元禄時代の忠臣蔵の事件についてわからないこと

このQ&Aのポイント
  • 四十七士は各々が集合場所に向かったが、全員が一つの場所で集合したのか疑問がある。
  • 江戸の町には警備の施された場所が多くあり、吉良邸へ向かう際や事件後の行動において罰せられなかったのか疑問がある。
  • 討入事件の際には野次馬は出てこなかったのか気になる。
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元禄時代の忠臣蔵の事件について

よく考えるといろいろわからないことがたくさんあります。 1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。 2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。 3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。 4.事件のあと四拾七士は泉岳寺に向かいましたが、怪我人や老人は駕籠に乗っていったと書いた本がありました。早朝6時に駕籠屋はやっていたのでしょうか。 4.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。 5.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。 6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。 以上、いろいろ書きましたが、よろしくお願いいたします。

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回答No.6

 これで3回目になります。  忠臣蔵関係の話のなかには、松平右京大夫はほとんどでてきませんが、この二人は親子のような関係で、将軍綱吉も何度となく右京大夫の屋敷を訪問しているんです。  松平右京大夫は、本所吉良屋敷の前主、松平登之助よりも十歳年長ですが、幼い頃からの親しい仲。  ほとんど知られていないことですが、事件当時本所に隣り合わせの抱え屋敷がありました。拝領屋敷と違って、農民などから自前で収集した土地です。  前述のとおり、細井廣澤は柳沢の家を辞してすぐ、播磨明石城主(六万石)の松平左兵衛(直常)の家に仕官し、留守居という重要な職についていたのです。  さらにいうと、堀部安兵衛は大石内蔵助との往復書簡(安兵衛の書いた写しも含めて)などを細井廣澤に託したのち、切腹しているのです。  安兵衛が細井廣澤に託した文書があったからこそ、討入にいたるまでの江戸と赤穂(京都)の経過が生々しく伝えられたのです。 >6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。  前にも書いたとおり、本来ならば伝馬町の牢屋敷で沙汰を待つことになります。  歴史作家さんはこう書かれています。  「大名屋敷での騒動や取締りは大目付の支配下です。ちなみに、旗本や御家人の支配は目付です」  評定所では、大名、大名家や旗本・御家人の犯罪、公儀に関わる重要事件の裁定も担当します。旗本・御家人が犯罪を犯すと、犯罪を犯した者の上役である頭支配が捕らえ評定所に引き渡すのです。  あの事件は、元大名家の家来、浪人が起こした騒動です。  いかに元大名の家来であっても、浪人が大名屋敷に押し入って金品を盗んだりしたときには、町奉行の出番です。  大名家の騒動とするために、口上書を作りました。  本来ならば、口上書の内容などは後で詮議されるべきもの。  ところが、最後の決まで決まっていた事件です。  武家諸法度の天和令にピタリあてはめるように(弓馬を除いて忠孝を追加した)、細井廣澤によって推敲された口上書はいかにもよくできています。  前項の回答にあるに 「佐藤一敞覚書」でもわかるとおり、その日のうちに四家へのお預けや、切腹まで決まっていたのです。 >大石内蔵助らは泉岳寺に詣でたあと、「評定所」に自首しました。  「評定所」 ではなく、大目付の仙石伯耆守の屋敷です。  歴史作家さんはこう書かれています。 >なお、寺坂吉衛門は、赤穂藩士ではなく、赤穂藩士の吉田忠左衛門の家来でした。  寺坂吉右衛門を吉田忠左衛門の家来で、浅野内匠頭からみると陪臣だと勘違いしている方が多いようです。  寺坂吉右衛門は吉田忠左衛門の家来でしたが、27才の時に吉田忠左衛門の推挙によって足軽になり、足軽頭だった吉田忠左衛門の組に入ったのです。  原惣右衛門は、元禄十六年二月三日(1703年3月19日)、切腹の前日に、実弟の和田喜六(岡島八十右衛門の兄)に送った暇乞いの手紙には、こんなこと書いているんです。 「昨年の十二月十四日の(吉良屋敷表門の前に立てかけた)口上の写しも公儀に差し出している。その内に書いた寺坂吉右衛門の事も、かねて言っあるる通りである。十五日暁の討入り直前までは居たのにどういう訳で心遅れしたのか、(吉良の)屋敷に来ずに逃亡してしまった。今少しの事であったのに、残念千万だ。矢野為助めは、今はどうしていることやら、(あいつを)成敗したい」 (一旧冬十四日ノ状ニ指出し候口上書の下書も遣候、其内に寺坂吉右衛門事申通候、十五日暁ニうち入候前までハ居申候処、何と候て心おくれ申候か、かのやしきニ不参候て逐電申候、今少之事、残念千万の事候、矢野為助め、いかやうニ申候て居申候や、成敗仕度候)  ここに原惣右衛門のホンネが、見えてきました。 「矢野為助(伊助)め は、今はどうしていることやら、(あいつを)成敗したい」  寺坂吉衛門は、吉田忠左衛門組下の足軽。矢野伊助は自分(原惣右衛門)の組下の足軽。  2人とも、赤穂浅野家の家来ではあったけど、他の家来からは相手にされないくらいの末席。  寺坂は、討入が計画どおり済んでから、「行方不明」になったのです。  討入前の計画で、寺坂だけを安全に逃がすことになったんですね。  今度で最後

