• 締切済み

戦時中の特高警察について調べています。

当時の特高警察は手紙の検閲までして反戦や戦争への不満、 天皇への不敬言辞等をする人間は誰でも魔女狩りのように 容赦なく検挙し、拷問にかけていたというイメージがあるのですが、 実際にはどれほどのものだったのでしょうか? 捜査令状等もなく、かなり下っ端の新人警官とかでも特高なら 自分の独断でいきなり踏み込んで連れていき、 誰の許可も得ず、拷問のような残虐行為が可能だったのでしょうか? もしそうなら、特高であれば誰でも、例えば「こいつは気に入らない」という 極めて個人的な理由だけで好き勝手に逮捕して社会的に抹殺できてしまいますよね? それくらい傍若無人な制度だったんですか? それともやはり特高と言えどもそれなりに法秩序があり、 (形だけでも)令状などが発行され、それに基づいて逮捕され、 拷問にいたってはさすがに上役の許可や監視がなければ出来なかったのでしょうか? もしくは、そもそも逮捕や取り調べ(拷問)を行うことができるのは 特高警察の中でもかなり権限のある上役の人だけだったのでしょうか? 誰がどういう判断で逮捕して拷問に近い取り調べなどをしていたのか、 誰にどのような権限があったのかを知りたいです。

みんなの回答

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.2

 今晩は、学生時代に歴史学を専攻しその関係から今でも歴史学に関わっているオジサンです。 戦時下の特高警察に関してということですので、歴史的な史料と具体的なイメージを知るための材料を幾つかご案内させていただきます。  史料としては『現代史資料』のNo.40・41・42及び45巻、『続現代史資料』のNo.6・7巻に該当する史料が収められています。巻のタイトルは「マスメディア統制1」「マスメディア統制2」「思想統制」「治安維持法」「軍事警察」「特高と思想検事」となっております。これらの書物は大学の研究室をはじめ公共図書館で閲覧することが可能ですので、詳細に関してお知りになりたければ目を通されることをお奨めします。  またその具体的なイメージを知りたいというのであれば、井上ひさしの作品『組曲虐殺』、オンシアター自由劇場の『上海バンスキング』、劇団四季の『ミュージカル李香蘭』などの映像作品からその一端をうかがい知ることもできます。  特高警察は当初「社会主義思想への取り締まり及び弾圧」がその主要目的でしたが、やがて変質して「戦争遂行」の目的に反するモノ全てを対象とするに至ります。いささか乱暴な表現が許されるならば「レッテル貼り」をすることにより「社会的に抹殺してしまう」ことが可能となり戦時体制の構築及び維持を遂行することが一つの目標だったと言うこともできます。他の回答者の方が詳細に説明されている様に特高警察の管轄は内務省です。外務に対する内務との位置づけで彼ら内務官僚は政府内部でも特殊な立場にあったことも現在の研究で明らかになっています。  「レッテル貼り」の持つ無言の圧力が如何に怖いモノか、最近の某府知事の言動に僕は危惧を感じています。「法律がこの様に規定しているから」「秩序がこの様なモノでなくては組織を維持することはできないから」との何か誤解しているようなモノの言い方が果たして本当に「弁護士」としての職にあった人の発言であるのか、弁護士であるならば「法と実態の間にあるギャップ」を法の解釈と運用でどのように解決すべきかを問うことが本来の職務ではなかったのではないのかと思い当たってしまいます。  

isuruhito
質問者

お礼

ありがとうございます。 自分も公立の図書館でいくつか特高に関する本を借りて読んでます。 特高の制度やその仕組みなどはだいたいわかってきたところです。 自分としては特高だった人の、 特に末端の人間が当時どう思っていたのかを知りたいです。 特高の人でもその現実を目の当たりにして疑問を感じる人もいたり (それを口にすることは決してできなかったと思いますが)、 逆に特高であるのをいいことにその権力を「私用に」乱用していた人などもいたのではないかと。 個人的な回顧録などがあれば是非読んでみたいと思ってます。

noname#140269
noname#140269
回答No.1

特別高等警察とは、第二次世界大戦前の日本において、日本の主要府県警の中に設置されていた秘密警察だったんです。警察部長を経由して地方長官の指揮を受ける一般の警察と異なり、内務省から直接に指揮を受ける特殊な警察組織です。被疑者の自白を引き出すために暴力を伴う過酷な尋問、拷問を加えた記録が数多く残されるなど、当時から一般での略称、特高警察や特高の名は畏怖・恐怖の対象でありました。 特高警察を指揮していたのは「内務省警保局保安課」です。現自民党の元官房長官「町村信孝」氏の父、「町村金吾」氏も特高を指揮していた事があります。1911年に幸徳秋水による「大逆事件」を機に、社会運動を抑圧する為に整備されました。1922年に「日本共産党」が結成され、1925年に治安維持法が制定されると、共産主義者や共産党員を厳しく取り締まり対象にしました。一番有名なのは「小林多喜二拷問事件」でしょう。 >それくらい傍若無人な制度だったんですか? =特高の目的はあくまでも反社会的な人間や団体の排斥・排除にありました。ですからそうゆう者達は地下で運動をしていたんですが、密告等により検挙されたりしていました。誰でも彼でも気に入らない人間を検挙という訳ではありません。あくまでも取り締まり対象は「社会運動者・団体」「共産党員」です。 >拷問にいたってはさすがに上役の許可や監視がなければ出来なかったのでしょうか?もしくは、そもそも逮捕や取り調べ(拷問)を行うことができるのは特高警察の中でもかなり権限のある上役の人だけだったのでしょうか? =いいえ違います。特高が被疑者を拷問するというのは「不文律」で暗黙の了解でした。ですから上の許可が無くても拷問はしましたし、もしそれで死んでも、上司に報告すれば、誰がどう見たって拷問で死んだのは明らかなのに「心臓麻痺」とされていたんです。無論殺された人の仲間は反発しますが、それが表だってしまうと、今度は自分達が拷問にかけられるし、しかも内務省が指揮していたんですから、どうにもならず、ただ手をこまねいているより無かったんです。 参考になりそうなURLも貼り付けておきます。 =http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-116.html

isuruhito
質問者

お礼

ありがとうございます。 ということは、逮捕するにはそれなりの証拠や根拠、さらには令状等も必要だった、 しかし、一度捕まえてしまえば誰が何をやってもいいという無法状態だったのでしょうか? また、巡査クラスの下層部の人間でも自分の判断で逮捕・取り調べ等の権限があったんですかね? 自分が怖いなと思うのは、まったくなんの問題もない人を 特高が個人的に気に入らないという私情だけで 強引に反社会的人間に仕立てあげて捕まえ、抹殺していた、 ということが少なからずあったのではないかということなんですよね・・・

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