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amaguappaの回答

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  • amaguappa
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回答No.25

17です。 > 善が神へ通ずる回路によって示されうるのではなく、個的に湧出するオリジナルのものになったとも見れます。その方が、素晴らしくないですか。 わたしはつねづね、思考に少しもブレーキ力を見出せなくなるまでは、ドライブモードで思考しないようにしたいと思っています。 歴史をずっと遡ってみると、むしろ、「善」はかつて個的に湧出していたところへ、文明とともに神への回路に変化したのではなかったでしょうか。 人類に書字が必要になったのは、土地や私有財産の権利を石板に掘りつけるためでした。この、言葉と書字と財産との緊密な関係は、人間が社会を形成する力学の礎でしょう。話し言葉だけでは、平和裡に財産を蓄積し子孫に残し、耕作や牧畜を維持発展継続させながら人数と領域を拡大させる勢いが、安定的に得られないのですね。 仮にそんな時代のことを思えば、東西をとわず、善とかgoodとかbienの語源たちが意味するものとは、案外即物的であるかもしれないと思います。 漢和辞典をひくと、善という漢字は、羊の立派なお供え物に才智あふれる立派な言葉の組み合わせで、たっぷりと豊かなことを意味するとあります。goodやbienには意味がたくさんありますね。それぞれ700-1100年頃の古英語go-dと紀元前50年頃の古典期ラテン語bonusへ遡る限りでは、英語の方は、適合や適切さを表しています。ラテン語のほうは今日と変りないくらい意味する範囲が広いです。抽象名詞化した語のほうを見ると、善/優秀/財産/利益/幸福/安泰(bonum)のほかに、財産(bona)、善/優れていること/誠意(bonitas)、愛国者/貴族党(bonus)あたりの語を生んでいます。 こうして見ていると、お祭りを一緒にする程度のコミュニティでの人づきあいにおける資質から、都市国家の安定的な形態を維持する構成員としての資質にいたるあたりまでを善と呼んでいたような気がしませんか? そうしたとき、ちょうど羊と言葉のように、他者へ与えられうる充足したものを具備した様子が想像でき、善の意味の源は、一つの強い力であると考えられるのです。きっと、西洋文明の流れでは、そのような力は、コミュニケーションや交渉に際して圧倒的に有利となるような豊かさなのだろうし、そのような個の集合した国家アメリカの自尊心は同じ理屈でまかりとおるのだろうなと思われます。 けれども東洋では果たして(もちろん一枚岩ではありませんが)、善の意味の源が上記のような一つの強い充足した力であるということを、相乗相剋しながら流転している要素と捉えるような気がするのです。天命や運命のもとで、善というそのような充足した力が折々に、人の資質というかむしろ境涯に現れ、また折々に去るといった感じですね。 だから、パーソナリティとしての善が考えられうるのは西洋的な発想だと思うのです。 こういうのは物語世界にも反映していて、王権神授めいた神聖な印の杯や剣といった道具立てを介して、西洋の王は王になるべく王になったなら、そのアイデンティティを喪失しないでしょう。東洋の皇帝たちは物語においてさえ興亡盛衰史を紡ぐ模様のように描かれるでしょう。 善の話をしていて王や皇帝の話になるとは、ちょっとおかしいものですね。でもよく考えると、やっぱり至高の力として、善とは、観念の側面以上に具現される側面の強いものだということになるのでしょう。 お尋ねがありましたが、善に生まれるのではなく善になるのだ、とわたしが書いたのは、相乗相剋的な見方に通じていると思います。ものやことが、生来的に、生得的に、善であったり悪であったりするのではなく、変化に富んだ流れが作用しあうなかで、局所にあるものやこと、そして人が負う様相、あるいは負わされる様相が、善や悪だと考えます。先に述べたように、それらは、コミュニケーションや力の場で他者におよぼす力学を潜在的に持っている状態を指していると思うからです。 そういう意味では、おっしゃるようなオリジナルな湧出には届かないかもしれず、微弱な磁場としての合意形成を読む、といったホタルの明滅のような光よりほかにないのではないかとさえ思います。 > 大きなロゴスにも小さなロゴスにも、光を当てる機会に恵まれているからです。 色々な善があってよい。それぞれに究極があってよい。道は一つではない。完成 に至る道は一つかもしれないが、それは各々の人間に存在するのであって、外部 的に与えられる一つの道ではないでしょう。満天の星の如く、善が輝けばよいと 思うのは賎しいでしょうか。 たぶん、善が力であるというわたしの論旨に沿うなら、各々のそれが、属性(attribut)のロゴスによって光るのであるなら、拮抗や征服を呼びこんでしまうでしょう。アラブ人であることが善だとか、キリスト教徒であることが善だとかの話です。 そうではなくて、ほんとうに難しいのですが、人が自分を自分であると認める疑いのなさ(identite)に立って、ものごとを見、互いに他者を見渡したときに、満天の星であることに気付くという、ただそれだけのことが、善という大局の力の一部に自らを列することになるのではないかと思います。

noname#144995
質問者

お礼

私の住むところでは、夜、裏山へ上って街を見下ろすと、湾の手前に、星々が重ね重ねになって畝を作っている様な景色を目にすることができます。 史上空前の発展を遂げている現代文明の只中で生きる者として、人類の拓いた地平の広さ、そしてそこに住む千、万の人々の人生を思うと、ああ、もう(思索などは)どうでも良いのだな、私は私、一人としてただ生きて行くほかないのだろうと、無力感による自己回帰に至ったりします。 以前はどこか尊大に、自分が何者かであるように思い為して生きてきた節もあったのですが、自分存在のある種の矮小さと、個としての確実性を実感すると、現代文明に生きる当事者としての人生の有り様が意識されて来ます。地上の星々の合間を縫うようにしてあくせくと働き、全体の数を思えば僅かの数であろう人々との交流を為し、50年と言う人生は短いものと悟って寂しげに生きてゆくのかと思うとやるせなくなります。そのような中で改めて善を志向すると、善は宇宙の幅を渡る星の光とは違う、ぽっぽと明滅する蛍のようなやさしい光ではないかと。そういう認識に至ります。 されどしかしながら、自らの歩むことが可能な人生において、自由や平等、清浄さと言う事柄を求める所にはやはり、星間を渡るに十分な風が吹きえるのであり、人はその風を捉えて広大な世の中を越えて行けるだろうと望みを感じたりもするのです。そのような求めに伴う善を身に纏うのであるならば、人生の終局に至りて、善く生きた、というのも夢ではないだろうと思えるのです。 随って善く生きるとは、矮小な個であるのに尚、真実の智慧に生きようとする勇気のある人の生き様ではないかと思い至りました。 善が力であるならば、このように広大な文明を発展させた人類社会においては、尚更非力なる個人ということになってしまう。そして事実非力なる、つまり善においては消極的存在でしかありえない個人だとしても、輝ける人生を得ようと思うならば、聡明さに任せて求めるところを定めるべきであると。一人一人の形なき理想を持ったミュトスが、その人を地平を越えた境地へと推し進めてくれるのではないかと期待しているのです。

noname#144995
質問者

補足

お礼文の最後部分、ミュトスと言う単語を使いましたが、意味は「流れ」「志向性」と捉えてください。

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