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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:天使とは?――《はじめにことばがあった》。)

天使とは?――《はじめにことばがあった》

noname#143207の回答

noname#143207
noname#143207
回答No.55

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ヒドッチでございます。 > ★▼ 1)「自己責任」の現在の一般的用法・・・  ☆ この場合の《一般的》という言葉には 困りました。わたしはあくまで誤用であると一般的に思われているものと思っていました。  誠に申し訳ございません。出典の記載を忘れておりました。ソースを以下に示してございます。上から目線の「自己責任」を揶揄したものとなってございます。誤解を招く表現となってしまい、深くお詫び申し上げます。 http://www.jlp.net/letter/040615d.html (労働新聞からのものでございます)  なお、イラク問題のときにも「自己責任」が叫ばれましたが、本家(?)の欧米人は、「なぜ、自国民の人質に対して、こんなに冷たいの?」と不思議がっていたのを記憶しております。 参考:http://www.geocities.co.jp/Bookend/4208/mm/mm34.txt  ・そもそも、イラクへの入国を日本国が禁止したことは一切ないこと(外務省から、退避勧告は出ていましたが、退避命令は出ておりませんでした)。 ・国民の生命と財産を守るのが国家の役割で、それを放棄されてしまいますと、国家不要論が出てきます。  以上から、「自己責任」と一蹴するのは、おかしいと判断しております。  そこで、ご質問者様の見解につきまして、愚見を述べさせていただきます。 > (1) すべての思惟および行動としての自己表現は それに答責性がともなう。  “自由”、この単語は、福沢諭吉( or 西周)によって和訳されたものかと記憶してございます。freedom, liberal の語源は略させていただきますが、自らが由と(よりと)判断して、行動・発言することを意味しているかと考えております。  従いまして、必然的に答責性が伴う、と解してございます。 > (2) その意味で 自己責任が 原則である。  後述させていただきたく存じます。 > (3) 自己責任の範囲にあることは すべてそのまま自己が負う。  はい。“人様でなく、自らが負う”、まさしく仰るとおりかと存じます。 > (4) 自然現象などの不可抗力が人びとの共同自治にとって支障をきたす被害をもたらした場合 これは公共のこととしてあつかう。  このご見解につきましても、意見を等しく致します。もし、共同自治に住んでいる人たちが甚大な被害を被った場合、それを支えていくのが地方自治の役割かと思われるからです。もちろん、国家権力の乱用を防ぐためにも、住民が主体となります。 > (5) 原子力発電所にかんしても 住民が家屋に被害をこうむったことと同じように扱われる。さらにその放射能にまつわる第二次災害についても 同じである。  原則、公共性の高い発電所に関しましても、当てはまると考えられます。ただ、「原子力損害の賠償に関する法律」というものがあるとのことです。原則、無過失責任が要求されているのだそうです。ただ、賠償額が巨大になりすぎますと、国が支援する、ということになっているようでございます(国が支援するのをシブッているようではございますが)。  従いまして、東電と、国(最終的にはおそらく)が共同で補償していくことになるようでございます。 (無過失責任、責任の集中等) 第三条  原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。 (国の措置) 第十六条  政府は、原子力損害が生じた場合において、原子力事業者(外国原子力船に係る原子力事業者を除く。)が第三条の規定により損害を賠償する責めに任ずべき額が賠償措置額をこえ、かつ、この法律の目的を達成するため必要があると認めるときは、原子力事業者に対し、原子力事業者が損害を賠償するために必要な援助を行なうものとする。 参考:http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S36/S36HO147.html  > (6) つまり 自己責任の原則を基礎として その上にさらには不可抗力の問題あるいは公共性の事実にかんがみる場合 連帯責任ないし原状復帰への連帯行動をも 同じく原則とする。  自己責任、“self-responsibility”にもございますように、”self”が主体となっております。