• ベストアンサー

「称え合う”respect”」と「無我の尊敬」

辞書を閲覧しますと、 当タイトルの両単語は御互いの翻訳語になっていますが、 上記の形容の通りに、 本来の思想の食い違いが未だに解消されていない、という「気がし」ます。 従いまして、率直に伺います。 『「時制の一致」が盛り込まれていない言語の文化圏の中でも、特に日本で、 自己主張を伴ない難い「尊敬」が発達してきた、という展開の理由は何なのでしょうか?』 「連歌」に自己主張が盛り込まれ難い、という仕組みを巡った、雄弁な回答を御願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

『”respect”は御互いの権利の認め合いの「責任」に関わり、 日本の「尊敬」は「建て前」とも関わっている』 と言えるのでしょうか? ○ 追伸: 言えるとおもいますよ。 日本の「尊敬」は根が深いですから「建て前」としても現れますね。西洋的「respect」はその根に[give and take]を包含していますから、「責任」とか「信用」をも含んでいますね。つまり「respect」の内に「契約」があるということでしょう。 昔、米国にいる時に「商売したいのなら聖書を読みなさいといって聖書をもらったことがあります。当然隅々まで読みましたよ。」その後、聖書の内容を共有することが互いに「respect」するという意味だと判りましたが、聖書の内容は仏法ほど深くはないということですね。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

回答から質問を類推させる「逆引き」にも適した雄弁な回答を提供して下さり、其の点でも「尊敬」に値します。 コバンザメ物理学者さんの発言との格差は大きいですね。 因みに是との関係性は乏しいのかも知れませんが、 下記の通りのページにも哲学的な質問を提出させて頂きましたので、 再度の御教授を賜れますと幸いですから、 もし支障が御座いませんでしたら、御覧になって頂けますでしょうか? http://okwave.jp/qa/q6613680.html

JidousyaGaisya
質問者

補足

凄く深い理解に繋がり、助かりました。 御苦労をなさっているのですね。 文字通りの「尊敬」に値する方からの御教授に恵まれまして、 嬉しく思います。 又の機会にも賜れると幸いですから、宜しく御願い申し上げます。

その他の回答 (8)

回答No.8
JidousyaGaisya
質問者

お礼

別ページ(http://okwave.jp/qa/q6800988.html)へも御教授を賜れますと、幸いです。

JidousyaGaisya
質問者

補足

アナタが紹介なさっている「筋診断」の技術の正当性を証明させ得る、という研究成果が発表されたそうですよ。 つまり、 『目と違う位置の「クラスIV神経」さえもが、色彩認識にも関わっている』、という凄い内容です。 インターネット検索では確認を取れなくなっていますが、 これは、「昨年末に某Nature誌かで公開された情報」です。