kohinata7miwako
質問者

お礼

たいへん詳しくご説明いただき、ありがとうございます。 またよろしくお願い申し上げます。

その他の回答 (6)

回答No.7

 これで回答は最後です。  歴史作家さんは、大石は寺坂に密命を託し離脱させたとして、その密命を4つ揚げましたが、  1.妻瑤泉院への報告。  寺坂が瑤泉院のところに行った形跡はありません。かつて、寺坂が 「金銀請払帳」 を瑤泉院に届けたなどと書いた本がありましたが、 「預置候金銀請払帳」 など16点の品々は、吉良屋敷討入りの前に大石内蔵助の命によって、近松勘六の家来甚三郎が瑤泉院の用人であった落合与左衛門に届けたのです。 2.弟大学への報告。  寺坂は広島の浅野宗家には行った形跡がありません・ 3.広島の浅野本家への報告。  同上  なぜ、寺坂を逃がしたかというと、「身分の違い」です。  浅野の元家来の大方は、討入には参加していない。  討入メンバーは、親子・兄弟などのグループ、隠居した老人や居候(部屋住み)などまでひっかき集めて作った軍団でした。  そうはいっても、いつも使い走りのようなことをやってる足軽のような下っ端まで加わっていたとなると、みっともない。大石内蔵助の見栄もあったのでしょう。  大石内蔵助の家来、瀬尾孫左衛門とともに矢野伊助は討入の前々日に勝手に逃げてしまった、あいつはどこでどうしていることやら。  寺坂のように最後までいれば、安全に逃げることができたのに。  ちなみに、寺坂吉衛門(信行)は晩年、江戸麻布の曹渓寺に身を寄せたのち、土佐山内家の分家に仕えて「刀矢のこと」を担当。夫人を郷里より迎えて平穏な家庭を築いたということです。  彼には養子がいて、子孫も代々土佐新田山内家に仕えて吉右衛門の通称を継ぎ、孫の吉右衛門(信成)は主君攝津守(豊福)の側頭(側近)にまで出世しています。  私は、末裔の寺坂氏とは何度も会っています。