つまり、”self”を超えたものにつきましては、公共性鑑み、連帯責任・連帯行動が要求される、と解されます。 > (7) 法律が明示していなければ この原則にもとづきあたらしくつくることとする。  ここまで、この言葉が独り歩きしてしまうのでしたら、新たに定義づけした方がよろしいかと考えております。  そこで、(2)とも関係するのですが、何時ごろから、「自己責任」という言葉が出てきたかということでございます。  以前は、「自分のケツは自分で拭け」、「自分のまいた種は自分で刈り取らねばならない」等の言葉がよく似た意味で用いられていたかと記憶しております。  そこで、”自己責任”、“self-responsibility”で検索をかけましても、それらしいものがヒットしてこないのです。  1999年には、既に見られていたようではございます。おそらく、銀行への公的資金注入の問題が生じた頃ぐらいかと思っているのですが、もし、ご存じでしたら、ご教示いただければ、幸甚に存じます。 参考:玄倉川水難事故(くろくらがわすいなんじこ)は1999年8月14日 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%80%89%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E6%95%85   最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  どうもわたしは 世間で使われる自己責任という語の意味を誤解していたようです。  責任があるから 自業自得であり 損害を元に戻すためのまたその処理をするための費用は自己負担である。こういう意味で言っているようなのですね その主張者は。    わたしは 自己表現にはつねに答責性があるということ。そしてそれゆえ そのおのれの意志行為である(あった)という事実は つねに引き受けられているということ。――ここまでのことを言っています。  あとは 不可抗力の事態や公共性の問題などの観点から その《自己》は存在の関係性(社会性)といった基礎の上で 連帯していると見られる場合が起きるということ。こう見ていました。  ★ 玄倉川水難事故  ☆ 被災者らは 災難に遭った本人としてまづおのれにその答責性を求めるのが ふつうだと考えます。その意味での自己責任は 原則であり しかも自然災害などの観点から――自己責任の原則を離れてではなく その原則の上にと考えるのですが――公共の支援や助け合いがおこなわれると見ます。  ほかの場合も同じようです。  ▼ (イラクにおける日本人人質事件) ~~~  パウエル長官(2004年4月15日)  ( a ) そうですね。誰でも、危険地域に行くことのリスクは理解すべきです。  ( b ) だからといって誰もリスクを引き受けようとしなかったら、私たちには前進はなくなります。私たちは私たちの世界を前進させることはなくなるでしょう。  ( c ) …ですから、私は、あの日本人市民が、より偉大な善のため、より崇高な目的のために、自己を危険に曝したことは嬉しいことです。  ( d ) 日本人は、そのようなことを進んで引き受けた市民を持っていることを大いに誇りに思うべきです。  ( e ) またイラクに派遣された、危険を引き受ける用意がある、あなた方の兵士のことを大いに誇りに思うべきです。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ( a )から( b )へ話が移るときの考え方にはっきりしないところがあると考えます。  ( a )は 答責性をともなう自己表現の行為を言っていると見られます。そのあと わたしの考えでは その意味での自己責任性を別の場所に置くということをしないで その原則に立って社会性の問題は捉えていくものと思っていました。  言いかえるならこの場合には 《リスクを引き受ける》ことは 多少ともほかの人びとの同意を得ておこなうものだと考えます。  ルモンドの場合は   ▲ 人道主義に駆り立てられた若者を誇るべきなのに  ☆ ということですが この見方も わたしなら自己表現(あるいは文体)の原則の上に成り立つものと思うのです。言いかえると 少なくともその若者本人たちは おのれの責任を思うはずだと思っていました。つまり 国が人質状態からの解放を成し遂げることや人びとがそのために協力することも その自由文体という原則を互いに確認し合っておこなうことだとです。  ですから 助かって帰って来たとき 《ちょっと危険を冒し過ぎたかも知れません。ご心配をおかけしました》と言っていれば 問題はないと思うのです。そのとき実際はどうだったか 記憶が薄れていますが 何だかぎくしゃくしたのではなかったでしょうか。  ( c )は 《より偉大な善のため、より崇高な目的のために》の中身をどう考えるかで 人それぞれだと思います。一概に決まっているとは考えません。