• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:元禄時代の忠臣蔵の事件について)

元禄時代の忠臣蔵の事件についてわからないこと

百 楽天(@100rakuten)の回答

回答No.4

>1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。  歴史作家さんが書かれたとおりです。 >2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。  大筋、歴史作家さんが書かれたとおりですが、  「辻番には、前日に赤穂浪士の1人が「目こぼし(見て見ぬふりを)」してくれるよう頼んでいます」 ということは、どこから出たのでしょう。  前原伊助の借店(かりだな)には、それ以前から何人もの者(浪人)が出入りしていました。  それなのになぜ辻番はとがめないのか?  辻番は、公儀の若年寄支配です。  大名家の一手持辻番はその家が、旗本の組合辻番は複数の家で運営していました。  吉良屋敷の裏門ちかく、南西角にあった辻番は、吉良家と土屋家が共同で運営していたのです。  いずれにせよ、定期的に御徒目付が巡回して辻番の勤務状態をチェックしていたので、上層部の若年寄が見逃すはずはない。  堀部安兵衛は、「討入は必ず成功すると」書簡にも書いています。  そんなところから大石内蔵助は、不審に思って同志に尋ねたのでしょう。  歴史作家さんが書かれたことに関係しますが、かつて私の書いた町木戸に関する説明のなかに重大なミスがあり、そのページで訂正させていただきました。  その内容は、下記のとおりです。  【誤】  日暮時を午後6時としたとき、午後10時は八つ時になります。  【正】  町木戸の閉鎖時刻は、宝永五年(1708)十一月以降は夜四つ時(日暮時を午後6時としたとき、午後10時)になりましたが、元禄の頃は暁九つ(午前0時)でした。 >3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。  火事騒ぎがあっても、野次馬に走れば付火容疑で捕まえられ、拷問にかけられることもある。  吉良屋敷の四丁ほど東に、初代火付改の中山勘解由の屋敷がありました。  討入事件の10年ほど前に中山勘解由は火付改の職を辞していますが、それでも「鬼」と恐れられた人が近所にいたから、自身番などから通告がなければ外に出ようとする人は少なかったと思います。  それでも何事か見に来た人がいたので、吉良屋敷の表門前にあった牧野一学の家来などが追い払っていました。  遅れてきた堀部弥兵衛が門の横から梯子で塀を乗り越えようとしたとき、同道の佐藤條衛門が牧野の家来に推覈されようとしました。

関連するQ&A

  • 寺坂吉衛門の書簡

     寺坂吉衛門が書いた 「元禄十五壬午播州赤穂浪人衆江戸表働之事」 という記録書簡の全文をご存知の方がいたら教えてください。  「用意悉く出来候に付十二月十四日の夜七つ時分右之三ヶ所手々に松明得道具持候而上野助殿御屋敷へ取懸り申候」と記されています。  また、次のように記されたものもあるようです。  「玉火松明味方人数等手に手に是を持ち」  よく知られていることですが、元禄十六年二月三日付小野寺十内の妻たん宛て書状には、こうあります。  「七ツ過に打立て敵の方へ押寄候、其間の道十二三丁も有所にて候、きのふふりたる雪の上に暁の霜置氷りて足もとも能火のあかり世間をはゝかりて挑灯も松明もともさねとも有明の月さえて道まかふへくもなくて、敵の屋敷の辻迄押詰爰より東西へ廿三人ツヽ二手にわかれて取かけ屋根より乗込申候、親子一方ヘハ向ハぬ事にて我等ハ西へ懸り幸右衛門ハ東へむかひ候」  この書状では、  「挑灯(ちょうちん)、松明(たいまつ)を灯さなくても、有明の月が冴えて道を間違えることもなかった」  となっています。    寺坂は、  「それぞれ手には松明(たいまつ)を持って吉良屋敷に向かった」  と、書いています。  小野寺十内は、   「吉良の屋敷の辻まできて東西へ23人ずつ二手にわかれて」  とも書いていますが、堀部安兵衛名義で借りていた本所林町五丁目の紀伊国屋店など3つの集合場所で身支度を整えたのち、本所相生町二丁目の前原伊助の借店に集まって、吉良屋敷の東の表門隊と西の裏門隊の二手に分かれたはず。  で、寺坂は裏門隊メンバー、24人の一人だったのでは。  いくつもの史料をつきあわせてみると、寺坂は討入に参加はしたものの、討入ののちに抜けることは最初から決まっていた。  そんなシナリオが、見えてきます。  小野寺十内の書状にあった、  「・・・きのふふりたる雪の上に暁の霜置氷りて足もとも能火のあかり・・・有明の月さえて道まかふへくもなくて」  によって、十二月十三日には雪が降ったけれど、十四日は晴れ。月明かりがが煌々とするなか、吉良屋敷に向かった、ということになったようです。  ところが、細川家の記録によれば、天候は曇り。  十五日未明、道筋には残った雪の表面が凍ったところがある。それを1km以上も歩くとなると、照明が必要だと思われます。

