりも早く体と心の指揮権を『自分が持って』行動します。その時は『自我意識が分らないうちに』事が終了しています。その場合を『我を忘れた、或は思わずに、或は火事場のクソ力』とも言っています。 その時には脳内ホルモンがその危機に応じて最適なバランスで分泌されています。 その者は自我意識に、言葉ではない情報として『環境の情報を』自我意識に伝えています。その情報とは『五官から入ってくる情報全てといえます。高い所、狭い所、怖い事や安心出来る事、好きと云う事も、嫌いと云う事もその情報の伝達を受けて、その情報を瞬時に、自我意識がその情報を解読して識別して、言葉に翻訳をして感情として感じています。 人間の体と心に付いて全てにおいて、その者は関わっています。眠る事一つとっても『自我意識単独では出来ません』普通誰でも自我意識が眠っていると思っていますが、本当は自我意識は無くなっています、無意識の自分と交替しています。そうして体と心を預かった『無意識の自分』が預けられた自分の心(左脳)と体を深い眠りに入らせています。 眠れない場合を『不眠症』と言っていますが、不眠症の原因は『意識する自分と『無意識の時の自分』の交替制が崩れた事を意味しています。 人間の心は絶えず自問自答しています。肯定している自分と、否定している自分が共に共存しています。チリの落盤事故の時に、『神の声によって導かれて、助かった』と言うコメントがありましたが、この場合助かる事を肯定する声が『神に当たります』それは自らの『無意識からの声』という言い方が出来ます。 否定する心は『自我意識』が勝つ場合です。或は無意識の声を聞こうとしない場合と言う意味です。自分自身を信じられなくて『疑っている』と言う意味になります。その場合を宗教では『悪魔の囁き』と言う表現方法を取っています。つまり地獄に落ちると言う意味です。 実人生で、否定する声が勝つ事を、身体体機能に関して疑う場合、『自律神経失調症』と言っています。 実人生で、否定する声が勝つ事を、自分自身の行動に関して疑う場合を『神経症』と言っていると感じます。 実人生で、否定する声が勝つ事を、自分自身の心の健康を疑う場合『心を病む』と表現していると感じます。 生物にはその種独特の働きが存在しています、ライオンをライオンたらしめている働きです。猫には猫の働き方があります。人間にも人間の働きが存在しています。それは生まれるときにすでの備わっている働きと言う言い方も出来るかも知れません。 その働きは『不安や恐怖や、安心する事等』を、赤ん坊の頃から既に持っている働きです。大人になった時には、カラオケ一つでも、自分では歌わなくとも、聞くと直ぐに上手いか下手かを分っている働きです。 感動するシーンでは、悲しい場面では悲しさを、笑う場面では可笑しさを、怒りがこみ上げる場面では怒りと言う感情を『湧き上がらせる働きをする者』という言い方が出来ます。 自分自身の命の働きとは『無意識』の中に存在しています、ですが自覚出来難いシステムとなっていますが、このシステムに気が付く場合があります。 このシステムに気が付いた人の事を『不安になり易い人或は神経質な人』と表現しています。その不安の元をただした場合『自身の心の矛盾』に気が付いたと言う理由が在るからです。その場合仏教やキリスト教などの宗教と関係があります。 宗教の意味は心の矛盾の解消と言う意味が在るからです。大人になって二つの機能になって分かれた、(心の争いになって戦っている自分の心)を『もう一度平和な争いがない、赤子のような一つの心』にするという意味が在るからです。 二つの意識の出会いを『見性』と言っています。自分自身を知るという意味ですが、その教えが『お釈迦様の教え』です。神経症も、心を病む事も、自律神経失調症も、自分の心の矛盾を『症状として感じていると言う意味です』 今書いた人間の苦しみは『意識地獄』という状態になっています。それは無意識の声を聞く事が出来なくなった状態をさしています。自分自身の無意識からの声を遮断する効果が『精神科医が処方している薬の効き目』です。 最後に無意識の意識(仏性)と自我意識が出会った後の感想です。心はもう二度と争う事をしなくなります。飽く迄も心が静寂に包まれています。有限の肉体に執着する必要はなくなります。自分の中にはもう既に『永遠が満ちていた事が分るからです』 この心境を『禅』では、『生死の問題が解決する』と表現しています。 その背景には、意識していた事によって、身体も心も、片や首筋が凝ってしまうほどに力んで暮らしていた事が上げられます。その緊張生活からいっきに開放される事を意味します。その事情を道元は『心身脱落、脱落心身』と表現しています。 その意味は全ての障害、或は疑問が解消された事を意味します。寛解を通り越して完治したという意味になります。キリスト教では『神と和解する』と表現しています。 宗教とは言わなかった『お釈迦様の教えは』究極の心の癒しの効果があるという意味になります。或は究極の『癒しの』心理学と言う言い方でも可能かも知れません。

