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アウグスティヌスの「物」への考え方について

いつも楽しく拝見させていただいています。 古代キリスト教の神学者、哲学者であるアウグスティヌスは、 「物(見えて触れる対象物?)」に対してどんな考えを持っていたのか、 もしお分かりになる方がいたら教えて頂けると幸いです。 よろしくお願い致します。

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回答No.3

のちにデカルトが方法的懐疑としておこなった原型の箇所ですね? これは『神の国』の第十一巻二十六章にあります(岩波文庫版だと第三巻)。 手元に本がないので、以下は熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』から孫引き。 「私たちは存在し、私たちの存在を知り、そのように存在し、知っていることを愛している。いま述べた、三つのことがらにおいては、真なるものに似た、どのような虚偽も、私たちを惑わすことがない。私たちがこれら三つのことがらに触れるのは、外界に在るものの場合にはそうであるように、なんらかの身体的な感覚によってではないからである。 私たちはたとえば見ることで色を、聞くことで音を、嗅ぐことによって匂いを、味わうことによって味を、触れることで固いものと柔らかなものを知る。私たちはまた、そうした感覚的なものについては、それらに類似していながら物体的なものではない像をもち、その像を思考によって思いめぐらし、記憶で保持し、またそうした像によってそれらのもの自体を欲求するように刺激もされるのである。私が存在し、私がそれを知り、愛していることは、私にとってもっとも確実である。そこには表象や、表象によって想像された像の、ひとを欺く戯れが介在しないからである。 これらの真なるものにかんしては、「きみが欺かれていれば、どうか?」というアカデメイア派のひとびとの反論も私は恐れない。私が欺かれるなら私は存在するからである。存在しない者は、欺かれることもありえない。だから、私が欺かれるのなら、私は存在するのである。(『神の国』第十一巻第二十六章 引用はp.173-174『西洋哲学史 古代から中世へ』) もう少しかみ砕いて説明すると、わたしたちは自分が存在することを知っているけれども、この「知る」ということは、わたしたちの外部にある物、色や、形や、手触りや味を通して「知る」のとは、その知り方がちがっているわけです。外部にあるものは、認識するわたしたちと、認識される「物」がまったく別個に存在していますから、いつでも誤謬の可能性があります。たとえば水の中での舟の櫂は、曲がって見えます。 外界にある物は、そのたびごとにかたちを変え、場所を変え、部分をもちます。けれども水の中の曲がって見える舟の櫂も、まっすぐな舟の櫂も、同じものであると判断できるのは、わたしたちが「櫂」の像をもち、それを記憶に留めているからです。 これに対して、自分が存在する、という認識においては、認識する者と認識されるものとが分離していないから(ひとつのものであるから)、自分が存在するということは、絶対的に真であるといえます。というのも、仮に欺かれたとしても、「存在しない者は欺かれることもありえない」のだから。 >「物(見えて触れる対象物?)」に対してどんな考えを持っていたのか 上記の回答がこの疑問点に対して参考になれば幸いです。

その他の回答 (2)