  • また忠臣蔵関係の質問です

    1.「南部坂雪の別れ」は芝居だけだと聞きましたが、南部坂の屋敷には瑤泉院は住んでいなかったのでしょうか。 2.吉良上野介が呉服橋から本所に引っ越した引っ越し先は、前にどんな人が住んでいたのでしょうか。ある本では近藤登之助と書かれているし、別の本には松平登之助と書かれていました。  同一人物なのでしょうか。  もし近藤登之助と松平登之助が別人だとしたら、二つの説はどんなところからでたのでしょうか。 3.討ち入り事件のとき、本所吉良邸の隣の屋敷ではちょうちんを出したといわれていますが、どんな人の屋敷だったのでしょうか。

  • 吉良上野介屋敷を本所に移転させたのは。

    松の廊下刃傷事件後、幕府は吉良上野介の屋敷替えを命じていますが、これは討ち入りしやすいように幕府が配慮したものだ、という説があるそうです。 Wikiにも 「この本所移転は、幕府によって計画的に行われたという説が有力になってきた。理由のひとつは表門の移設である」 と、それらしき記述があります。 この説の根拠を教えてください。 また「理由のひとつは表門の移設である」の意味が分かりません。 こうすれば討ち入りしやすくなるのですか。 よろしくお願いします。 吉良上野介 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE

  • 「赤穂浪士討ち入り」を幕府が陰で手助け?

    忠臣蔵のシーズンです。 元禄14年8月19日、幕府は吉良義央に対して、呉服橋内から本所へ屋敷替えを命じています。 これは、討ち入りし易いようにしたのだ、という説がネット上ではいくつかありますが、ホントですか。 赤穂事件をよく知らない私には、説得力のある話もあります。 よろしくお願いします。

  • 平成の赤穂事件

    赤穂義士の討ち入りは有名です、この討ち入りに対し賛否両論があり評定に時間がかかりました。 正に平成の赤穂事件の評定がされていると思われますが、法律と民の感情のバランスをとることがそれこそ政治主導だと思うのですが、、、、、。 今回のビデオ流出事件(事件かどうかわかりませんが)は歴史に残ることになるのでしょうか? それとも、単なる1事件として記録されるだけなのでしょうか? 以下 赤穂事件の評定(ウィキベキアより) 赤穂浪士の討ち入り行為を義挙として江戸の武士には賞賛するものもいた。本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か切腹か助命かで対応に苦慮した。幕閣の中にも「夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし」と唱え、磔獄門を主張した者もいた(『柳沢家秘蔵実記』)。その一方で、大目付仙石伯耆守久尚、町奉行松前伊豆守嘉広、勘定奉行荻原近江守重秀などのようにこの主君仇討ち事件に大いに感激した幕閣もいて、その内部でも意見の違いがあった。

  • もしも赤穂事件の時代に今の文明の利器があったら・・

    Q もしも赤穂事件の時代に今の文明の利器があったら・・・ この季節になるといつも考えてしまうのですが、 もしも赤穂事件の時代に、今の文明の利器があったらなあ・・・ と思います。 時代劇では 「事件発生の第一報を伝える早籠が、江戸から赤穂まで走り抜けるのに、たったの四日だった」 などと驚異的な早さを強調するナレーションが入りますが、 今現代であれば、新幹線で約4時間程度、飛行機やヘリコプターを使えばもっと早いでしょう。 それよりなにより、電話、FAX、インターネット、メールという通信手段があれば、赤穂事件の速報は 1時間もしないうちに江戸城前で待機する江戸の御家来衆や江戸の浅野上屋敷へ、あるいは赤穂城の大石殿にも 伝わったでしょう。 そんなことを考えていると面白くもあり、悲しくもあります。 そこで皆さんにお尋ねします。 「もしも赤穂事件の時代に今の文明の利器があったら、吉良の浅野イジメや、刃傷事件、浪士の潜伏期間や、吉良邸討ち入りはどんな変化があったでしょうか?」 質問者の私からまず一言。 大高源五「もしもし、大石殿ですか? 今、田村右京太夫様の御屋敷の前ですが、先ほど、殿が切腹あそばされました」 大石内蔵助「ご苦労様です。なにか伝言はありませんでしたか?」 大高「辞世の句を詠まれたようですが、いかがいたしましょうか?」 大石「じゃ、メールで送ってください。」 大高「歴史的仮名遣いにしますか? それとも現代仮名遣いで?」 大石「どっちもお願いします」 大高「承知しました。ではメールで送ります。」 なんてね。

  • 忠臣蔵、この登場人物は?