回答No.7

『要求だけの為に、西洋近代的な「自己主張」は行なわれてきた』という認識が可能なのでしょうか?』 と云う質問を頂きましたので、書いてみます。 はっきりいうならば西洋の思想は『右脳的』と言えます。この意味する所は、自我意識偏重と云う意味です。この事を科学的に証明するために、ある文献をウイキペデアから引用したいと思います。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” この文献の意味する所をもう少し詳しく解説したいと思います。 人間は常に二つの意識が『同時に同じものを見ている』と云う事になります。ですが『自我意識には分からないシステム』となっています。何故ならその意識は『無意識の意識』として働いているからです。 その分かり難い意識に付いてもう少し説明しておきます。その意識とはお釈迦様が『仏性』と言っていた者です、或はキリスト教においては『神』と言っている者です。 その者は、母親が命を授かると同時に働き始めている者です。細胞分裂から始まって、心臓を働かせる者として、或はホルモンの調節など全ての命に関する事を、自分の機能として働かせている者です。 生まれるや否や『なく事も笑う事も安心する事も恐怖する事も』全て、誰からも習う事無く、自我意識に働きかけて、伝えている者です。身体も心も全て働かせる機能を持っていて、更に表にはでて来ない存在の事です。 人間は意識と『無意識』が交替制を取っています。『意識の根底では』絶えず二つの意識は相談しながら、どちらの出番かを決めています。その交替制が順調にいっている場合を『健常者』と言っています。 二つの意識は機能的に全く異なっていますが、共に自分の心です。つまり人間には二つの心があると云う意味です。聖書に幼子が一番天国に近い存在と云う意味は『脳の機能分化が』未発達の為に未だ『心は一つしかない』と云う意味です。 心には未だ争うだけの機能分化が進んでいないと云うほどの意味です。思春期頃から大人の脳になって来ます。つまり脳の機能分化が出来上がって、大人の脳に近くなると云う意味です。この頃から人間には悩みが始まると云う意味です。 二つに分かれた人格が争い始めると云う意味です。二つになった心が『分裂を起して衝突を始める』と云う意味です。この現象を『失楽園』と聖書では表現しています。 二つの脳の機能をもう少し詳しく書いて見ます。左脳の自我意識は、感じさせられた事を、『一旦言葉に変換して、言葉で考える機能』で出来ています。機能的には受動的に出来ています。感情が湧き上がると云う表現がありますが、正確に言うならば、感情を湧き上がらせられている、と云う表現が正解です。 それに対して、右脳の意識、無意識の意識は、人間が見ていない所を『監視していて、絶えず生きてゆくための必要な情報を』脳梁を通して、『言葉に拠らない情報として』送り続けています。この意識は『言葉を理解できますが、言葉としての表現が出来ない者』という言い方が出来ます。 言葉による表現方法が余りにも、限定的で、内容が乏しい事と関係性が有ります。その送られている情報の情報量の多さを書いてみます。高い所にいると云う情報を例にとるなら、高い所にいた場合『一瞬にして』自我意識は全てを承知しています、どの位の高さなのかをです。 スピードが出た場合等にもです、どの位危険かを『瞬時に』分からせています。或は人に会う時や、恋人に会う場合でも、如何いう人かや、如何いう風に好きかを言葉ではない情報『胡散臭いとか、遊びか、マジで好きなのか』 或は危険な場合では、自我意識に任せておけない場合では『自我意識が思う暇が無い程瞬間に』身体も心も支配しています。この場合を『思わずに』行動が完了したと言います。急ブレーキを踏む場合等です。 メンタル面が強いと云う表現がわかり易いかもしれません。大勢の人が見ている場面です、そうして優勝が掛かっています。そういう場合で『自我意識が出ないように出来た場合』をメンタル面が強いと言います。 その反対に『頭が真っ白になって、足がガクガクして、上がりっぱなしになっている』場合があります。この場合を自我意識のみが身体と心を支配していると言います。 自我意識が出ない場合をメンタル面が強いと言いましたが、では何が出ていて、何が身体と心を支配していますか?この答えが右脳の意識仏性です。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

生まれてから直ぐに狼等の動物によって育てられても同じく自我が働くのだ、と果たして本当に断言出来るのでしょうか? 寧ろ価値観は後天的に養われていく筈です。 因みに此の質問では、 「心の成長に影響を与え得る文化・思想の仕組み」の解析を求めていますので、畏れ入りますが、もう少しの漸近を御願いしたいです。 従いまして、矢張り端的に「時制」と「連歌」との対立関係の根拠を説明して頂けませんでしょうか? 致し方が御座いませんので、敢えてヒントを申し上げます。 『「建て前」・「責任」・「混沌」・「秩序」』の用語を盛り込んで頂くと、 上手く纏まるでしょう。

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 未だに『「時制の一致」と「連歌」との共存が成り立ち得ない』という事情の訳に直結する解説になっていませんので、質問の回答には疎遠だ、と思われますから、更に教えて下さい。 そこで率直に伺います。 『「無心」と「残心」とのそれぞれが志向している「心」の対象は、どう違う』と考えられ得ますでしょうか? 仮説でも構いませんから、御意見の送信を御願い申し上げます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