回答No.5

(つづき) >4.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。  隣の土屋家も、本多家も高張提灯を掲げています。  この土屋家は、老中の土屋相模守の本家だし、本多家は公儀の指名による越前家の家老で御一門の越前家や加賀前田家の監視役のような家。二万石の大名格として得遇されていたので、公儀とはツーツー。  みんな事情を知っていたのです。 >5.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。  本来ならば、ルール違反。大目付は大名家での事件やトラブルには関与しますが、浪人が起こした事件ではまず町奉行行きです。  評定所の裁定を待つにしても、伝馬町の牢屋敷内の揚屋といいう御目見以下の御家人、大名や旗本の家来、僧侶、医師、山伏が入る牢屋に監禁されるべきものです。  ところが、泉岳寺に向かう途中で吉田忠左衛門と富森助右衛門の2名が大目付、仙石伯耆守の屋敷へと向かい、自首手続きを行なった。  仙石伯耆守の屋敷なんて、ふつうならどこにあるかもわからない。  江戸の地図を頼りに行ったはずです。  ボクは当時の江戸の地図の復刻版(遠近道印作・改選江戸大絵図)を持ってるけど、畳2枚くらいの大きさです。  泉岳寺に引き上げる途中、大石内蔵助に突然命令されてもストレートに行けるわけがない。道順は、事前に調べてあったはず。  2人が大目付に自首したのち、全員が大目付の屋敷に呼ばれ、そこから四つのグループに分かれてそれぞれお預け先の大名家に。  そこまで、事件当日に決定してしまったのです。  その後の切腹まで、決まっていた。。。  手元に 「佐藤一敞覚書」 という史料があります。  佐藤條衛門一敞、討入をサポートした堀部安兵衛の従兄が書いた記録です。 佐藤條衛門は事件後、米沢町の堀部弥兵衛宅に行きました。   「四十六人は芝泉岳寺に行ったというので、安兵衛のいってた近松勘六の召使い甚三郎を引き連れて芝高輪の泉岳寺に来てみた」 (四十六人之面々芝泉岳寺へ参候由ニて被通候と追々申来候故某儀さらは泉岳寺へ参何もへ逢可申と申近松勘六召遣甚三郎と申者安兵衛申置候故弥兵衛宿へ呼寄候を召しつれ米澤町を立出芝高縄(ママ)泉岳寺へ参候)  佐藤條衛門は昼ごろ門前まで行き、上に行ったり下を通ったりしながら様子を知ろうとしたが、わからず。  どうしようか困っているところに、松平左兵衛公の御留守居役広澤何某を見かけたので近寄って様子を訊いた。  上記の「広澤何某」は、細井廣澤(ほそい・こうたく/次郎太夫知慎)。堀部安兵衛とは剣術の同門。仲のいい友人で、このときは播磨明石城主(六万石)の松平左兵衛(直常)の家に仕官し、留守居という重要な職についていたのです。  細井廣澤は、松山陰州公の御留守居役からこんなことを聞いていた。 「四十六人は四ヶ所に御預けとなり、これを受け取るため仙石伯州殿から御渡しなさるので、引き取るようにとのご沙汰であった」  松山陰州公といえば、十五万石の伊予松山の城主、松平隠岐守。  大石主税・堀部安兵衛ら10名の預かりを命じられた家の当主です。    七ツ(16時頃)過ぎになったけれど、佐藤條衛門は夜になっても様子を見届けたいと、茶屋に腰掛けて待っていた。  暮六ツ(18時)頃、一同46人は、泉岳寺の門をでて仙石伯耆守屋敷に向かいますが、それ以前、早いうちに大名家のお預けは決まっていたんですね。  一同が泉岳寺の門を出たとき、佐藤條衛門が堀部安兵衛に、 「これから何処に参られるのか、と訊いたら仙石伯耆守殿に参るというので、どうなるのかとと問うと、安兵衛は "切腹、切腹" と答えた」 (何方へ被参候哉と尋候へは仙石伯耆守殿へ参候と申候何事にやと申候へハ切腹切腹と申候)  堀部安兵衛は、ずっと前から事件の結末までわかっていたようです。  彼の友人の細井廣澤とは、どんな人物なのか。  御側用人、松平美濃守吉保(柳沢出羽守保明)の元家来です。  彼は、事件の前に柳沢家を辞して浪人生活を送っていたとされていますが。。。  その原因は、細井廣澤が松平右京大夫とトラブルを起こし、右京大夫が吉保に執拗に責めたためとされています。  で、吉保は浪人になった広澤に、年間十両を与えていたなんて話もあって。。。  松平美濃守吉保は首席の御側用人で、松平右京大夫は次席御側用人。  (さらにつづきます)