それは( e )の場合も同じだと思います。つねに主戦論と非戦論との両方の見方を考慮するほうがよいと思います。  ルモンドによる評論として  ▼ 解放された人質が「イラクで仕事を続けたい」と発言したことをきっかけに、「日本政府と保守系メディアの間に無理解と怒号が沸き起こった」  ☆ とのことですが 怒号は別として《無理解》は 一理あると考えます。ほんのひとこと 《また人質になってご厄介をおかけするかも知れないのですが わたしの気持ちと考えとしては》とつけ加えて欲しかった。  ▲ 「日本では人質が解放費用の支払い義務」  ☆ これは 自由文体にもとづき いちおうその災難経験者たちに向かって言ってみるということだと見ます。支払えなければ 国民が負担しますよという意味でひとこと伝えるものと考えます。  ▲ アメリカにしても、フランスにしても、たった一人になったとしても、言論と活動を通じて、justice を守りぬくことは尊いという理想があります(justice は「正義」と言うよりも、「公正さ」と訳すべきです。日本国憲法の前文では正当にそう翻訳されています)。フランスであれば、ヴォルテールやエミール・ゾラ、ジャン=ポール・サルトルという闘う知識人の伝統があります。  ☆ これは 社会行動についての考え方の違いがあると思います。その公正さを実現するためには どう振る舞うのがよいかは 日本では臨機応変にするのがよいとわたしは考えます。一般には 根回しのようなこととして人びとの見方考え方を 水かさを増すように かたちづくって行く道をとります。  杉原千畝の場合は 一人で行動せざるを得ないと判断したのだろうと考えます。ですから その決断は政府に背くという腹を決めてやったのだと思っていましたら あとで戦後になってなおもかれは 外務省職員の地位にとどまろうとしています。そこが わたしの考える自由文体という原則との違いです。背いたという自由行為を引き受けなくなっていると見るからです。  ▲ 田中正造のように justice のために、孤独な闘争を続けた人もいます。  ☆ ほかに道はなかったのかも知れません。直球勝負をつらぬいたのだと見ます。  ▲ ~~~~~~  日本人は「プロットを運ぶことばかり考えて」、「完結的」で、「自分が『わかっているところ』」でしかしないのです。観客は無視されています。日本人の「小ささ」はこうした自己完結性から生まれます。  コンセプトさえしっかりしていれば、「むしろ未完のまま、理由づけされないまま、存在としての幅を広げてくれること」が望ましいのです。  世界が求めているのはそういう姿勢です。  その逆が正しいと信じているとしたら、国際社会にとってではなく、自分にとっての国際貢献でしかありません。  人質になった被害者はイラクに「自分の手からなにものかを手離す」ことを実行してきました。それを「自分が『わかっているところ』」でしかしようとしない人たちが責めているのです。被害者に好意的なメディアでさえ、その判断を疑問視していますが、「自分が『わかっているところ』」でしか物事をしない認識に毒されている証です。  ~~~~~~~~~~  ☆ これは 演劇や映画のコンセプトについての見解から広げて見た場合を言っていますが このように見て来たところから考えますと わたくしが言いたかったことは ただひとつです。無謀を顧みず自由文体をすすむ場合には 無謀を顧みる人びとも世の中にはいるのだと分かった上でやって欲しい これです。  ところが確かに そこで・その上で分かっていることは そのように《いまやることは無謀だと自分で分かっていて しかもほかの人びとがそのように無謀だと心の内でも思っているしあるいは時にオモテに出しても言っているということ これも分かっている人間》に対しては 日本人の一般は もう相手にしないくせがあるようなのです。  ということは どうなのでしょう。ひとりの素朴なスサノヲには その行動にも圧力を加えて押さえようとする勢力があるとともに それを評価する人びとがいるということでしょうか? 世界の趨勢は 後者である場合がしばしば見られるということなのでしょうか?  わたしの考えでは 思想つまり社会思想は そういう文学的な自由さですすみますねと見ると同時に 理論は けっきょくアマテラス公民の(つまりは一般に社会科学の)立ち場にも立って 打ち出すものと考えています。スサノヲ市民およびアマテラス公民の全体観として言い出すものと考えていました。自己責任についても そういう観点から見ていたと思います。  果たして わたくしは変わっているでしょうか?  * 日本の社会民主党は 為政者の立ち場に立ってというよりは 社会思想家の立ち場からものを言っていると思います。素朴なスサノヲでしょうか。日本共産党は すでに現在において或る社会制度が潜在性としてでも現実であると見なした上で 為政者の立ち場に立っているように思います。その見なしは 現在の社会現実を飛び越してしまっていると思われます。