dokidoki777
質問者

お礼

大変興味深く読ませて頂きました。 回答ありがとうございました。 人の脳はそのほとんどが使用されることなく 死に至るそうですね。 脳を100%使った人というのを聞いたことはありません。 そうであればなぜ脳のキャパシティというか メモリーの容量はそんなに大きいのでしょうか? ある人は人の寿命が本来は今の数倍?あるから だと言ってますが不思議です・・・。

  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.13

神を証明してからですね。 いるというのら国連会議の席にでも出してください。 議論は無駄。

dokidoki777
質問者

お礼

確かにおっしゃる通りですね。 ただ議論というか考えることは必要かも。 回答ありがとうございました。

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.12

>神は一応でもいいから祈っていれば救ってくださるのでしょうか?また、逆に神は、ご自分のことを熱心に祈る者しか救わないのでしょうか!?もし自分のことを熱心に祈る者しか救わないのが神ならば、それはそれでなんだか自己中心的な方ですねー。質問の内容=暗闇が怖いから、つまり無になるのが怖いから神とか輪廻とか復活などという絵空事を主張しているだけですか? 回答者はプロテスタントのクリスチャンです。私どもは聖書の言葉を神の言葉と信じていますので、その聖書がなにを語っているか見てみたいと思います。 「求めなさい,そうすれば与えられるだろう。 探しなさい,そうすれば見いだすだ ろう。 たたきなさい,そうすれば開かれるだろう。」マタイ7:7 回答者コメント:神を求めなさいそうすれば見つけられますと述べている個所です。多くの人が実際は神を見出したいと願っていると思います。しかし多くの人が同時にぼんやりとしか求めていないというのが現状ではないでしょうか。個人的なことで申し訳ございませんが、聖書の語る神の世界は「将来と希望と平安の世界である」と述べられておりましたが、この回答者の生活は当時極めて絶望的なものでしたので、その世界に飛び込んで見たいと思いました。しかし神の姿や神の世界は目に見えませんでした。振り返って清水の舞台から飛び降りる程の気合いが必要でした。 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」 黙示録3:20 回答者コメント:この個所は、神は戸の外に立ってあなたの心のドアを叩いていますので、もしあなたが心を開くならば神はあなたとともにいるであろうと述べています。神は有無を言わさずあなたの心に入ることはございません。選択はあなたの側にあります。つまり神は愛であるとの言葉通り、聖書で以下のように述べています。 「愛は寛容であり、愛は親切です。また、人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばすに真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して、絶えることがありません。」 回答者のコメント:上の愛と言う言葉の代わりに神という言葉を入れて読み変えていただければ神の性質が分かります。すこし横道にそれましたが、 「しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。申命記4:29 回答者コメント:神が分かるというのは単純なことではないというのは分かります。今までの生活があり、経験があり、特に理論的なアプローチでしか物事をりかいしないという学習を長い間続けてきましたので、その方法を変えるのは単純ではないと思います。しかしその場所から求めてみなさいというのが聖書のお勧めです。それは知的存在としての自分の放棄であり、社会的存在である自分の放棄であり、過去のもろもろの蓄えの放棄ですが、神が自分の心に入って来て以後はどうだったと申しますと、今までの全てのものがそのまま自分にまた再び戻ってきて、さらにその上に新しい平安と希望に満ちた人生となったのでした。感想を述べさせていただけるならば「なぜもっと早く決断しなかったのだろうということとその後数十年の今に至るまで、後悔したことが一度もない」と言うことです。 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる・・・。」マタイ5:45 回答者コメント:確かに食事をとることができ、寝る場所があり、なにかこの世でしようと思えばできるようなチャンスを与えられているならば、それだけでもろてを挙げて感謝すべきことと思います。そのように必要な事柄はクリスチャンにもクリスチャンで無い人にも平等に与えられています。祈ろうが、信じようが信じまいが、祈らないでいようが全ての人に与えられます。そして時が来ると公平に全ての人にこの世との別れがあります。ある人に素晴らしい頭脳が与えられたり、芸術的な才能を与えられたり、経営者としての能力を与えられて人がうらやむような生活をしているかもしれません。しかしながらおおざっぱにいえば人は生まれ、父や母の庇護のもと学校に行き、社会にでて、家族を持ったり、仕事に邁進したりしています、結局は現代では小さな骨壷の住人になります。 >それとも神が実在するという確たる証拠はあるのでしょうか? 回答者のコメント:神様の世界はたとえですが、FMで話し合う世界です。しかし多くの人がAMで話しているのです。あなたの受信機をFMに切り替えない限り神様のことはよくわかりません。聖書をAMで読みますと表面的なことのみ理解できますが、これは知性や論理で理解するということの限界で本質が見えてきません。従いましてFMで読むことができるようになると聖書が全く別の書物となって語りかけてきます。生活の全ての側面で神を認めることが可能となります。ホーキング博士もAMでしか宇宙を見ていなかったとしか言えません。 このようなご質問に対する回答は教会の牧師が最もふさわしいと思いますので、もしお時間があればお近くの教会をご訪問されるようお勧めいたします。