回答No.4

>1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。  歴史作家さんが書かれたとおりです。 >2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。  大筋、歴史作家さんが書かれたとおりですが、  「辻番には、前日に赤穂浪士の1人が「目こぼし(見て見ぬふりを)」してくれるよう頼んでいます」 ということは、どこから出たのでしょう。  前原伊助の借店(かりだな)には、それ以前から何人もの者(浪人)が出入りしていました。  それなのになぜ辻番はとがめないのか?  辻番は、公儀の若年寄支配です。  大名家の一手持辻番はその家が、旗本の組合辻番は複数の家で運営していました。  吉良屋敷の裏門ちかく、南西角にあった辻番は、吉良家と土屋家が共同で運営していたのです。  いずれにせよ、定期的に御徒目付が巡回して辻番の勤務状態をチェックしていたので、上層部の若年寄が見逃すはずはない。  堀部安兵衛は、「討入は必ず成功すると」書簡にも書いています。  そんなところから大石内蔵助は、不審に思って同志に尋ねたのでしょう。  歴史作家さんが書かれたことに関係しますが、かつて私の書いた町木戸に関する説明のなかに重大なミスがあり、そのページで訂正させていただきました。  その内容は、下記のとおりです。  【誤】  日暮時を午後6時としたとき、午後10時は八つ時になります。  【正】  町木戸の閉鎖時刻は、宝永五年(1708)十一月以降は夜四つ時(日暮時を午後6時としたとき、午後10時)になりましたが、元禄の頃は暁九つ(午前0時)でした。 >3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。  火事騒ぎがあっても、野次馬に走れば付火容疑で捕まえられ、拷問にかけられることもある。  吉良屋敷の四丁ほど東に、初代火付改の中山勘解由の屋敷がありました。  討入事件の10年ほど前に中山勘解由は火付改の職を辞していますが、それでも「鬼」と恐れられた人が近所にいたから、自身番などから通告がなければ外に出ようとする人は少なかったと思います。  それでも何事か見に来た人がいたので、吉良屋敷の表門前にあった牧野一学の家来などが追い払っていました。  遅れてきた堀部弥兵衛が門の横から梯子で塀を乗り越えようとしたとき、同道の佐藤條衛門が牧野の家来に推覈されようとしました。

回答No.3

(続き) しかし、側用人であった柳沢吉保は、 「忠義だけで政(まつりごと)をしたのでは、世情の統制がきかなくなる」 と、反対しました。 そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤と柳沢お抱え学者の荻生徂徠の2人を呼び議論をさせました。 最終的には、綱吉は2人の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとし、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹をしました。 なお、寺坂吉衛門は、赤穂藩士ではなく、赤穂藩士の吉田忠左衛門の家来でした。 そこで、大石は寺坂に密命を託し離脱させました。その密命とは、 1.妻瑤泉院への報告。 2.弟大学への報告。 3.広島の浅野本家への報告。 4.今後の我らの行く末を見届けること。 などだったと言われています。 寺坂は全ての事後処理が終わると、大目付仙石伯耆守(せんごく ほうきのかみ)へ自首しましたが、かえって10両を与えられ開放されています。 その後は、他の藩に勤めたり、年老いてからは江戸に出てきて寺男などをして82歳の天寿をまっとうしています。

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。 堀部安兵衛名義で借りていた本所林町五丁目の紀伊国屋店など3つの集合場所で身支度を整えたのち、本所相生町二丁目の前原伊助の借店に集まって、吉良屋敷の東の表門隊と西の裏門隊の二手に分かれて出立しています。 また、吉田忠左衛門ら数名は真夜中に米沢町の堀部弥兵衛宅を出て、本所林町五丁目の堀部安兵衛の相宅に行く途中、両国橋の向こう、川岸(河岸ではなく)にある亀田屋という茶屋に寄りましたが、この場所はのちの岡場所。 >>2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。 吉良邸の南西角には辻番があったので、前原伊助の借店から裏門に行くには必ずそこを通過します。 なお、辻番には、前日に赤穂浪士の1人が「目こぼし(見て見ぬふりを)」してくれるよう頼んでいます。そして、当日には辻番はフリーパスで通過できました。このことは、12月13日付で大石内蔵助が赤穂の僧3人に送った書簡でも明らかになっています。 また、木戸番については、夜八ツ(午後10時)になると木戸は閉まりますが、用のある時は、木戸番に頼めば横の潜り戸から出入りすることができました。この時、木戸番は拍子木を打ち、次の木戸番へ合図をしました。 さらに、木戸は町家の長屋にしかなく、武家地にはありませんでした。武家地や大通りは軍事用道路で、「いざ鎌倉!」と言う時には、武士が駆けつけるため、木戸はありませんでした。 >>3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。 吉良邸は武家地にありましたので、野次馬と言うほどの人数はいませんでした。 ただ、吉良邸に出入りを許されていた豆腐屋が上杉邸を事件が起きていることを報せています。 >>4.事件のあと四拾七士は泉岳寺に向かいましたが、怪我人や老人は駕籠に乗っていったと書いた本がありました。早朝6時に駕籠屋はやっていたのでしょうか。 駕籠屋は当然やってはいませんでしたので、47人の同士仲間で助け合いをしました。 >>4.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。 吉良邸の北側には土屋平八郎の屋敷がありましたが、大石内蔵助が、 「我ら、主君浅野内匠頭の無念を晴らすべく参上。御隣家様にはしばしの騒動となりましょうが、平にご容赦たてまつります」 と、叫ぶと、土屋邸より、 「その方らの儀、いさい承知。塀を乗り越える者があらば、どちらの家中の者であれ成敗するがゆえ、存分に働きあれ」 と返答し、ただちに高張り提灯を何本も立ててくれた・・・と言われています。もちろん赤穂びいき・・・。 武家屋敷に入る時は、たとえ武士であっても表門から入ることになっており、塀を乗り越えたりすれば成敗しても構わない。 高張提灯を立てたことを幕府が咎めても、 「我が邸に無断で入ってくる者を成敗するため」 と、言い訳がたちました。 >>5.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。 >>6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。 これは、二つを同時にお答えします。 まず、大名屋敷での騒動や取締りは大目付の支配下です。ちなみに、旗本や御家人の支配は目付です。 大石内蔵助らは泉岳寺に詣でたあと、「評定所」に自首しました。 評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩邸内や藩と藩との争い、旗本や御家人への訴訟を扱うところでした。 大石内蔵助は、これは「藩と藩」との争いだと届け出たのです。そのため、町奉行所などの手出しのできない状況となったのです。 評定所には牢屋はありませんので、大石らは評定所内に留められ、大石らの作成した「討ち入り口上書」はただちに老中に届けられ、そして、時の将軍綱吉に届けられました。 時の将軍綱吉は、この「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義である」と褒め称えました。また、当時の老中安部正武や小笠原長重などが、綱吉の裁定に賛意を述べました。 (続きへ)

