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アウグスティヌス哲学の「幸福」について
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.1&3です。 ▼(アウグスティヌス:告白) ~~~~ それにしても主よ。 御目の前においては 人間の意識の深淵も赤裸々にあらわれています。 たとえ告白しようと思わなくとも あなたにとって何かかくれたものが私のうちにありうるでしょうか。 (告白10・2・2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~ ここでいう「幸福」とは何を指し、何をして「幸福」と呼べるのでしょうか。 また「幸福」と「幸福の生」とでは意味が異なるのですか? ~~~~~ ☆ すべて身も心もゆだねています。その結果 仕合わせと感じるなら それが《幸福》であり《幸福の生》です。まづは 主観であるという意味にもなります。 非思考であり 無根拠だという意味にもなります。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.1です。 《わたしは閨(ねや=寝屋)の信実をつくしました》と『告白』では書いています。 歳を取ってからも 朝起きるとふとんが濡れていたと なさけなさそうに書簡か何かでもらしています。 参考まで。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
アウグスティヌスってのは放蕩息子で女基地外だったそうです。 好きなときにセックスがいつでもどこでもできるようにと思って、セックスするために10代で結婚をした。 携帯便所かわりに妻をもらったわけです。 しかし、彼は家だけじゃなくて あちこちに便所を持っていた。 あっちの便所 こっちの便所と 大ゲリ男だったわけです。 で、いつもゲリピーで腹痛起こしており、不幸だったのですが、ゲリをずっとしていて下痢が出尽くしてしまい、ゲリがとまった。 つまり インポになった。 長年ゲリ つまり性欲に悩まされて不幸だった彼は、やっとゲリ つまり性欲が無くなりインポになったことで、楽になったわけです。 要するに「神よ私をインポにしてくれてありがと やっと残りの人生を性欲に悩まされず穏やかに暮らしていけます、神以外 私をインポにしれくれるお方はおりませんでした。」となったわけです。 実際は人間の男の精子製造には限界があり、作りすぎると早めにインポになる。 アウグスティヌスは聖職者でありながら、女あさりがすさまじく、結果 早めにインポ つまり不能になった。 それだけのこと。 エロジイの独白ですから、あまり真剣に読まないほうがいいと思う。 男が悩まされるものが性欲ってことで、女のわたしにゃ その苦しさはわからん。 性欲のために他国を侵略し、そこに住んでいた男たちを虐殺し、自分ためをそこに住んでいた女に植え付ける。 男の暴力の源は性欲、殺人鬼は性欲がものすごい。 殺人犯の9割は男。 そういう意味で、アウグスティヌスの性欲は暴力で、暴力性が非常に高いことを自分でも悩んでいたんだと思う。 セックス=暴力だったわけです。 で、キリスト教は暴力であるセックスを否定しようと、ローマ・カトリックの聖職者は童貞限定ってことになったわけですが、実施は女がだめなら男同士でいいじゃないかってことで、同性愛が教会内で盛んになったわけです。 なんか男社会って刑務所と同じで、聖職者になると(刑務所に入ると)犯される って感じ。。。 こえぇぇ アウグスティヌスは両刀使いだった? 何人男を手篭めにしたのやら・・・・・
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 たとえばこういうところでしょうか。 ▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~ たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。 しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。 永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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