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     1. 《絶対》は 相対的な存在である人間の言葉で 絶対無と言っても絶対有と言っても いづれも 経験世界を超えている。つまり 非経験の場であり そのように想定するものである。  2. しかるに 《不確定性無限》は 人間のおこなう確定作業つまりは 不確定の確認作業をつうじて認識するものごとであるゆえ 経験世界に属する。  3. よって 表題の等号は 成立し得ない。両者は 互いに次元が違う。  これを 問います。  表題の示す命題は 次の文章から引いたものです。  ◆(【Q:《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?】回答No.4) ~~~   http://okwave.jp/qa/q8207934.html  (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており  無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  この「絶対無=不確定性無限」において、  その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、  相対的に無の風は光になり、  認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに  自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この文章についても 問います。  4. ★ 無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり  ☆ これは 闇の世界において《無い神》が 光あれ! と言ったら 光があったと言うのと どう違うか?  次のような文脈です。:  ▲ (創世記  1:1~5) ~~~~~~~~~  1: 初めに、神は天地を創造された。  2: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3: 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  5. あるいはつまり  ◆ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。  ☆ というとき ひとつに 経験世界としての《宇宙》を認識しても 始まらない。相対的なものごとについての堂々巡りに終わる。ゆえにつまりは 次のような解釈に替えられ得るのではないか。  ○ 《光と闇 昼と夜》の向こうに 相対性としての人間存在を補完するもの・すなわち《絶対》をひとは むしろわが心なる《非思考の庭》の内に たとえばヒラメキをとおして 知覚する。もしくは 予感する。  6. それ・つまりヒラメキにおいて予感しうる何ものかが 《無い神》である。むろん《有る神》と言っても同じである。また いろんな名で呼ぼうと 関係なく それらはすべて 全体として同じひとつの神である。  7. ただしこのような《相対存在が 絶対によって補完されること》は 《相補性》ではない。神のほうから 一方的に 補完してくれるのである。相対と絶対とであることを思うべきである。  8. これらすべては 想定による物語である。ワタシの主観の内なる動態過程において 動態過程として ある。  9. けれどもこの物語としての仮説理論は それによって 神についてのマチガイを質すことができる。《神は 何でないか?》を明らかにして示すことができる。たとえば 経験世界のものごとではない。  10. そして それだけでじゅうぶんである。  11. おまけとしては ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。  忌憚のない自由なご見解において ご批判をお寄せください。