noname#140269
noname#140269
回答No.1

1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。 =47人は両国橋西の米沢町にあった堀部弥兵衛宅に一旦集まります。そこから3隊に別れて吉良邸へ向かいます。どの様な分け方をしたか解りませんが、おそらくは47人集団で吉良邸に行けば途上で吉良側の人間と出くわさないとは限りません。そこで不測の事態に備え3隊に分けたというのが有力説です。吉良邸前で落ち合ったものと思われます。 2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。 =3隊に分けたのも、そこにヒントがあります。そうゆう不測の事態に備える為です。しかしもしも辻番等に見咎められれば、迷いなく斬っていたでしょう。吉良の首を取った一行は、この時、吉田忠左衛門・富森助右衛門の両名を、討ち入りの口上書の写しを持って大目付のもとに出頭させています。今で言う「自首」です。咎めはあったとは思いますが、討ち入りの口上書を持っていたので、そこで敢えてお縄にする事は無かったのでしょう。 3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。 =映画やドラマ等では野次馬が登場しませんが、明け方に近い時間に邸の中からワーワー聞こえてくれば、野次馬の何人かは出てきたとは思います。それが自然というものです。 4.事件のあと四拾七士は泉岳寺に向かいましたが、怪我人や老人は駕籠に乗っていったと書いた本がありました。早朝6時に駕籠屋はやっていたのでしょうか。 =駕籠屋って、今で言えばタクシー会社ですから、やっていたと考えるのが自然なのではないでしょうか。ただ、その本についても、推測の域ですから、本当に駕籠を使ったのかどうかさえも怪しいものです。第一、主君の眠る泉岳寺に駕籠で行く武士もいないと思います。 5.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。 =現実にあったとしても証拠がありませんし、よしんばその屋敷の人間を調べても、庭が暗かったし、隣が物騒だったので、こちらに逃げ込めない様に提灯を掲げたと言えば、それまで。第一、提灯掲げなど初めから無かったという説が有力です。その他にも「橘左近の勧進帳」の逸話も、後世に付け加えられたというのが有力説です。 6.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。 =順番としては、武士を裁く時に最初に調べをするのは「大目付」です。現実、浅野内匠守が吉良に刃傷した際も、最初に調べたのは、大目付である「岡野伝八郎」でした。 7.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。 =武士が武士を裁く場合は、必ず「大目付」が調べ、100%、どこかの武士の屋敷に「お預け」になります。小伝馬町の牢屋に行くのは、武士階級よりも下の者です。

