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ソシュールとは何ですか?
rkd4050の回答
記号論の祖とされる言語学者の名前です。 ソシュール自身は記号論について論文を書いておらず、ソシュールの講義を受けた学生の残したノートをまとめたものが出版されています。 『記号論への招待』(池上嘉彦・著 岩波新書)という本が、入手しやすい入門書としてよく使われます。 レヴィ=ストロースという社会人類学者が記号論を自分の学説に取り入れて、そこから構造主義と呼ばれる論理が生まれました。 人文系の学問をやるなら構造主義は避けて通れませんので、その構造主義を理解しようとするする過程で、ソシュールの言語学は必ず何らかの形で通る道となっています。 この辺のざっくりとした歴史について知りたければ、『はじめての構造主義』(橋爪大三郎・著 講談社現代新書)の冒頭の方に書かれています。これの初めの方だけでも読んでから『記号論への招待』を読めば、もう少し理解しやすくなるかもしれません。
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- ソシュールの《言語記号の恣意性》説は成り立たない
ソシュールの言語記号の恣意性という仮説について すでに何度も問い求めて来ていますが それは成り立たないことを例証します。それについて問うて さらなるよい問い求めが出来たらと思います。 (1) 音素が意義素でもある。というかたちで シニフィアン(しるし)とシニフィエ(意味)とのあいだに《自然で論理的な絆が ないのではなく ある》ということを例証し 恣意性が支配しているとは見られないことを明らかにします。 (2) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった三つの語における特には子音としての音素(すなわち / n / および / g / )にそれとしての意義素があるという仮説を提出します。 (3) すなわち まづ語義としての類似性は こうです。: 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。 《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。 《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。 そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。 (4) と見て さっそく仮説を推し出します。 音素 / n / :《否定相》という意義素を帯びる 音素 / g / :《過程の相・移行の相》という意義素がある すなわち いま母音は措いておいて / nVgV /という形態素として考えて行きます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。 すなわち / nV / なる形態素(ナならナ)は 《否定相》のもとに捉えられたモノを表わすと仮説され / gV /という形態素(グだとかギだとか)は その《ナというものが移行する》という意義を示そうとしていると仮説します。 (5) どうでしょう? / na / が決してそのままでは 《草木や波風や胸騒ぎ》のことを指し示すという意味ではありません。そのナを用いて自己表現する話し手が 《否定し消滅して欲しいもの》として 具体的にそれら三つに絞って当てはめた。 / gi / では その否定を受けての移行や消滅の過程を 語義として指し示す恰好である。 (6) すなわちこれは 子音の / n / や / g / が同じというかたちでシニフィアン(≒音素)が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。 / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。 ちなみにこのとき ソシュール(もしくは丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く ただナ行やガ行の子音として互いに差があることによってのみすなわち恣意的にその音韻が / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったに過ぎないと言っています。 言いかえると このささやかな例証では / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 自然でかつ論理的なきづなが見出されるという説です。 (7) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。 けれども ここでも / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。やはり 《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。 nage-ru 投げる (障害なく 延びて行かせる) naga-su 流す (障害を避けて 延びて行かせる) naga-reru 流れる (障害を避けて 延びて行く) naga-i 長い (障害なく延びた状態にある) (8) さらに語例を伸ばしましょう。 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。そして この場合は 《恣意性》を否定するというのではなく いわゆる《有縁性》として 音素と意義素とのあいだにつながりがある〔だけだ〕と見られても仕方がない語例ではあります。 nago-ya-ka 和やか (障害が消滅した状態) nago-mu 和む (障害が消滅していく) nagu-sa-mu 慰む (障害を除去させる) negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜 (障害の消滅を希求) nega-u 願う (障害の消滅を希求) つまり みんな / nagi / なぎ =和ぎ という語と縁のある意味をもった語です。ここでは 母音が交替していますね。であっても / nVgV /という語の形態には変わりなく しかも語義には 類似性が見られます。 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。 (9) ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。 (あ) オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。 ・ 郭公は その / k / の音素をじっさいの鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。 ・ 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。 (い) あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。 つまりさきほどの: nagi 和ぎ nago-ya-ka 和やか nago-mu 和む これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。有縁性の場合です。(ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。 といった考察は すでに成されています。 (10) 派生語ではだめなので さらにさらに語例を増やします。ここで子音の清濁の違いにかかわらず 同じ意義素を帯びると仮説します。すなわち / g / = / k /:《過程相・移行相》です。 nuku / nuke-ru 抜く/抜ける (障害・邪魔の除去・離脱) noku / noke-ru 退く/除ける (障害・邪魔の離脱。除去) nugu / nuge-ru 脱ぐ/脱げる (同上) nugu-u / nogo-u 拭う (同上) nige-ru / niga-su 逃げる/逃がす (同上) noga-su / noga-reru 逃す/逃れる (同上) (ただし ここまで来ると 障害や邪魔は 離脱する者のほう ではなく対立する相手の側に 設定されている。) noko-ru / noko-su 残る/残す (同上) (ただし 上の補注と同じように 視点の移動が見られる。 消滅したもの・除去されたもの〔Aとする〕のほうではなく 以前の状態のままに留まったもの〔Aの否定=非A〕のほうに 焦点が移ってしまった。 (11) おぎなうべき議論の一端として: 音素・・・・=・・・・意義素 _______________ / n / = 同定相・否定相 / g / = 反出相;反定相・疑問相・変化相 といった仮説を前提としています。 いま / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相) といった複合によって / nVgV / なる音韻(シニフィアン) =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ) といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。 (12) ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。それは 恣意的に決められたとしか言いようがありません。 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。 (13) うえの(11)における 音素=意義素 の仮説は その意義素がなぜ現われるのか。これについては 長くなるので割愛します。 次の書き込みなどを参照してください。 【Q:ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8508948.html その回答No.1のお礼欄などです。
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