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人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している

 人びとは あまりにも精神を言い過ぎる。  重んじるのはいいが 精神を万能であるように扱っている。  あえて天使という言葉を使うとすれば:  人びとは天使の存在(ハタラキ)を欲するのではなく その能力がみづからの身と心とにそなわることを欲している。  天使とは ここでナゾの何ものかとわれとの関係である。そこでヒラメキなどとして起こるハタラキである。    ヒラメキを得たいと思うのではなく みづからが天使に成りたいと思っている。  このように精神を重んじるのは まちがっている。それに天使は 精神ではない。精神を超えているからこそ 天使である。  だから 人びとはあたかも天使をキャンバスに見立てこれをも精神と捉えそこに自分の好きなように絵を画いている。これを あこがれの的としている。――勝手な空想である。  けれども 天使は われわれ人間に仕えることになるものであって われわれは ナゾの何ものかに仕えることはあっても 天使に仕えるものではない。  人びとは天使の存在をではなくその能力を欲している。  あたまがどこかで転倒している。  これを問います。

みんなの回答

回答No.7

ポケモンとチュパチュパしている俺様はどうなるのだね? 俺様っはそのクルクルパーか?

bragelonne
質問者

お礼

 分からんけど 天使ぢゃないと思う。  文学作品の中の想像の産物としてのいろんなキャラクターでは?  つまり 哲学として推し出すには 一たん哲学の言葉に直さねばならない。のだと思う。  分からないけど。  ご回答をありがとうございます。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.6

NO・5 です。 いつもながら拙答にご丁寧なフォローをいただきました。 ありがとうございます。 ファールチップでしょうか。 >その天使の能力をわが身に帯びることを欲するのではなく 天使のハタラキ・その存在を欲する人間としてのわれを 確かなもの(動態)として行こうと。   > 誰もがあたかも天使のごとき存在であったかも分かりません。しかも 誰もが《堕ちた》。と思います。 > まだしばらくは 怪獣(人)二十面相で行くかも分かりません。 恐れ入ります。 たしかに、精神の上位観念である天使(大天使)をわれわれがスーパーに鍛え上げるなんてことは不可能ですよね。 天使は時折私たちの上に舞い降りてきて、ある種の霊感を吹き込んでくれる単なる神の賜物に過ぎないのでしょう。私はのぼせ上っていたようですw。  >精神 せいしん セイシンって言って 身と心 身体と精神とを切り離さないでとも言いたいですね。 ここにヒントがあるようです。 人間が精神を鍛えねば成らないことは間違いないとして、人間は精神と一体になった実存に過ぎないのであって、あたかも天使と一体になって様々な創造を行ってきたというわれわれ人間の思い上がりは、大昔、かのイスラエルの荒野に大挙して現れた預言者たちの怒りを思い起こさせます。 人間はあれ以来、何も進化しては居ないのか、とも思います。 彼らもあるいは天使たちだったのかもしれません。いやまさしくそうでしょう。 ブラジュロンヌさんが聖者エレミヤに思えてきましたw。 様々な迫害に遭われていることにも思い当たる節がw。 神と人間の文化とは相容れないものなのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ たしかに、精神の上位観念である天使(大天使)をわれわれがスーパーに鍛え上げるなんてことは不可能ですよね。  ☆ そんなことを思っていたんですか。《超人》と似たようなことぢゃないですか。(でも それを《大地とか大河とか》とも言っていたような)。  ということは プラトンの《イデア》は おそろしく影響力があるようですね。  あるいは 日本人の場合には けっきょく《ブッダ ないし さとり》が その種のあこがれ願望にむすびついているのでしょうか。  無私とむすびついた精神の顕揚が 世俗をさげすむようにさせている。とも思われます。  いわゆる非武装中立という志向とも関係しているようにも見られます。  ▲ (ヘブライ人への手紙/ 01章 14節) 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。  ☆ こうだと思うんですけれどねぇ。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.5