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    赤穂義士の討ち入りは有名です、この討ち入りに対し賛否両論があり評定に時間がかかりました。 正に平成の赤穂事件の評定がされていると思われますが、法律と民の感情のバランスをとることがそれこそ政治主導だと思うのですが、、、、、。 今回のビデオ流出事件(事件かどうかわかりませんが)は歴史に残ることになるのでしょうか? それとも、単なる1事件として記録されるだけなのでしょうか? 以下 赤穂事件の評定(ウィキベキアより) 赤穂浪士の討ち入り行為を義挙として江戸の武士には賞賛するものもいた。本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か切腹か助命かで対応に苦慮した。幕閣の中にも「夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし」と唱え、磔獄門を主張した者もいた(『柳沢家秘蔵実記』)。その一方で、大目付仙石伯耆守久尚、町奉行松前伊豆守嘉広、勘定奉行荻原近江守重秀などのようにこの主君仇討ち事件に大いに感激した幕閣もいて、その内部でも意見の違いがあった。

  • もしも赤穂事件の時代に今の文明の利器があったら・・

    Q もしも赤穂事件の時代に今の文明の利器があったら・・・ この季節になるといつも考えてしまうのですが、 もしも赤穂事件の時代に、今の文明の利器があったらなあ・・・ と思います。 時代劇では 「事件発生の第一報を伝える早籠が、江戸から赤穂まで走り抜けるのに、たったの四日だった」 などと驚異的な早さを強調するナレーションが入りますが、 今現代であれば、新幹線で約4時間程度、飛行機やヘリコプターを使えばもっと早いでしょう。 それよりなにより、電話、FAX、インターネット、メールという通信手段があれば、赤穂事件の速報は 1時間もしないうちに江戸城前で待機する江戸の御家来衆や江戸の浅野上屋敷へ、あるいは赤穂城の大石殿にも 伝わったでしょう。 そんなことを考えていると面白くもあり、悲しくもあります。 そこで皆さんにお尋ねします。 「もしも赤穂事件の時代に今の文明の利器があったら、吉良の浅野イジメや、刃傷事件、浪士の潜伏期間や、吉良邸討ち入りはどんな変化があったでしょうか?」 質問者の私からまず一言。 大高源五「もしもし、大石殿ですか? 今、田村右京太夫様の御屋敷の前ですが、先ほど、殿が切腹あそばされました」 大石内蔵助「ご苦労様です。なにか伝言はありませんでしたか?」 大高「辞世の句を詠まれたようですが、いかがいたしましょうか?」 大石「じゃ、メールで送ってください。」 大高「歴史的仮名遣いにしますか? それとも現代仮名遣いで?」 大石「どっちもお願いします」 大高「承知しました。ではメールで送ります。」 なんてね。

  • 忠臣蔵、この登場人物は?

    朝日放送と、松竹(京都映画、現在の松竹撮影所)が、共同制作した、テレビ朝日系列による、2時間ドラマ、「土曜ワイド劇場」による、シリーズドラマ、「京都殺人案内」。 このシリーズで、忠臣蔵を、元にした内容で、昭和62年(1987年)頃の12月、丁度討ち入りの日だった、土曜日に、本放送した、題名が「忠臣蔵殺人事件」と言う回が、あります。 この回で、比較的最初に… 「京都市山科区にある、大石神社で、浅野と言う男が、刺し殺された事件が、発生した。 所が、「現場近くにある、寿司屋の板前である、月亭可朝さん扮する、北島が、浅野との間で、麻雀の掛け金を巡って、トラブルになり、恨んでる」事が、京都府警の捜査一課の調べで、判明した。 その北島は、「浅野から、大石神社に、呼び出されて、指示された、日時に行ったら、死んでた。 自分は、北島と、トラブルがあるので、警察には、何れバレるだろうから、犯人と、思われるのは、かなわない。 一ツ、警察に対する、陽動作戦として、ヤるか?」と、思いついた。 そこで、逃走先の東京にある、泉岳寺(東京都港区)へ、板金業の赤垣源蔵と言う、男の人を、呼び出して、お酒を入れる、とっくり(陶器製)で…。 更に、吉良上野介の屋敷跡(東京都墨田区)へ、会社役員の堀部安兵衛と言う人を、呼び出して、木刀で、それぞれ、殴って、ケガを負わせた。 因みに、被害者の二人だが、忠臣蔵の四十七士、赤垣源蔵、堀部安兵衛と、読み方以外、ほぼ同姓同名だった。 言う迄も無いが、北島のトラブルの相手で、大石神社での殺人事件の被害者、浅野は、忠臣蔵では、殿様の浅野である。 しかし、北島は結局、京都に戻って、勤務先である、現場近くの寿司屋に、戻った所を、張り込んでた、捜査一課の刑事に、任意同行として、捕まった…」シーンが、ありました。 そこで、質問したいのは… 「番組で、同姓同名の被害者として、登場した、赤垣源蔵と、堀部安兵衛。 歴史上の人物として、堀部安兵衛は、「剣術が、得意な人物」と言うのは、度々良く聞く。 もう1人、赤垣源蔵だが、「酒飲みである」等、歴史上、どう言う人物か?」に、なります。

