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明智幕府?

明智光秀は本能寺ののち征夷大将軍の宣下を受けたという話を聞きます。 真相はどうなのでしょう?またどの資料からそのような記述を発見したのでしょうか?明智軍記? 個人的にはもしそれが本当ならば細川・筒井は味方するのでは?とも思うのですが。 信長の首を発見できなかったことはやっぱり大きな失敗なのでしょうか? この2つについての意見をお待ちしています。

noname#130564
noname#130564
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  • Pinhole-09
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回答No.4

6月4日光秀の本陣である、下立売大宮にある妙心寺に 勅使、久我宰相等が来て宣旨を伝えたとのこと。 「惟任日向を中将に任じ、将軍職に補すとの勅諚」 光秀はただちに参内し、金銀等を献上とある。 裏付けとして、光秀の6月4日の行動は、記録では空白 である。  3日、5日は多忙だった。 しかし信頼すべき資料など他の書では、光秀の将軍職 就任の記録が全くない。  他方ウイキペディアの征夷大将軍の項で、歴代征夷大将軍 の表で足利義昭と徳川家康のあいだに明智光秀が書か れている。   根拠は載っていない。  どう解釈すべきか。 1.先賢の答えにあるように、後世光秀ゆかりの者が、 6月4日の空白に乗じて話を作った。 2.前述の話で光秀が事前に将軍就任について朝廷に 申請したと書かれていないことと、宣旨が口頭であった ようで、兵の乱暴を恐れてこの宣旨を出した可能性が ある。  明智方が敗れても、朝廷が責められないように 文書は作られなかった。 しかし2.ならたとえ口頭の宣旨でも、光秀がこれを利用 しない筈はない。   利用すれば味方がふえ状況が 変わった可能性はある。   それでも光秀が勝のは むずかしいが。 やはり1.と思われる。  光秀ゆかりに春日局がいる。 天海僧正も?徳川は光秀に好意的であった。

noname#130564
質問者

お礼

なるほど。 ありがとうございます。

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  • isa-98
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回答No.7

ここは出典も明白なので文献や古文書など無くとも「やる気」だけで十分な場所です。 http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho0.htm 6月9日に奉書が認められたとあります。 また、京頭之儀を固く申し付け銀子を賞えます。 同日に細川文書を出しています。 http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho16.htm 洗うとしたら9日の古文書となります。 はっきり言ってどう言う解釈でも出来る状態です。 この解釈の仕方は文献と言う根拠があり大幅に自由だと思っています。 証拠が無ければ「悪魔の証明と言ってできません。」と言うネット右翼の論法でもなければ 学問は自由だと思います。

  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8861)
回答No.6

・信長の首を発見できなかったことはやっぱり大きな失敗なのでしょうか? あまり意味はない。光秀本人は、「もしや生きていて、復讐に来るかも(>_<)」と怯えていたかもしれんが。 ・本能寺ののち征夷大将軍の宣下を受けたという話を聞きます。 本能寺の変の後、参内しているし、僅かな間に勅使が三度も来てるし 一応、宣下は、されている。なにしろ、明智勢に京が軍事占領されているから、 木曽義仲のように、くれと言えば、あげたでしょう。 都合いいことに、従五位で征夷大将軍になれる程度の官位を信長の斡旋で得ていたし、 当時、正式にはまだ足利義昭が免官にならないまま、毛利の勢力圏内で亡命政権ならぬ亡命幕府 を開いていましたが、南北朝時代は足利将軍と南朝の皇族将軍がいたし、 応仁の乱以後、世が乱れ、つい最近まで有力者が別の将軍を擁立、武力衝突することが 当たり前の時代でしたから、 「わしゃ、安土に隠居して、きままに余生を楽しむから、 官位は返上したから、宮仕えは家督相続した息子の方に。」 という信長に、 「まー、そう言わんで、関白・太政大臣・征夷大将軍好きなの選んでくださいな。」 と、近日中に、辞令出す根回しも進行していたので、 「どうせ、信長が将軍選べば、義昭クビにすることなっていたから」 と、正式の儀式は、後回しで発令したということ。 まー、宣下された本人が戦死して、儀式書類不備で、なかったことにされましたが・・・・、 ただ、実力からして、生き延びて幕府称しても、いうこと聞いてくれるのは もう、上杉とか少数と思います \(^^;)... 三好・松永勢が将軍・細川管領を擁していた時程度の畿内数か国を なんとか統治するぐらいで、いずれは、だれか上洛して消え去るでしょうね・・・

noname#130564
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • jkpawapuro
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回答No.5

首を見つけられなかったことは痛手です。ですが失敗というよりもともと難しかったと言えるでしょう。 本能寺は近年の発掘で、寺としては相当堅固なつくりであったことが知られています。 首が無くても与力から相応の協力が得られるよう十分な根回しが行われていなかったことが失敗であるか、そもそも本能寺の変に無理があったといえます。

noname#130564
質問者

お礼

たしかに知略に優れているとされた光秀の行動としてはあまりにも無理があったと 言えますよね。 ありがとうございました。

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.3

明智光秀公家譜覚書ではこう言っていたと言う事です。

noname#130564
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.2

信頼できる史料にはそのような記述はありません。 まだ足利義昭が将軍としての権威をある程度維持しているにもかかわらず、畿内すら制していない光秀に将軍宣下を行うことは現実的にもありえないかと。 仮に将軍となったとしても、実力がなければ光秀に味方することはないでしょう。それこそ義昭が証明しているように。 天下統一の過程で権威を身につけるために征夷大将軍に就任することがあっても、征夷大将軍就任によって天下統一する力を手に入れることはないと思います。 信長の首を発見できなかったことは、信長の死を確実なものとして喧伝するには痛い失敗だったとは思いますが、首がないからと言って信長が生存している可能性が高くなる状況でもありませんから、光秀の戦略としてさほど大きな失敗だったとは思えません。 本能寺の変前後の光秀の行動に大きな失敗といえるようなものはありませんし。 敗因は、秀吉の中国大返しが早すぎたことでしょう。

noname#130564
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

回答No.1

一説によると誠仁親王が、6月9日に吉田兼見を通じて、光秀を征夷大将軍に任命したという説があるようです。当時の朝廷としては、信長が朝廷を軽視するようになってきたことに対しての危機感を持っていたようなのでそうした動きもあったかもしれません。しかし信長の死が確定的でなかったこと(首が見つかっていない)もあり、光秀に全面的に肩入れをする危険性を持っていたのではないでしょうか。従ってあまり公になっていない状態での任命はその効果が無く、それよりも秀吉の行動と宣伝(主人の敵を討つと言う大義名分を方々に伝えていたようです)にみんな味方をしたために、幕府を開くにいたらなかったと思います。私は個人的には秀吉が本能寺の変の黒幕だろうと考えています。

noname#130564
質問者

お礼

ありがとうございます。 私も秀吉が黒幕なのでは?とわずかながら思っています。 あまりにも秀吉の行動に無駄がないので。

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