『「視聴覚」情報が同時に多数者によって共有されやすい、という事情が西洋で普及していた御蔭で、「透視遠近図法」由来の唯物論的な近代科学が成立し得たのに対しまして、 東洋の伝統文化の継承者が「尊敬」を受けるのは、顧客達等によって同時に共有され難い「味覚」・「嗅覚」・「触覚」をも彼等が扱えるからなのでしょうか?』 追伸: 「顧客達等によって同時に共有され難い「味覚」・「嗅覚」・「触覚」をも彼等が扱えるからなのでしょうか?」 そうですよ。 これも「山川草木悉有仏性」から来ているのですね。つまり全て生き物なのですね。石も生き物ですよ。これは芭蕉の「岩に染み入る蝉の声」で明らかですよね。岩も蝉の声を聞いているのですね。 「味覚」・「嗅覚」・「触覚」も同じように捉えているのですね。 植物や動物までは生き物として認識できるかもしれませんが石や岩、水、匂いまでも生き物と捉えることは西洋人には無理でしょう。つまり全てが主語になり得る存在なのですね。これは全てが仏の一部により創られたものであるということを信じることができるかどうかなのですね。 西洋でもそのような見方もないわけではありません。ピカソのゲルニカなどは霊的な絵ですね。でもダビンチのモナリザのほうが人気がありますよね。モナリザのほうが視覚的ですからね。 つまり、東洋の神秘は「全てが仏の一部により創られたものであるということを信じることができる。」というところが起源だと思いますね。一方、西洋の多くの人々は聖書の第一章「天地創造」を何度読んでもさっぱり腑に落ちないからでしょうね。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

下記のサイトへの参加にも協力して頂けると、 誠に幸いです。 http://okwave.jp/qa/q6621905.html

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 因みに、仰っている内容から下記の通りの私見を勝手に連想しましたので、妥当性の確認の為に伺いますが、 『”respect”は御互いの権利の認め合いの「責任」に関わり、 日本の「尊敬」は「建て前」とも関わっている』 と言えるのでしょうか?

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

『"respect"の起源とはどの様に違っているのでしょうか?』 追伸まで、 自己主張を伴ない難い「尊敬」として聖徳太子の憲法10条を書いておきましたが、この元は仏法における生き物には全て仏性が宿っている「山川草木悉有仏性」ということですね。この本質は人間、仏の子、神の子という思想ですね。この思想が自己主張を伴ない難い「尊敬」の発展に寄与しているということですね。強いて言えば「霊的な評価」ですね。 さて、一方「称え合う”respect”」には人間、仏の子、神の子からでたものではなく「秀でている」という意味からでているのですね。お互いに称えあうことはお互いの秀でている部分を称えあうということで、主に人間を肉体生命として観ているのですね。強いて言えば「唯物論的評価」ですね。 人間を魂として観るか、肉体として観るかの差が出ているといって良いと思います。 この差は民族の差ともいえますが、他の質問に「日本人は地球人か?」という質問があり、その回答として、日本人の多くの魂は地球人ですよ。西洋人の多くは他の星から来た生命体と書いておきましたが、それが根本において違いがある本当の理由ですね。つまり、「respect」と「無我の尊敬」の差の根は深いということでしょうね。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6596595.html 此のページを拝見しました。 沢山の奇妙な質問が御座いますね。