  • なぜ歴史愛好家はマジメな方が多いのでしょうか?

    なぜ歴史愛好家はマジメな方が多いのでしょうか? Q もしも赤穂事件の時代に今の文明の利器があったら・・ http://okwave.jp/qa/q8368088.html という質問をしました。 私としては、せいぜい 「刃傷事件がヤフーのトップニュースになる」 「同士たちは離れ離れになってもメールで連絡交換する」 「吉良邸の絵図面がWIKIリークスに流出する」 「大石内蔵助がツイッターで”本懐遂げたなう”とつぶやく」 「討ち入り後に泉岳寺へ向かう浪士たちの姿を見て、皆、携帯電話のカメラで撮影する」 程度のギャグを返してくれればよかったのですが、 返ってきた答えは 「技術だけ進歩しても同じ結果にはならない。  江戸時代にパソコンや携帯電話のような連絡端末は幕府から厳しく禁じられる。  情報漏えいが簡単になったら討幕運動につながるからだ。」 「吉良が浅野をいじめたわけではない。浅野としても供応役は初めてではなかった。  吉良にいちいち教えを乞う浅野こそが問題なのだ。  吉良が本所に転居させられたのも、幕府側が討ち入りをさせやすくしたのが理由だ。御存じないのか?」 などなど、 「お前は赤穂浪士事件をなんと心得ているのだ」 「忠臣蔵ファンなら知っていて当然の逸話、裏話すらも知らないなんて・・・」 といったようなくそまじめ、基、大変有意義なご回答をいただきました。 (もちろん、回答の中には、質問の意図を正しく理解し、 ”松の廊下にも監視カメラが付いていた” ”TVレポーターが江戸城前で大騒ぎ” といったようなこちらの洒落を分かってくれた回答もありましたが) どうして歴史ファンって、多少の冗談もわからないようなくそまじめで石頭で歴史の事を知り尽くしていて知らない人を罵倒するような、 もとい、とてもご立派で勉強好きな方が多いのでしょうか? くそまじめな方、もとい、歴史に真剣に向き合っている方、ご回答ください。