  • 《天使》を ブディズムでは何と言うか?

     天使を ここでは 以下に説明する内容として 《いかなる国語にも属さないこころのことば》として取り扱う。    それを ブディズムでは どう見るか?   それに当たる概念はあるか?  これを問います。          *  ▲ (《いかなる国語にも属さないこころのことば》は 天使のことか)~~~~~~   《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開くきっかけであるかも知れない。  ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や内容についてのことばではなく そうではなく  疑いそのことについてのことばがある。  《世になぜ善と悪とがあるか》と疑っている主題がどう展開するか。このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。  それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた思いであるかも知れない。  それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉のようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。  これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちうる存在である人間にも みづからに得られる真実のことばであるように思われる。  けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに なぞの真理のことば(わが心なる非思考の庭に受け容れている《非知》なるもの)から遠いかを わたしたちは 見なければならない。  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。だからである。  思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。  《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》に伴なう真実の言葉とがある。後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちである。  これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》かのようである。  旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも その解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるかのように奥のほうには 真実のことばが控えている。とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉である。  けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われわれはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり もしくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりする。とも言い得る。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなお このわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum  verum intimum)》 これをも超えてさらに窓を 開かねばならない。     (アウグスティヌス:《三位一体論》の一部を 脚色したものです)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち――さらに蛇足を添えるなら―― 真理(心の窓の奥のみなもと)は 人間には表象し得ないのである。  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》も それは――ヒラメキでありインスピレーションであり いくらか神の言葉に似ているように見えるが それでも―― 神の言葉にはほど遠いという見方を言おうとしています。  そしてこれが 《天使》のことだと言おうとしているのですが その当否を問うとともに これをブディズムではどのように捉えるか? と問います。  なんとか共通性を捉えたいのですが 果たしてどうでしょう。  たとえば かの《梵天勧請》は 天使のささやきか? (だとすると それはまだ 真理の声そのものではない。となります。そういう問題です)。

  • 人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している

     人びとは あまりにも精神を言い過ぎる。  重んじるのはいいが 精神を万能であるように扱っている。  あえて天使という言葉を使うとすれば:  人びとは天使の存在(ハタラキ)を欲するのではなく その能力がみづからの身と心とにそなわることを欲している。  天使とは ここでナゾの何ものかとわれとの関係である。そこでヒラメキなどとして起こるハタラキである。    ヒラメキを得たいと思うのではなく みづからが天使に成りたいと思っている。  このように精神を重んじるのは まちがっている。それに天使は 精神ではない。精神を超えているからこそ 天使である。  だから 人びとはあたかも天使をキャンバスに見立てこれをも精神と捉えそこに自分の好きなように絵を画いている。これを あこがれの的としている。――勝手な空想である。  けれども 天使は われわれ人間に仕えることになるものであって われわれは ナゾの何ものかに仕えることはあっても 天使に仕えるものではない。  人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している。  あたまがどこかで転倒している。  これを問います。

  • 神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創

    神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創造した。 天使は墜天使と言う悪の天使が現れるが殆どの天使は善の天使で墜天使も善天使の束によって駆逐される。 そこで思うのがなぜ神は天使だけをこの世に創造しなかったのか?という疑問が現れるわけです。 人間はバカだから神さまが人間を創造した理由を未だにわかっていないわけですが、大半の人は地球人として戦争がない平和な地球を作ろうと躍起になっているが、人間は愚かな生き物で天使と比べると劣っているわけで、天使から見ると人間は悪であるわけです。 人間の最終目標の善の人間を目標にしているが、神さまの地球創造における最終目標が善の世界だとすると最初から天使だけの世界を創造していたはずなので、神さまは人間に平和や平等や正義や善の人間になることを求めていない気がしました。 神さまは人間に善を求めていないとしたら、神さまは人間に何を期待して創造したのだと思いますか?

  • 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

     次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • ニーチェの言葉の英訳文

    マニアックな質問で恐縮です。 ニーチェの 「地球は皮膚を持っている。その皮膚はさまざまな病気も持っている。その病気の一つが人間である。」 「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」 「昼の光に夜の闇の深さが分かるものか」 という有名な言葉の英訳文をご存じな方いらっしゃいませんか? もしくはどの本の何章目か分かると大変助かります。 よろしくお願いしまっす!