• 締切済み

何が善で、何が悪だと思いますか

雪中庵(@psytex)の回答

回答No.8

静物としての人間にとって、生きる事は根源的意志=任意の選択であり、「善悪」は、二次的選択としての社会性(=分業、組織化)において派生するものである。 つまり、本質的に「善悪」以前に、「意志の充足」という絶対的価値がある。 宗教やモラルいおいて、「善悪」の概念を先入的価値として絶対化せねばならないのは、そうした本質的な把握をせず、現象的なものに“仮想的第一原因”を求めるがゆえである。 深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より深まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(自我仮説と時空仮説の相補分化)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(低認識(自己チュー)なままの他律的社会性)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=充足減)に属する。

5ji55fun
質問者

お礼

御回答難し過ぎてさっぱりワカリマセン。

関連するQ&A

  • 善を見ては渇する如くし、悪を見ては聾するが如くす

    善を見ては渇する如くし、悪を見ては聾するが如くす。 この言葉って正確にはどうゆう意味なんですか?

  • 愛してその悪を知り、憎みてその善を知る 

    いい諺ですよね・・・。 >意味 人を愛しても、その人の欠点を認め、 また、人を憎いと思っても、 その人の長所を認めるべきである、という教え。 http://kotowaza.avaloky.com/pv_lov04_03.html 素朴な質問です。 みなさんが一番好きな諺をひとつ挙げていただけませんか。

  • 「悪」とはこれすなわち「善」ですよね?

    長々と書く必要も無い。 「悪」とはこれすなわち「善」ですよね? 思うところお書きください。

  • 善をなさんと欲し悪をなす

    高名な僧侶の言葉だと記憶していますが誰だったかな(笑) あなた自身の身の回りで、このようなことがあった方、具体的かつ簡単に聞かせてくださいませんか 哲学や宗教の本に載っているエピソードはどうにも深刻、高邁すぎて、拙には理解し難いことばかりです。 「ア~、ある ある」とか、「このあいだね、飲み屋でね・・・」とか、そのあたりの話で・・・・・ ほんっとに暇なときにでも回答を登校していただければ嬉しいです

  • 善と悪の捉え方

      善と悪の捉え方について見たとき、人間には3種類いるよーである。 1つは善と悪は絶対的なものであり、人の立場や社会情勢に関わらず常に明確に区別できると考える人。 2つは善と悪は相対的なものであり、その時々の人の立場や社会情勢により善が悪にもなり悪が善にもなると考える人。 3つはもともとこの世に善も悪も存在しないと考える人。 果たしてどちらがより真っ当であると言えよーか、 どちらがより真理に近いと言えよーか。  

  • 悪と善

    われわれはどうやって悪を善から区別しているのだろうか?

  • 「善」と「悪」が混ざり合ったら?

    「善」と「悪」が混ざり合ったら、どうなると思いますか? 「善」に近い「悪」ですか? 「悪」に近い「善」ですか? それでは回答、よろしくお願いします。

  • 善にも悪にも交じれない

    私は善にも悪にも交じれないと感じます。 優しくて素敵な人と知り合うチャンスもありました。しかしいつまでたっても対等になれず、一緒にいれて嬉しいのに、苦しいのです。相手の心の美しさが、自分の邪心を際立たせたり、その方の潔癖さに心の中でたじろいでしまうのです。その人の優しさや純真さや潔癖さに触れる度に、仮面を被ってしか一緒にいられない罪悪感やむなしさを感じます。 かと言って悪口を言ったりいじめや悪事を働くことに罪悪感を感じない、それを楽しむような人と一緒にいても苦しく、恐怖を感じます。 そんなことはしたくない、そんなことをして喜びを感じる人間になりたくないという思いが強いです。しかし、妬みや嫉みという感情は大いに理解でき、それを持ってしまうのが人間だという思いも持ってしまいます。 この優柔不断さが自分でも嫌でクリスチャンの友人に話すのですが、善と悪を選択出来ない者は両方に引っ張られてボロボロになる、賢い人と歩めと言われました。 善にも悪にもなれない、中立にいるような人間は結局は一番の悪なのでしょうか。 戦いも主張もしない傍観者は一番の卑怯者なのでしょうか。 両方の考えに感化されて、自分の本当の気持ちもよくわからくなりました。

  • 善がなければ悪はない

    なぜ善と悪は生じたのですか?

  • 善はあるが悪はない

    この世界には善はあっても悪はないように思うのです。 だれでも自分にとって良いことをしているのですから、 全ては良い事から発生しているのです。 「良い」から「悪い」が派生するはずがないですよね?