  • 江戸時代、子供が犯した、事件の刑罰

    「今回も、「歴史的に、実際にあった話を元に、架空の話を足した回から」だが、テレビ朝日系列による、時代劇「吉宗評判記暴れん坊将軍(暴れん坊将軍第1シリーズ)」から、 質問したい」と、思います。 大阪ですが、私は先日、自宅のテレビで、サンテレビ(兵庫県がメイン)による、「お昼の時代劇」として、再放送していて、見ていたら、又も「?」と思った回、主なストーリーは… 「現在で言えば、東京都台東区の浅草にある川で、一人の少年が、貝のしじみを獲って、売り歩いてた。 所が、「問題のしじみを、買った客と家族等に、食中毒の患者が多数出て、中には亡くなった人も出た」事件が、発生した。 その月、担当の町奉行は北町奉行所で、直ちに、少年はお縄になった。 因みに、この少年は、め組の人達や、有島一郎さん(故人)扮する、加納五郎左衛門(爺)とは知合いで、しじみを持って行けば、必ず買って貰っていた。 「め組と爺が知合いである、しじみ売りの少年が、北町奉行所に、お縄になった」と言う、一報を聞いた、横内正さん扮する大岡忠相は、松平健さん扮する、主人公の徳川吉宗に報告して、受けた指示により、南町奉行として、現在の東京都中央区の小伝馬町にある牢屋へ、直接出向いて、少年から一応事情聴取した。 少年は、忠相からの質問に対して、「北町奉行所のお役人は、自分の訴えを聞いてくれない。 確かに、現場の川で、獲ったしじみもあるが、自分が見た限り、異常無かった」的な内容で、 回答した。 だが、北町奉行は、問題の少年に対して、「江戸所払い」と、言う判決を、出してしまった…」と言う、内容になります。 その判決が出てから、問題の事件を、吉宗や忠相達が、再捜査した所…。 「現場の川を、遡った場所にある、とある屋敷で、「侍や、銃を扱う数軒の商家の主人達等、ある悪の一味が、飾り職人等、悪用可能な技ある、職人十数人を、誘拐して監禁し、鉛を使って新式の銃の弾を、密造させてから、密売する」事件が、発生してた。 その事件で、「 悪の一味は、出来上がった弾から、余分な鉛を取るのに、誘拐した職人達に、水で洗い流させた時の廃水を、側にある問題の川に排出させる事で、鉛で汚染させたので、それを知らない少年が、鉛で汚染されたしじみを、獲って売り歩いてしまったので、完全に無罪」と、 判明した。 言う迄も無いが、この後はお決まりとして、問題の悪の一味達は、 乗り込んだ吉宗に成敗 されたり、忠相等南町奉行所の役人に、お縄になったので、少年は釈放された…」 結果に、終わってます。 問題の少年ですが、登場シーンを画面で見た限りは、「現在の学年で言えばなら、小学校3年生~5年生前後、年令でなら、9歳~11歳前後に、相当する子供」 と、思います。 因みに、江戸時代。 「子供が、犯人として、何かの事件を、犯してしまった場合。 江戸市中だと、当番の町奉行が、吟味として調べてから、一応判決は出す。 ただ、その子供の年令が、指定の年令以下なら、指定の年令に達した時点で、判決による刑罰を、執行する」的な内容による、法律を、徳川吉宗で無い、別の徳川将軍の時に、江戸幕府が制定してた様に、思います。 なので、「法律自体は、何らかの形で制定してたのは、間違い無いと思うので、町奉行から判決を受けるシーン自体は、実際にあった法律を元に、脚本化して、撮影してる」とも、思います。 そこで、質問したいのは… 「江戸時代、子供が犯人として、事件を起こした際に、適用される法律。 この内、「江戸市中なら、北町奉行か南町奉行が、一応判決は出すが、その子供の年令が、指定の年令以下であれば、その指定の年令に達した時点で、刑罰を適用する」的な部分。 その年令は、何歳であるか? 又、その年令を、「中学校1年生」等、学年で言えばなら、現在のどの学年に達した時点で、 刑罰を適用するのか?」に、なります。

  • 川向う、って差別用語?

    川向う、って言葉は差別用語でしょうか? 聞くところによると、 「昔は現代ほど河川に橋が架かっておらず、また有料の橋も多かったので、川によって人の往来が分断されていることは珍しくなかった。 故に川を越えると文化、風習、社会ルール(法律)が異なる事も珍しくなく、 自分から見て相手の風習や考え方が異なること、許せない事、などを  ”そんなことは川向うの理屈だ” といったのが始まり。  また、江戸時代の松の廊下事件(赤穂浪士討ち入りの原因)の後、吉良上野介が江戸城内から 隅田川を越えた本庄に屋敷替えをさせられた際、 幕府は ”川向うは江戸城内に非ず。よって討ち入りや戦が起きたとしても江戸城外の事なので、知らん振りをするつもりで屋敷替えを命じたのだ。もう一度、川向うは江戸城内に非ず” と考えているに違いない。 ということで、単純に都会者が田舎者を嘲る意味で、川の向こうに住んでいる(都心とか県庁所在地とか市街地から離れた方向)の居住者をバカにする意味である」 という事らしいですが。 ちなみにわが地域では自分の居住地から見て、単純に川の向こう側に住んでいる知り合い、同級生等を「あいつは川向うに住んでいる」と呼んでいますが、そこに特に差別的な意味はありません。 (がしかし、この言葉は市街地側に居る側しか使いません。市街地から離れた側の居住者が、市街地側の川の向こうの居住者を指してこの言葉を使うことはありませんので、やっぱり多少の”田舎者”的なニュアンスは含んでいるかも知れませんが。) 詳しい方、おねがいします。