回答No.2

 こんにちは。  じつはアウグスティヌスは その著『キリスト教の教え』で 《ものについて》語っています。  ◆ (『キリスト教の教え』第一巻第二章 ものとしるし) ~~~~  すべての教えは もの(レース)についてであるか しるし(シグヌム)についてである。  しかし ものは しるしによって学ばれる。・・・  ところでその用法がすべて指示するはたらきに属するようなある種のしるしが存在する。たとえば言葉がそれである。人がすべて言葉を用いるのは なにかあるものを指示するためだけだからである。・・・                          (加藤武訳)  ~~~~~~~~~~  というふうに議論を始めています。  目次として 全体が次のような構成です。  ◆ (同上) ~~~~  第一巻 ものについて  第二巻 しるし  第三巻 しるし つづき  第四巻 表現について  ~~~~~~~~~~~  ですから・したがって 《もの》と言っても それによって・つまり言葉というものによって 何が指し示されているのか 何がその表現者の真実として指し示されているのか。このことが 大事であるという立ち場だと思います。聖書の読み方として そういう前提としての問題があるということだと見ます。  ですから そのような扱い方が 《もの》一般についても成されている。のではないでしょうか。    もの(レース)について 指示する役目を果たす言葉のほかには ものについての《使用(ウーティー)と享受(フルイー)》を挙げ これらの区別について考察して行きます。  ◆(同上 1・4〔4〕) ~~~~~  享受とはあるものにひたすらそれ自身のために愛をもってよりすがることである。   ところが使用とは 役立つものを 愛するものを獲得するということに関わらせることである。  この場合愛するものとは それに値するものでなければならない。ところが誤った使用は濫用 あるいはむしろ悪用と呼ばれなければならない。  ~~~~~~~~~  どういうことかと言いますと 次のようです。  ◆(同上・承前) ~~~~  だからもしもわれわれが祖国(* 神の国)においてしか幸福に生きられない旅人であって しかも今はみじめであるけれども このみじめな状態を終わらせようと思い 祖国に戻ることを願っているとするならば 悦んで所有(* 享受・フルイー)すべき祖国に辿り着くことができるようになるために 〔* この地上の国において〕水陸の乗り物を用いること(* 使用・ウーティー)をどんなに必要とすることであろう。  ところがもしも道中の心地良さとか 乗り物に乗ることそのことに誘惑されて ついそちらの方が楽しくなった場合には われわれが用い(* ウーティー)なければならないものを享楽することに転じてしまい すみやかに旅路を終えることを願わなくなり 倒錯した快感の虜となって その心地良さのために人を幸福にしてくれる祖国から離れてしまう。  ~~~~~~~~~~  かんたんながら。  もの(レース)を 《見えて触れる対象物?》だけに限ってはいないようです。神の国をもふくめているようです。