JidousyaGaisya
質問者

補足

素晴らしい説明を下さり、誠に有り難う御座います。 因みに此処で締め括らせて頂きますと、此の様に貴重な機会に恵まれ難い、と感じられますので、勿体無いですから、御忙しい中への御邪魔で畏れ入りますが、追加の質問をさせて下さい。 そこで先ず、 私自身が今迄に纏めて参りました考えの内容を申し上げます。 『近代以降の西洋では、スポーツ・芸術への評価を点数に換算したがっていますが、それに対しまして、日本等の東洋の古流武術では、「残心」の価値を強調し、たとえ勝利を手にしましても、勝ち誇らず、 「相手達の「暫時的な不調」が自分の勝利を導いてくれたのだろう」 と見做しまして、「尊敬」なのか「謙譲」なのかさえもが峻別され難い程に奇妙な姿勢を貫いていますよね。』 従いまして、此の内容を踏まえまして、率直に伺います。 『「視聴覚」情報が同時に多数者によって共有されやすい、という事情が西洋で普及していた御蔭で、「透視遠近図法」由来の唯物論的な近代科学が成立し得たのに対しまして、 東洋の伝統文化の継承者が「尊敬」を受けるのは、顧客達等によって同時に共有され難い「味覚」・「嗅覚」・「触覚」をも彼等が扱えるからなのでしょうか?』 仮説でも構いませんから、御教授を何卒宜しく御願い申し上げます。

回答No.4

禅の思想が日本人の心の奥に深く刻まれているせいと感じます。禅に関しては、鈴木大拙博士の著作したものからしか学んでいませんが、なるほどと思う事が沢山あると感じます。 禅の奥義は、『無功徳』です。何にもならないと云う意味ですが、生きる事が、或いは生きる事の中に『功徳』が有ると思って『求めた場合』地位や名誉やお金の為に生きる事は『空しさになってしまうと云う意味です。』 何も求めない中にこそ、『本当の幸福がある』と云うほどの意味です。求めないで手にする事を言っています。 地位や名誉やお金を求めない生き方を言っています。命ある限り『他人の邪魔をする行為や考えでは無しで』自分のやりたい事や、やるべき事を見つけて、暇を惜しんで打ち込む事です。 自身の命を燃焼させる生き方を言っています。何にもならないと分かりながら『全身全霊で』生きる生き方を言っています。或いは疑いの無い生き方や、苦しみや、楽しみを超越した生き方の事です。 有限の壁を乗り越えて、永遠の世界で遊ぶ事は出来ませんが、有限の壁の中で有限の壁に縛られない生き方です。或いは煩悩に苛まれていながら、煩悩に振り回されない生き方です。 或いは世間のしがらみから抜け出せそうもない中で、そのしがらみに振り回されない生き方です。 つまり何ものも、自分を縛れない生き方です。お金にも、地位や名誉にも振り回されない生き方です。その根本を『禅』は教えていると云う意味です。 『自己主張を伴ない難い「尊敬」が発達してきた、』と云う背景には、今言った事が大いに反映していると感じます。 日本人の『精神性の根源に』根付いている思想という事になります。では何故そうなっているかを書いてみます。人間の性として、求める事はしょうがないと誰しもが認めていますが、求める事によって、返って遠のいてゆく事が在る事を、禅が教えているからと感じます。 人間の意識性や、計らいや、欲望が強く働く時、人間は、余りに自制が無くなってしまう事を知っているかのようです。『求めよさらば与えられん!』と云う事は西洋流の考え方かも知れません。そうする事によって『幸福度』が増す人間には良いかもしれませんが、東洋人、特に日本人にはこの考え方が出来ない場合が多いと云う意味です。 その特徴の一つが『対人恐怖』です。対人恐怖を起こしている原因は『頭の中の計らいです』人に良く見て貰いたいと、求める事です。求めた時からその求めた事が、手の中からこぼれてゆきます。 鬱等の原因となっているとも感じます、自律神経失調症などの原因とも重なっていると感じます。或いは対人恐怖はその一例ですが、神経症の原因とも重なっていると感じます。今言った疾患には、検査をした場合には『異常は認められません』何処も悪くないと云う検査結果が、何回検査をした場合にも、認められています。 求める事によって、返って、手に出来ない場合を言っています。身体の健康や、心の健康や、眠る事等は、求めたら『走り去って行く者』に属しています。全てが『人間の分別作用』の産物と云う事になります。その証拠が『只、本人のみが、おかしい』と主張しています。 こういう事になる原因があります。いわゆる分別作用と言う訳ですが、分別すると云う意味は、『好き嫌いで世の中を見る』と云う意味も含まれています。人間の分別作用の本分ですが、感じた事柄を『自分の頭の中で、再構成して、そうして言葉に翻訳をして、自分が感じている』事を言います。 この場合に、良い事のみを受け取って、嫌な事は受取を拒否する場合があります。その受取を拒否した事が『意識に上がって来る事』に相当します。 意識に上がった事が頭から離れなくなる場合の事です。その場合意識に上がった事を『一切皆苦』と感じる場合があります。そうして『医師』の元へ言った場合、求めている事が『症状として』診断を下される事になります。この時点から『求める内容が病名や症状』と確定する事になります。 そうならない事を『禅』は主張している事になります。計らいを捨てて、何も求めなくなる事です。計らいから人間の苦悩が始まると云う意味です。従って、今言っている症状とは、計らいの産物という事になります。現実を二つに分けて見ていると云う意味です。良い事は受け取る事が出来るから事実として見る事です。その反対に『嫌な事は受け取ろうとしない事』です。 受け取ろうとしない事で『頭の中で現実には無い事を創造します』つまり妄想に苦しむ事を言っています。頭の中は『求めたものとは反対の事で満たされてしまう事』を言っています。禅の主張する事は『絶対肯定』です。好き嫌いを、言わないだけで『道に至る』と主張します。求めない時に手に出来ると云う主張です。求めない生き方の中に無病息災が存在すると云う事です。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