dokidoki777
質問者

お礼

聖書の言葉もそれを解釈する人々によって全く違って きますよね。ある人々は、目には目を=仇討ち制度オッケー。 ある人々は、血を食べてはいけない=献血禁止。ある人々は 父と子と精霊は一体である!いや別である!ある人は、神父=神の父?無礼な言い方である!ある人々は、放蕩息子の例があるんだから放蕩もまたありである!またある人々は 金持ちの青年の話(すべての財産をなげうって師についていかねばならない)→全財産を投げる、捨てることは無理!だから キリスト教は無理・・・・などなど解釈は人それぞれ宗派それぞれですよね!いかようにでも解釈できます。回答ありがとうございました。

回答No.11

 こんにちは。  1. 《かみ》ということばはあります。どの民族の言語にもあります。また そのカミという言葉しかないと言うべきでしょう。  2. カミは 目に見えないのですから。科学の目にも見えないでしょう。ただし 人によっては 心の目には見えると言う場合があるようです。  3. では そのようにただ主観によっては持たれそれがカミだと言われる場合のある《ことば》が カミか? 《かみ》という言葉が カミか?    4. ――さにあらず でしょう。コトバやカミという文字も発音も あるいはけっきょくのところそのいろいろに規定するところの概念も 《かみ》ではないでしょう。街角に《神》と書いた看板が掲げてあっても その店にカミが見出されるということでもないでしょう たぶん。  5. ではなぜわれわれは 神という言葉を持つのか?  ☆ これだけで よくありませんか?   * 人びとがムレルことは カミとは関係ないでしょう。  * もろもろの教義も それがいかにとうといことを言っていても――概念がカミではないのと同じように―― カミではありません。   

dokidoki777
質問者

お礼

神が人のおろかさを試しているという言い方をされる方も おられます。であるならば人と人が何億人も殺しあって それを見過ごされるのが神ならば・・・ひどすぎます! また神は決して人を試されないという方もおられます。 全く違った主張が飛び交っています。神はいない! 神は見えない、神を見たら死ぬ!?神は人がただ 都合のいいように作った幻か!?不明です。