回答No.1

専門家ではなく、アウグスティヌスについて良くは知らなかったので、私自身も知りたいと思い、ググってみた結果だけを記しておきます。 wikipediaで アウグスティヌスを調べると、彼自身の人生について記した「告白」という書物があることが分かります。 「告白」の項を見ると、 >>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%8A%E7%99%BD_(%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9) 内容 本の前半は、罪に溺れた生活を送った後、キリスト教に接近する話や、盗みを働いたりギリシャ語の勉強に意欲が湧かないなど、彼は不都合な事実を隠さず正直に書いている。 しかし彼は単なる遊び人ではなく、当初はマニ教に関心を寄せるが、ローマでネオプラトニズムに出会って決別、その後に哲学書を読み漁り、勉学に熱中し『神の国』[1]や『三位一体論』[2]といった大著を残した。 母モニカに反対されながらも階級の異なる女性を大事にし続けた(しかし後に信仰の邪魔になるからといって捨てた)。友人の死に直面し自らの死を恐れ始める心境描写、といった事が中心。後半は時間論、聖書の解釈についての議論、神が天地創造の前に何をしていたのか、について書かれている。この著作はカトリックやプロテスタントだけではなく、デカルト、カント、ニーチェ、20世紀ではハイデガー等多数の哲学者に影響・考察を与えた。 <<< とあります。 単純に解釈するなら、人生前半に物質的(即物的)な側面に生き、後半に精神的な側面に生きたとも捉えることができるでしょう。 詳しくは「告白」そのものを読むのが望ましいかと存じます。 ※ただし、岩波文庫版の訳本に対する書評は芳しくないようです。 告白 上 (岩波文庫 青 805-1) [文庫] アウグスティヌス (著), 服部 英次郎 (翻訳) http://www.amazon.co.jp/%E5%91%8A%E7%99%BD-%E4%B8%8A-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%9D%92-805-1/dp/4003380517 告白 (下) (岩波文庫) [文庫] アウグスティヌス (著), 服部 英次郎 (翻訳) http://www.amazon.co.jp/%E5%91%8A%E7%99%BD-%E4%B8%8B-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9/dp/4003380525/ref=pd_sim_b_3 告白録 (キリスト教古典叢書) [単行本] アウグスティヌス (著), Sanctus Augustinus (原著), 宮谷 宣史 (翻訳) http://www.amazon.co.jp/%E5%91%8A%E7%99%BD%E9%8C%B2-%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%A4%E5%85%B8%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9/dp/4764218046 と、書評ばかりみていても良く分からないので、 アウグスティヌス 告白 物質 でググると下記のようなURLが引っかかってきます。 ※ただし、それぞれの著者による解釈が混入しているでしょうから、レポート等作製しようとして、このQ&Aを検索して探し当てた方がおられた場合には、注意すべきところでしょうね。。。 [PDF] 『告白』第八巻の内なる葛藤についての一考察 - 北陸大学 http://www.hokuriku-u.ac.jp/library/pdf/kiyo28/kyo1.pdf というのが引っかかってきます。この中の(5)から(6)の部分に「物質」に対する考え方の変遷が記述されています。 また、 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/ 「総合心理相談 ES DISCOVERY」内の Es Discovery's Encyclopedia(百科事典的なアーカイブ) に 古代キリスト教の教父アウグスティヌス(354-430) http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/es001/augustinus.html >>> 古代キリスト教において最大の教父と評価されるアウグスティヌスは、『マニ教の二元論・ネオプラトニズムの一元論・哲学的な懐疑主義』を強靭な信仰の精神で乗り越え、理性的なキリスト教神学の基盤を形成しました。アウグスティヌスは、神や魂を物質的な存在と見る『物質主義』から、神や魂を非物質的で形而上学的な実在と見る『精神主義』へと急速に転換し、神は万物を『無』から創造可能な全知全能の存在であると定義しました。神の全知全能性を否定する立場から『時間の成立以前には、神は何をしていたのか?』という質問が寄せられましたが、アウグスティヌスは前述のように『神以前には時間は存在せず、神の前には時間軸における前後がないから、神と時間との相関を語ることは無意味である』としてその質問を退けました。神は時間成立(世界成立)以前には、何かを『行為』していたのではなく、ただ絶えずそこに『実在』していたと考えたわけです。 <<< といったまとめ的な文章が記述されています。 あと、 矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『告白』No.107 投稿者:旅人 投稿日:2009年 8月20日(木)07時48分26秒   通報 編集済 (「第39講」 その2) >>> http://6304.teacup.com/mitubasanokageni/bbs/2380 3節には、「神光あれと言ひたまひければ光ありき」とあります。ここで初めて変化が起る。そこで時間が始まるのです。この万物が造られる素材となった物質、形なく見ることができなかった物質というものは、どうしてできたか。 それは、神が造ったには違いないが、神の実体の emanation 派出としてできたものではないかという考えに対しては、アウグスティヌスは、決してそうではない、神は無から物質をお造りになったという。 神の実体の派生として、神の実体が分かれ出て物質になったのではない、と述べています。  そして、「黒暗が淵の面にあった」の「黒暗」は、光が欠乏している状態であって、黒暗という実体があるわけではない。どうしてそういうことを言うかというと、マニ教の宇宙観と反対の見解を述べているのです。 マニ教によると、世界は光の国と黒暗の国とに分かれている。善悪の問題について、善は光の国から始まり、悪は黒暗の国から生じる。両者共に実体のある存在です。そこでマニ教は、罪悪を非常に明快に両断したように見えたのです。 マニ教の考えでは、世界―――物質界―――は神のエマネイションであり、神の性質が現われたものが光の国であると言っている。太陽とか月とか、そういうものは光が集まる所であると言っています。 また、人間が住んでいる世界においても、光から生じてきたものが、植物の中に入るという説を、マニ教の者が立てている。すなわち物質は神と同じ性質をもったものである、というのがマニ教の考えで、一種の汎神論的な考えです。 汎神論は唯物論と非常に近い。多くの場合において同じものですから、神と物質との間に、本質上の区別がなくなってしまう。 アウグスティヌスは、しばしば神に造られた天地万物の美を讃えています。けれども、それは彼が断わっていたように、神に造られたものそのものは、神に造られたので美しさをもっているが、もっと美しいものは、造り主である神であると言っています。 いかに万物が美しいといっても、それは神と性質を同じくするものではない。神は万物の上に立っている。何ら性質上の共通点があるわけではない。 <<< といった記述も見られます。 これらを俯瞰してみると、 「人生前半に物質的(即物的)な側面に生き、後半に精神的な側面に生きたとも捉えることができるでしょう。」といったことが、あながち間違いではなかったということになります。 また、汎神論を否定する立場で、創造主と被造物を分離する立場になるようです。 関連する項目としてwikipediaでは ○ネオプラトニズム (Neoplatonism) は、プラトンのイデア論を継承し、万物は一者から流出したもの(流出説)と捉える思想で、紀元3世紀頃にプロティノスによって展開され、ルネサンス期にイタリアで再び盛んになった。「新プラトン主義」と訳されることも多い。 ○流出説(りゅうしゅつせつ、英語:Emanationism)は、ネオプラトニズム(新プラトン主義)のプロティノスが唱えた神秘思想。 が引っかかってきますので、これらから派生した項目も調べる必要があるでしょう。

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