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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:元禄時代の忠臣蔵の事件について)

元禄時代の忠臣蔵の事件についてわからないこと

百 楽天(@100rakuten)の回答

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回答No.6

 これで3回目になります。  忠臣蔵関係の話のなかには、松平右京大夫はほとんどでてきませんが、この二人は親子のような関係で、将軍綱吉も何度となく右京大夫の屋敷を訪問しているんです。  松平右京大夫は、本所吉良屋敷の前主、松平登之助よりも十歳年長ですが、幼い頃からの親しい仲。  ほとんど知られていないことですが、事件当時本所に隣り合わせの抱え屋敷がありました。拝領屋敷と違って、農民などから自前で収集した土地です。  前述のとおり、細井廣澤は柳沢の家を辞してすぐ、播磨明石城主(六万石)の松平左兵衛(直常)の家に仕官し、留守居という重要な職についていたのです。  さらにいうと、堀部安兵衛は大石内蔵助との往復書簡(安兵衛の書いた写しも含めて)などを細井廣澤に託したのち、切腹しているのです。  安兵衛が細井廣澤に託した文書があったからこそ、討入にいたるまでの江戸と赤穂(京都)の経過が生々しく伝えられたのです。 >6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。  前にも書いたとおり、本来ならば伝馬町の牢屋敷で沙汰を待つことになります。  歴史作家さんはこう書かれています。  「大名屋敷での騒動や取締りは大目付の支配下です。ちなみに、旗本や御家人の支配は目付です」  評定所では、大名、大名家や旗本・御家人の犯罪、公儀に関わる重要事件の裁定も担当します。旗本・御家人が犯罪を犯すと、犯罪を犯した者の上役である頭支配が捕らえ評定所に引き渡すのです。  あの事件は、元大名家の家来、浪人が起こした騒動です。  いかに元大名の家来であっても、浪人が大名屋敷に押し入って金品を盗んだりしたときには、町奉行の出番です。  大名家の騒動とするために、口上書を作りました。  本来ならば、口上書の内容などは後で詮議されるべきもの。  ところが、最後の決まで決まっていた事件です。  武家諸法度の天和令にピタリあてはめるように(弓馬を除いて忠孝を追加した)、細井廣澤によって推敲された口上書はいかにもよくできています。  前項の回答にあるに 「佐藤一敞覚書」でもわかるとおり、その日のうちに四家へのお預けや、切腹まで決まっていたのです。 >大石内蔵助らは泉岳寺に詣でたあと、「評定所」に自首しました。  「評定所」 ではなく、大目付の仙石伯耆守の屋敷です。  歴史作家さんはこう書かれています。 >なお、寺坂吉衛門は、赤穂藩士ではなく、赤穂藩士の吉田忠左衛門の家来でした。  寺坂吉右衛門を吉田忠左衛門の家来で、浅野内匠頭からみると陪臣だと勘違いしている方が多いようです。  寺坂吉右衛門は吉田忠左衛門の家来でしたが、27才の時に吉田忠左衛門の推挙によって足軽になり、足軽頭だった吉田忠左衛門の組に入ったのです。  原惣右衛門は、元禄十六年二月三日(1703年3月19日)、切腹の前日に、実弟の和田喜六(岡島八十右衛門の兄)に送った暇乞いの手紙には、こんなこと書いているんです。 「昨年の十二月十四日の(吉良屋敷表門の前に立てかけた)口上の写しも公儀に差し出している。その内に書いた寺坂吉右衛門の事も、かねて言っあるる通りである。十五日暁の討入り直前までは居たのにどういう訳で心遅れしたのか、(吉良の)屋敷に来ずに逃亡してしまった。今少しの事であったのに、残念千万だ。矢野為助めは、今はどうしていることやら、(あいつを)成敗したい」 (一旧冬十四日ノ状ニ指出し候口上書の下書も遣候、其内に寺坂吉右衛門事申通候、十五日暁ニうち入候前までハ居申候処、何と候て心おくれ申候か、かのやしきニ不参候て逐電申候、今少之事、残念千万の事候、矢野為助め、いかやうニ申候て居申候や、成敗仕度候)  ここに原惣右衛門のホンネが、見えてきました。 「矢野為助(伊助)め は、今はどうしていることやら、(あいつを)成敗したい」  寺坂吉衛門は、吉田忠左衛門組下の足軽。矢野伊助は自分(原惣右衛門)の組下の足軽。  2人とも、赤穂浅野家の家来ではあったけど、他の家来からは相手にされないくらいの末席。  寺坂は、討入が計画どおり済んでから、「行方不明」になったのです。  討入前の計画で、寺坂だけを安全に逃がすことになったんですね。  今度で最後

kohinata7miwako
質問者

お礼

たいへん詳しくご説明いただき、ありがとうございます。 またよろしくお願い申し上げます。

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