  • poyai
  • ベストアンサー率44% (12/27)
回答No.10

結局、神や天国というものは人々をまとめ、規律のある世の中にするため作られた幻想なんじゃないでしょうか。 神に罰を与えられるからと人は悪い事をするのを思いとどまり、 天国に行きたいから良い事をし、 天国があるから人は死ぬ事に絶望せずにすむ。 幻想であれなんであれ、人が神や天国の存在を信じる事でまとまりのある社会や平和な世の中が作られているのは確かだと思います。 救いは神が居る事で得られるのではなく、神を信じる事で得られるのでは。 つまりは神が実際居なくても信じる事で心の支えができるので苦痛に耐える事ができ、乗り越える勇気も湧いてくるという事です。

dokidoki777
質問者

お礼

神や天国という幻想が過去何億人という人々を戦争で 殺戮するという過ちを犯してきた人類に抑止力となっている と言えるでしょうか?有史依頼、人は殺し合いをし続けて います。戦争のない時代がどのくらいあったでしょうか? それでも、神や天国という言葉があるから信じることが できる人は悪いことをしない?自分の都合のいい時、悪いとき 痛みがある時だけ神を信じるという考え方はどうもしっくり こないですね~。回答ありがとうございました。

回答No.9

 ホーキング博士等々の物象物証てき理論知の前にはいない。  そういう理論知の後ろ、そういう影をさしている向こうにはいる。  万人森羅万象は神の意識の中の見え方に過ぎないから、すでに神の中の存在物で、すくわれるとか救うというのは単なる狼狽(あわてん)坊の錯覚に過ぎない、遊びでしょう。

dokidoki777
質問者

お礼

神が仮に人を創造されたのならその目的は何でしょうか? ただ単に、この地上の他の動物や生物と同じものですか? 言葉をもち意思をもつことができる、自由意思がある。 この点は他の生物とは違っていると思われますが・・・。 ただ、神が人類に対して無関係ならそこでは信仰も無関係 ということになりますよね。人類も偶然からできて偶然に生きている、そこには不完全さ(神という完全物ではない?)があるから互いに殺戮を続けているのである?救いもしないし救いなど 存在もしない、最初から・・・?。

dokidoki777
質問者

補足

回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 人の死後について

    僕は小さいころから悩んでいたことなのですが、もし神様がいなくて本当にこの世がビックバンから始まったとしたら人は死後、無となってしまいます。しかし神様がもしいて永遠に生き続けられる天国へ行ったとしたら人生が永遠と終わらないということなのでなんだか不安も感じます。僕は今中2ですが、小1ぐらいまでキリスト教徒のようなものでした。(親が入っていたので)なので神様は存在するとただ純粋に思っていましたが、最近は本当にいるのか不安で仕方ありません。誰か、死後についての僕の不安を取り除いていただけたらいいと思います。お願いします。

  • 神は存在しない発言が逆に宗教発言に聞こえた

    私はホーキング博士が神は存在しないみたいに発言した記事が流れた当時、びっくりした。 その発言が逆に宗教発言に聞こえたからだった。 科学者だったら、現在の科学で解明されていないものは「分からない」と言い、 実在の嘘か誠かを研究すべきだと考えるのではないかと思っていたからだった。 神が存在するだの存在しないだのと科学者が断言を急いじゃったら科学の進歩が止まっちゃうじゃん・・・。 科学者と言っても分野が違うのかもしれないが。 ↑どう思いましたか