こんにちは、いつもながらブラジュロンヌさんは晦渋ですね。でも怪獣ではないのでなんらかの小径はつながっているものと信じます。 私の拙い解釈では、人間の精神は精神そのものを目的としているように見えることがあるが、それは間違いだ。人間の精神は神に近づくためのツールに過ぎないのだが、それをつい忘れて精神だけを云々することが多い。本末転倒というべきではないか。 精神を神とのつながりとすれば、それは天使:神のお使い という比喩が許されるかもしれない。 天使の美しい姿にあこがれるのはいい加減にやめて、われわれはその天使をスーパーに鍛え上げねばならないのだ。 まったくの目当違いかもですが、堕天使たる私のチャレンジです。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。分かりにくいですか。  まづは こんにちは こういちろうさん。ご回答をありがとうございます。  あえて天使という言葉を使ったので かえってナゾが広がったでしょうか。  わたしの承知しているところで ご返答してまいります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  精神を神とのつながりとすれば、それは天使:神のお使い という比喩が許されるかもしれない。  天使の美しい姿にあこがれるのはいい加減にやめて、われわれはその天使をスーパーに鍛え上げねばならないのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) むろん神と人間存在とは およそ絶対的な隔たりがあるのですが・ですから精神は神とは違うのですが もし《精神を神とのつながりとすれば》ですね。  (い) 天使は 《神のお使い》でしょうね。わたしたち人間と神とのあいだに立つものと想定されます。  (う) ★ 天使の美しい姿にあこがれるのはいい加減にやめて  ☆ そのとおりだと思います。なぜなら 人間たる《わたし》は 神でもなければ天使でもないからです。  (え) 《あこがれる》だけなら まだよいのかも知れませんが けっきょく神との関係をもう見なくなるほどであり 神に代えて天使を立てているほどにまで成りかねません。  (お) そのあこがれによって もはやこの大地に足を下ろした存在である人間であることをすら忘れてしまうほどだとも見られる場合があります。この土の上に立つ――しばしば泥々ともした――存在であることを忘却すればよいとすら思っているかに見られます。  (か) このシガラミの世界からの自由を ただのアコガレに求めるなかれ。と言いたいですね。むしろ そのあこがれの対象である天使は ほかでもなく神なるナゾを受け容れた《われ》としての人間にむしろ仕える存在である。  (き) 天使は われわれを助けてくれる。助けられて この世界の内にとどまり自由を問い求めるという自由の終身刑を受けているのが 人間である。  (く) ★ われわれはその天使をスーパーに鍛え上げねばならないのだ。  ☆ ん? 《スーパー》ってなんですか? 神なるナゾからの使いとしてわれわれ人間に仕える存在すなわち天使を欲する。そのことを確かなことにして行くということですか?  (け) ええ。その天使の能力をわが身に帯びることを欲するのではなく 天使のハタラキ・その存在を欲する人間としてのわれを 確かなもの(動態)として行こうと。    誰もがあたかも天使のごとき存在であったかも分かりません。しかも 誰もが《堕ちた》。と思います。  まだしばらくは 怪獣(人)二十面相で行くかも分かりません。  精神 せいしん セイシンって言って 身と心 身体と精神とを切り離さないでとも言いたいですね。

  • honotin
  • ベストアンサー率22% (6/27)
回答No.4

只今、プロフィールを見させて頂きました。 年下にも関わらず、失礼申し訳ありません。でも、私の最初の言葉が本音です。 そして、わたしは天使ですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★★ (回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~  この、文章の意味をお聞きされてるのですか?  答えは、個人で違うと思うので、文章にはできませんね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ぢゃあ 《個人で違わないと思った場合にのみ 回答を寄せる》ということですか?

  • honotin
  • ベストアンサー率22% (6/27)
回答No.3

あまり、相手にしたくなかったのですが コメント入れた私がバカでした。 でも、言葉の捉え方は人それぞれで あなたの捉え方は、すこし変だと思われます。信じるものであっても、押し付けるものではありません。 そして、質問者の返答としても、どうかと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 それはあいにくでした。  ★ 信じるものであっても、押し付けるものではありません。  ☆ という発言も 押しつけてはいけません。

回答No.2

>>あたまがどこかで転倒している。 自己紹介ですか? 何故、一般人になじみがある口語文で表現できないのか? 独自解釈の謎に満ちた表現を用いずに質問できませんか? 俺の言いたいことを理解できないと質問者は思うかもしれませんが、 この文章を読んだ人間の99.9%はそう思うでしょう。 大体、ナゾの何ものかってなに? 縁起論からも逸脱しているし。 独自解釈に満ちた文章で悦に入って韜晦するのは断じて哲学ではない。 それは哲学に対する侮辱です。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。あなたの《哲学に対する――正当な――侮辱で》あったかも知れませんね。  そこまでを気遣う必要はないでしょうね。  なぜなら 人間としての自己表現にはまだほど遠いと見ました。  看板だけは掲げているというわけです。  ★ 哲学に対する侮辱です。なぜなら わたしがその証拠です。わたしの哲学以上の証拠があるか。  ☆ とね。

  • honotin
  • ベストアンサー率22% (6/27)
回答No.1

この、文章の意味をお聞きされてるのですか? 答えは、個人で違うと思うので、文章にはできませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 文章が読めるようになったらまた来てください。

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