下記のサイトへの参加にも協力して頂けると、 誠に幸いです。 http://okwave.jp/qa/q6621905.html

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 『求めよ、されば与えられん。』という貪欲な自己主張との比較が非常に興味深く思われましたので、理解を更に深めたいものですから、次の質問をさせて下さい。 『要求だけの為に、西洋近代的な「自己主張」は行なわれてきた』 という認識が可能なのでしょうか? 宜しく御願い申し上げます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

「特に日本で、自己主張を伴ない難い「尊敬」が発達してきた、という展開の理由は何なのでしょうか?」 ○ひとえに聖徳太子が偉かったのでしょうね。今から1400年前にできた憲法には、キリスト教圏やイスラム教権では決してできなかったようなことが当たり前のように書かれていますからね。聖書より立派な教えですね。 その一節「人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各執ること有り。彼是なれば我は非なり、我是なれば則ち彼非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。」は日本という国に深く根ざしているということでしょう。尊敬とは「我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。」が明確にその意味するところをなしていますね。 推古天皇12年(604年)に成立:聖徳太子:17条の憲法の第10条 (十に、曰く。忿(いか)りを絶ち、瞋(いか)りを棄て、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各執ること有り。彼是なれば我は非なり、我是なれば則ち彼非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ。是非の理、誰か能く定むべき。相共に賢愚、鐶(みみがね)の端无(な)きが如し。是を以て彼の人は瞋ると雖も、還(かえっ)て我が失(あやま)ちを恐る。我独り得たりと雖も、衆に従ひて同く挙(おこな)へ。)

JidousyaGaisya
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6621905.html 御忙しい中への御邪魔を致しますが、 是にも御意見を頂戴出来ますでしょうか?