  • とても馬鹿な質問ですが【死後の世界】について。

    馬鹿な質問をしてすみません。死後の世界を実際に見た方がいないのは 重々承知ですが、こんな話を聞いたことがあるよ、といった感じで ご返答いただけると嬉しいです。 2月に4年間お付き合いしていた最愛の人が亡くなりました。 彼は神などこれっぽっちも信じていませんでしたが、 米国の人だったので、彼のお葬式やお墓はキリスト教の形式に 基づいて行われました。私も神様と言われてもピンとこない人間で、 仏教を信仰している意識がない仏教徒なんだと思います。しかし 私が死ねば仏教のお葬式、お墓に入ります。宗教の教えは恐らく それぞれ違いますよね?仏教ならば輪廻転生、キリスト教ならば 天国で暮らすということになるのでしょうか?(よくわかりません) 非常に馬鹿げた話をします。私が死んだ時にどうしても彼と 同じ場所に行きたいのです。宗教が違うと行く場所も違うのか、 彼は天国にずっといるのに私だけもう1度生まれ変わるのか、 ちゃんと彼に再会できるのか不安です。彼は今どんなところに いるんだろう。そもそも天国とか輪廻転生とかは無くて、彼の 魂なんて存在してないかもしれません。でも何か情報が欲しいのです。 もし私が仏教の形式で埋葬されたら彼に会えないとなるなら、 キリスト教になるし、彼に絶対に会える方法を選びたいのです。 すみません、本当に馬鹿な話をしていますが、「こうらしいよ」 「こういうの聞いたことあるな」といった感じでよろしくお願い します。

  • 『善の研究』における神の概念

    西田幾多郎の『善の研究』の第二編第十章に「実在としての神」という章があります。 この第二編は「真の実在」を規定する部分です。 「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」(第二編第二章) 意識現象は、刻々と移りゆくものである。 その意識の根底に不変の統一力(「統一的或者」)が働いている。 この「統一的或者」は、我々の思惟意志の根底にあるもので、同時に、宇宙現象における統一力でもある。 「神」が出てくるのは、そうした流れです。 「この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である」 さらにこの神は 「この点より見て神は無である」 「ただよく無なるが故に、有ならざる所なく働かざる所がないのである」 という存在でもあります。 西田の「純粋経験」の原理から導き出されたこの「神」の概念が、何度読んでもよく理解できません。 すでにお読みになり、ご理解していらっしゃる方に教えていただければ、と思っております。よろしくお願いいたします。

  • キリスト教徒になれますか?

    牧師が2回来ました。 門前払いしてしまいました。 ザンゲはしなければならないですか? 細川ガラシアさんはキリスト教でしたが、 不幸になりました。 キリスト教は信用できますか? 神を疑う者はキリスト教徒になれますか? 聖書を踏んだことがあります。 神は許してくれますか? 私はキリスト教徒になれますか?

  • 全知全能の神様

    全知全能の神様と言うのは、身内や他人から気違い扱いされる者なのか? イエスと言う人物は、なかなか人には理解されにくかった様だが 三位一体論は、あまりにも現実離れした絵空事だと言う事だろ。 普通の人間は誰もイエスが神などとは思っていないのだから、 キリスト教徒も現実を受け入れるべきではないだろうか? マルコ福音書3/20~22 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は 食事をする暇もないほどであった。 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。 「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男は ベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、 「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 ヨハネ福音書10/20 多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。 なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」 補足アホクリと言う人種は、神様と言ってながら、平気で賢者などと言い出す。いい加減三位一体など捨て去った方がいい。馬鹿にされるにきまってるよ。

  • イエスキリストのいう永遠の命とは輪廻転生のこと?

    クリスチャンでも仏教徒でもありません。クリスチャンの方たちは、信じる者に永遠の魂が与えられるといいます。しかし聖書に書いてある事柄以外の宗教的観念については口を閉ざしてしまいます。仏教では魂は永遠でありまた甦るものとしています。霊能者は前世をも見ることが出来るといいます。どちらも永遠には変わりません。例えば、輪廻転生を信じているクリスチャンっておかしいですか?誰か教えて下さい。ついでに言うと、私の意向は、神はやはり唯一のもの(イエスキリスト)のような気がしています。仏教は霊や魂も神と崇めているんですよね?間違っていたら教えて下さい。

