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筒井順慶が高見の見物
本能寺の変の後 明智光秀は親交のあった諸大名に 味方につくように書状を送っています 娘婿の細川忠興はそっこー拒否しましたが 友人の筒井順慶は筒井城から軍勢を率いて出陣 男山まで来たところで突然行軍を止めました… ここから 洞ヶ峠を決め込む という言葉が生まれたように順慶は迷っていたのでしょうか? どちらにつくか決めかねるなら出陣しなければよかったのにと思います しかも軍勢を率いて出陣したのなら秀吉が摂津に到着する前に光秀を見限って それこそこっちが細川に呼びかけて 挟み撃ちにでもすれば討ち取ることもできたのでは?と思うのですが… どうでしょうか
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詳しくてわかりやすいです ありがとうございました