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問題点への自覚が有れば宜しいのでしょうけれども、…
言語が育まれていく思想的な背景が各文化圏毎に独自の特徴を備えていますので、たとえ其処で出来上がった言語を他の言語へと翻訳しようと工夫を繰り返しましても、完全に一致させられる可能性は低い、と思われますが、どうして多くの方々が其の事実を妄想的に否定したがるのでしょうか?
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映画が難しいですよね。 アメリカの映画だと、アメリカンに住んでいるのなら当然知っていることが出てきて大笑いできるシーンで、日本語の字幕を見て、少ししか笑えない。 有名なコメディアンのジョークをネタにしたものであるとわかり、アメリカ人は大笑いできるが、日本人は翻訳されたジョークを笑うしかない。 以前、聖書のある箇所のことで、真剣に質問している人がいた。 about the eleventh hour これを11時と訳していた。 違う、聖書がもとになった慣用句で「ぎりぎり」って意味。 ユダヤ時間は6時からスタートするので、11番目の時間は17時のこと。 ですが、夕方の5時と役すると意味がいまいち伝わらないので、終業間際に と訳した方が内容が伝わる。 聖書の誤訳として「神の義によって迫害されたものは幸いである 彼らは天国にいく」みたいな翻訳して2000年間それを信じている人たちがいますが、実際は「神の義を追い求めるものは幸いである、天国は彼らによって構成されている」が本来の意味です。 ヘブライ語からギリシャ語に変換するとき、直訳してしまった。 ヘブライ語の慣用句を知らない人が翻訳しちゃったので、誤訳になってしまったわけです。 目が見えない人の目を見えるようにした というのも誤訳。 分別がつかなかった人を、分別ができるようにしてやった というのが本来のニュアンス。 ヘブライ語の慣用句を知らない人が翻訳したため、信仰すれば身体障害が消えると思った人がひたすら神に祈りを捧げ他の人生があったのに、結局何もしないまま死んでしまう結果になってしまった。 このように恐ろしいほどヘタクソな翻訳家がいたわけです。 例えば 「へそが茶を沸かすわ」という日本語を英語の直訳してしまっては、その意味がわからない。 ですからうまい翻訳家は直訳しない。 ただ、、、言葉って難しです。 例えば日本語であっても、相手がこちらが思っていること そのままを伝えることは困難。 言葉という言語に翻訳して伝えるしかないわけですが、結局 言葉にした段階で純度は薄まってしまうわけです。 ですから映画や小説など、少しつづ表現をしていって、心に描く世界を相手に伝えようとするわけです。 映画を見終わったあと「わかった」と言ったとします。 「どうわかったのか」と聞かれて懸命に説明するが、私のわかった が言葉によって表現できない。 「ここで主人公は、Aさんをじっとみてたでしょ? 単にカメラでズームして顔を移したのではなく、この間が相手に私は真実を知っているぞ と伝える表現なわけよ だから それがAさんがわかったので、Bさんに暴露されないようにと脅しをかけはじめたわけよ」とか説明して 「あー それがきっかけか」とやっとわかってもらえて、疲れる・・・・ ですから、結局は わかる人にはわかるし、わからない人は 映像を使ってもわからないわけです。 音楽って音とリズムですよね。 ある人は、音楽は国際語だって言ってたけど、そうだと思う。 心を表すのに一番適切なものは音楽だと思う。 それに気づいている人は、音楽で心を共有しあっていると思う。 http://www.nicovideo.jp/watch/sm2376849 映画ですが、彼女は自分の人生を音楽で表現し、彼女の苦しみの訴えが観客の心に音楽を通して伝わったので拍手が起こり、はじめてわかってもらえたことで、彼女ははじめておじぎをしたと思える。
補足
有り難う御座います。 そもそも国語辞典でも意味説明の盥回しが満載されていますね。 従いまして、外国語を訳す場合には、其の訳語の意味を更に詳しく説明する為に、別のややこしい言葉の導入もが要求されるかも知れませんので、仰る通りに、音楽の様な違う手段の採用の方が比較的に望ましいのでしょう。