  • 現世に悪があるならば、神は悪か無能か存在しない

    悪や苦しみは神の部分ではなくて、善で幸福な部分だけが神の領域なのだとすると、神は全知全能ではないことになりますよね? 何故なら悪とか苦しみの領域には力が及ばなかったのだから。 もし、全知全能の神がいて悪や苦しみも存在するならば、それは神の責任だから神は悪者でイジメではないでしょうか。 というか、そもそも悪も苦しみも偶然の災難であり、神などいなく、ひたすら迷惑な大自然と霊(または肉体に随伴する精神)だけがあるのではないでしょうか。 キリスト教関係の考え方だと、現世の苦しみは魂を磨いてより天国的世界に行くことができる、そのチャンスを与えてくれるから、悪や苦しみも神の慈悲なのだ、というのがあるのではないでしょうか。 しかし、それは悪や苦しみを正当化する屁理屈に過ぎないのではないでしょうか。 悪や苦しみを乗り越えないと、幸せな魂になれないという世界のシステムそのものが、愛ではなくイジメなのではないでしょうか? こんな嗜虐的な神様は、悪か、力がないか、存在しないのではないでしょうか。 とすると、こんなものを崇める価値なんかないんじゃないでしょうか。 世界は、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあるのではないでしょうか。 この時、死後の世界があるのか、死んだら無になるか、という問題はあまり意味がなくなるのではないでしょうか。どっちだったとしても、どこまでも迷惑な大自然と霊だけがあり、神は無視してもいい存在になるから。

  • 世界の宗教を統一的に理解するには?

    世界には数多くの宗教があります。これらの宗教の語ることは相互にかなり違っている部分もあります。これらを統一的に理解するにはどうしたらよいでしょうか? 仏教の輪廻転生はキリスト教の死生観と合いそうにありません。輪廻転生するなら、地獄や天国に行ってもまた生まれなおすことになり、神の裁きはどんな意味を持つのか?もし、キリスト教の死生観のように人生は1回きりで輪廻転生がないなら、なぜ悟りを求めて修行する意味があるのか? いくつかの可能性を考えてみました。 1)どれか1つの宗教が正しくて、他の宗教が間違っている場合 これが一番簡単な解決かもしれません。 しかし、ではどれが正しい宗教か見つけ出すのは大変そうです。また、なんで正しい神様が他のニセの宗教を放置しているのか疑問です。 2)神様から話を聞いた方が少しずつ誤解している場合 本当の神様は1つですが、神様の話をきいて宗教として伝える過程で伝聞の誤解は発生しているのか?しかし、輪廻転生があるのか?神様は1人なのか大勢いるのかなど、かなり大きな違いがあって、伝え間違いの範疇を超えている気がします。 3)神様はエリア制になっている場合 それぞれの神様に担当地区があって、そこのみを管轄しているのか? これなら、神様ごとに違う方法で世界を治めているのであり、多くの宗教が並立的に存在できます。しかし、宗教の中には唯一の神をうたっているものもあり、教義の修正が必要になるかもしません。また、様々な宗教が入り乱れている地域もあります。その場合、どうするのか? いずれも、統一的に理解するのは難しい気がします。 統一的に理解するよい方法はありますか?

  • いつから、全員が天国行きになった!

    大半の日本人にとっては瑣末な事なのかもしれませんが、メディアは死亡した人に対して「○○さんは天国へ旅立ちました」とか「天国にいる○○さん」と言うように、その方の宗教・宗旨を無視して、死亡した人を勝手に天国送りとしております。 そのせいなのか、或いはメディアが後から追随しているのか、有名人の葬儀で弔辞を読む場合にも、仏式で葬儀をしているのに『天国』行きと決め付けているように感じてなりません。 私の認識では、仏教徒にとって「天国」とは六道輪廻における「天界」を指すものであり、それでは葬儀に際に長い読経を必要とはしません。一方、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の教えでは、それらの宗教を信じていない者は天国へは行けなかった筈です。 又、どなたの著書だったかは忘れましたが、天国も仏国土も同じ場所を指すと言う考えを読んだ気もいたしますが、それであればキリスト教が日本に布教された戦国時代よりも前に流布していた仏国土(極楽浄土や瑠璃光浄土など)を使い続けない理由が判りません。 で、ここからが質問 何でもかんでも天国行きがメディアで一般化した(或いは、一般化したと考えられる)のは「どの時代」や「どの事件」からなのかを何かご存知の方は、浅学な小生にお教え願えませんでしょうか? もしかして、戦前の『天国に結ぶ恋』が原因なのでしょうか?