JidousyaGaisya
質問者

補足

貴重な御意見を賜りまして、誠に有り難う御座います。 「連歌」やら「時制の一致」やらの比較が出てきていないのは 酷く残念に思われますが、折角の機会に恵まれましたので、 此処で終えるのは勿体無く思われますから、 畏れ入りますが、追加の質問をさせて下さい。 『"respect"の起源とはどの様に違っているのでしょうか?』 御意見を宜しく御願い申し上げます。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.2

和歌の発達は、上層階級の人の世の中のわびさびを歌にしたためたものから始まり、庶民の間にも広がっていったんだと思う。 かつて栄華を極めた人も落ちぶれる という様を歌にすることで、諸行無常の世の中に対する思いを共有するというか。 もう一方ではそれでも神が創った国であるというプライドが現れる歌もあり、それも共有できるものなんで、共有できる内容にすることで、みんなで楽しむという遊びになったんじゃないかと。 respectのspectは<見る>でreが再びとかそういう意味だから、振り返ってしまうほど目立つってことだと思う。 古代においては神がこの国をおつくりになった、それを思い出すことで、つまり振り返ることで、心を新たにするというか再起させるというか。 必要に迫られてできた遊びだと思います。 尊厳の回復作用があるのかもしれないし、過去を振り返る心理もあるのかも。 たとえば聖書ではよくダビデとかソロモンが主人公名になった物語がたくさん作られたようです。 物語が作られるようになった時代は、すでに栄華は無く廃れてしまった時代だと思う。 その廃れた時代にかつて栄華を極めた民族だったとしのび自尊心を回復させる効果があったのだと思う。 だから、ダビデやソロモンの物語がたくさん作られて続けたのだと思う。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

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JidousyaGaisya
質問者

補足

丁寧に回答を纏めて下さり、有り難う御座います。 他の方々からの回答と違い、 「連歌」への言及を行なって下さっていますので、 素晴らしい回答だ、と思われますが、 少しのずれが有るようです。 そもそも「連歌」では、 全参加者達が展開の全貌の価値を同様に評価せずとも宜しくて、 直前の句との辻褄合わせと字数・季語とだけに拘れる事が、 参加者達へ要求されています。 つまり西洋の文学は、「時制の一致」の影響に曝されていますので、 同一の著者(責任者)が作品の「秩序」を雄弁に管理していますが、 「連歌」の仕組みは明らかにそれと違い、 『「混沌」の成り行き』に作品全体の「(無常的な)造化」を委ねていますので、『首尾一貫とした主題の「共有」』は必要になっていません。 しかも更に時代を遡らせて頂きますと、 遥かに奇妙な道徳観の存在が浮き彫りになって参ります。 例えば、「源氏物語絵巻」は虚構に属しておりますので、 現実の人物が登場しているとは考えられ難いのですが、 「帝、せさせ給ひけり」等の表現をも其処へ盛り込んで、 作者が自分の作品の登場人物達への表敬を綴っています故に、 主張的な要素を減らし、恰も「伝聞の報告」であるかの如き印象を与えてくれています。 そこで追加の質問をさせて下さい。 『「尊敬」と"respect"との対象はどう違っている、 と思われますでしょうか?』 宜しく御願い申し上げます。

回答No.1

日本が四季に恵まれた島国だからではないでしょうか。 自然の風土がもたらす恵み・災害は神として崇められ、 外国からの文化を取り入れながら進化させる一方で、 村という特殊な環境で自己よりも他・自然と協調して生きていく必要があった。 その結果自己よりも自然や他人という意識が連綿と受け継がれ、 お互いに褒め称えあうより、崇めるに近い自然や他人という自分の力で変更できないものへの感情の表現として「尊敬」という言葉が生まれた。とか。 すべて自論&妄想です。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6621905.html 御忙しい中への御邪魔を致しますが、 是にも御意見を頂戴出来ますでしょうか?

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    あらかじめお断りしておく。 私は君達哲学者を、廃人で人間以前のクズだと考えていて、質問はそんな廃人に対する「猿回し形式思索法」だと判断して組み立てている。 無駄な抵抗をしたくもなるだろうが、それならそれでよい。 ともかく、わきまえた上で回答してくれたまえ。 前回はコレ↓ 無我について教えてください http://okwave.jp/qa/q7642694.html 参考としてコレ↓ ゴルゴムの総帥は歴史上実在した人物である http://okwave.jp/qa/q7370565.html もしかしたらお釈迦様は私と違って、世界の全てが苦しみであると言う娑婆世界観を方便や例え話でなくて、自らが本当に信じ込んでいて、「そんな苦痛の世界に私はいない」だからこそ私は無我にある、すなわちこの世ならざる幸福を私は味わっており、それは心が涅槃にあると言う事だ。 釈迦は、このような倒錯した心情であったにすぎないのではないか? 君達はゴルゴムの下僕なので娑婆世界観を信じるかもしれないが、私は遠く心を涅槃(あの世のようなところ)に置かなくても世界の全てに幸福を観る。 弥勒菩薩の観想として世界の全てに幸福を観ている。 もはや娑婆ではないので、君達はそんな幸福の世界にいて自らを救ってしかるべきなのだ。 誰かから、救われる事は無いぞ。 自らを救うのだ。 すなわち世界に開眼し、「孤独」これを釈迦は我と観じたのだろう。 そこから脱却する事こそ悟りと表現されたり、解脱と表現されたりする事柄だ。 釈迦の墓守をするなら、苦しみの中から、死の輪廻を経て幸福を現世に見いだすだろう。 これは生きながらに死ぬと言う事で君達がいま現在実践している事だ。 君達は生きようとせず、屍をさらしてさまよっておる。 それを何とかするにはゴルゴムと共に滅びる事で、自らの滅却だ。 観念上で一発、死んでみる事は、要するに死を理解することだが、これは精神を枯らし滅却することだ。 君達は過酷な修行ののちに悟りを開いた釈迦と同じく、ファイト一発、一回死んでみる必要がある。 そう言う事を語り継いできたではないか。 言っとくが処刑されたイエスにすがりついても全く同じ事をする必要があるよ。 蛇足だが「見る」と言う言葉を「観る」に置き換えて論じているね。 観音様とは華やかな歌姫で常に私のかたわらのおる。 観音様とは仏でなく神だな。 宣伝するがポケモンのメロエッタちゃんが古臭い観音像でなく現代の歌姫だ。 関連商品をおもちゃとして安く買えるから買ってくれ。

  • 無我について

    今初期仏教を習っているんですが、どうしても諸方無我について理解出来ません。。 今理解しているのは、人間とは五蘊からなっており、諸方無常、つまり全てのものは不変ではないということから、自分の存在も変り行くものであり、常に不変的な自分の存在は有り得ないということだと思うのですが。 そして、本当は無我なのに、あたかも我があるようにするのは妄想でしかなく、苦しむという考えだと思うのですが、 では何故無我なのに、何故人間は五蘊の中にもある考えたり、知覚したり、行動したり出来るんでしょうか? 自分がもしおなかが空いた時に、食べ物が目の前にあるとすると、その食べ物を食べたいという欲求が生まれるのですが、それも過去の自分の経験から来るものだと理解できます。 でも、自分ということは本当は存在しないんですから、「自分の」経験ではなくなります。ということは、何故その食べたいと言う欲求が生まれるんでしょうか? その回答として経験と今の自分を結ぶ何か不変の存在があるはずだと、ウパニシャッドの考えがあります。 その不変なもの=我の存在とウパニシャッドではしていると聞きました。 そして、仏教ではその考えに挑戦して「無我」という考えが出たと言われているらしいのですが、結局その答えが五蘊とか変っていくものは苦だから、我は苦でないから無我であるとか、最終的には又最初の疑問である、無我なのに何故考えることが出来るのか、じゃぁ考えている人は何者なのか?っという疑問に帰ってくるような気がするんです。。 そしてその答えがウパニシャッドによる我の存在となって矛盾してしまいます。。 どなたか、この矛盾を解ける方お願いします!!