    朝日放送と、松竹(京都映画、現在の松竹撮影所)が、共同制作した、テレビ朝日系列による、2時間ドラマ、「土曜ワイド劇場」による、シリーズドラマ、「京都殺人案内」。 このシリーズで、忠臣蔵を、元にした内容で、昭和62年(1987年)頃の12月、丁度討ち入りの日だった、土曜日に、本放送した、題名が「忠臣蔵殺人事件」と言う回が、あります。 この回で、比較的最初に… 「京都市山科区にある、大石神社で、浅野と言う男が、刺し殺された事件が、発生した。 所が、「現場近くにある、寿司屋の板前である、月亭可朝さん扮する、北島が、浅野との間で、麻雀の掛け金を巡って、トラブルになり、恨んでる」事が、京都府警の捜査一課の調べで、判明した。 その北島は、「浅野から、大石神社に、呼び出されて、指示された、日時に行ったら、死んでた。 自分は、北島と、トラブルがあるので、警察には、何れバレるだろうから、犯人と、思われるのは、かなわない。 一ツ、警察に対する、陽動作戦として、ヤるか?」と、思いついた。 そこで、逃走先の東京にある、泉岳寺(東京都港区)へ、板金業の赤垣源蔵と言う、男の人を、呼び出して、お酒を入れる、とっくり(陶器製)で…。 更に、吉良上野介の屋敷跡(東京都墨田区)へ、会社役員の堀部安兵衛と言う人を、呼び出して、木刀で、それぞれ、殴って、ケガを負わせた。 因みに、被害者の二人だが、忠臣蔵の四十七士、赤垣源蔵、堀部安兵衛と、読み方以外、ほぼ同姓同名だった。 言う迄も無いが、北島のトラブルの相手で、大石神社での殺人事件の被害者、浅野は、忠臣蔵では、殿様の浅野である。 しかし、北島は結局、京都に戻って、勤務先である、現場近くの寿司屋に、戻った所を、張り込んでた、捜査一課の刑事に、任意同行として、捕まった…」シーンが、ありました。 そこで、質問したいのは… 「番組で、同姓同名の被害者として、登場した、赤垣源蔵と、堀部安兵衛。 歴史上の人物として、堀部安兵衛は、「剣術が、得意な人物」と言うのは、度々良く聞く。 もう1人、赤垣源蔵だが、「酒飲みである」等、歴史上、どう言う人物か?」に、なります。

  • なぜ歴史愛好家はマジメな方が多いのでしょうか?

    なぜ歴史愛好家はマジメな方が多いのでしょうか? Q もしも赤穂事件の時代に今の文明の利器があったら・・ http://okwave.jp/qa/q8368088.html という質問をしました。 私としては、せいぜい 「刃傷事件がヤフーのトップニュースになる」 「同士たちは離れ離れになってもメールで連絡交換する」 「吉良邸の絵図面がWIKIリークスに流出する」 「大石内蔵助がツイッターで”本懐遂げたなう”とつぶやく」 「討ち入り後に泉岳寺へ向かう浪士たちの姿を見て、皆、携帯電話のカメラで撮影する」 程度のギャグを返してくれればよかったのですが、 返ってきた答えは 「技術だけ進歩しても同じ結果にはならない。  江戸時代にパソコンや携帯電話のような連絡端末は幕府から厳しく禁じられる。  情報漏えいが簡単になったら討幕運動につながるからだ。」 「吉良が浅野をいじめたわけではない。浅野としても供応役は初めてではなかった。  吉良にいちいち教えを乞う浅野こそが問題なのだ。  吉良が本所に転居させられたのも、幕府側が討ち入りをさせやすくしたのが理由だ。御存じないのか?」 などなど、 「お前は赤穂浪士事件をなんと心得ているのだ」 「忠臣蔵ファンなら知っていて当然の逸話、裏話すらも知らないなんて・・・」 といったようなくそまじめ、基、大変有意義なご回答をいただきました。 (もちろん、回答の中には、質問の意図を正しく理解し、 ”松の廊下にも監視カメラが付いていた” ”TVレポーターが江戸城前で大騒ぎ” といったようなこちらの洒落を分かってくれた回答もありましたが) どうして歴史ファンって、多少の冗談もわからないようなくそまじめで石頭で歴史の事を知り尽くしていて知らない人を罵倒するような、 もとい、とてもご立派で勉強好きな方が多いのでしょうか? くそまじめな方、もとい、歴史に真剣に向き合っている方、ご回答ください。

  • 江戸時代、子供が犯した、事件の刑罰

    「今回も、「歴史的に、実際にあった話を元に、架空の話を足した回から」だが、テレビ朝日系列による、時代劇「吉宗評判記暴れん坊将軍(暴れん坊将軍第1シリーズ)」から、 質問したい」と、思います。 大阪ですが、私は先日、自宅のテレビで、サンテレビ(兵庫県がメイン)による、「お昼の時代劇」として、再放送していて、見ていたら、又も「?」と思った回、主なストーリーは… 「現在で言えば、東京都台東区の浅草にある川で、一人の少年が、貝のしじみを獲って、売り歩いてた。 所が、「問題のしじみを、買った客と家族等に、食中毒の患者が多数出て、中には亡くなった人も出た」事件が、発生した。 その月、担当の町奉行は北町奉行所で、直ちに、少年はお縄になった。 因みに、この少年は、め組の人達や、有島一郎さん(故人)扮する、加納五郎左衛門(爺)とは知合いで、しじみを持って行けば、必ず買って貰っていた。 「め組と爺が知合いである、しじみ売りの少年が、北町奉行所に、お縄になった」と言う、一報を聞いた、横内正さん扮する大岡忠相は、松平健さん扮する、主人公の徳川吉宗に報告して、受けた指示により、南町奉行として、現在の東京都中央区の小伝馬町にある牢屋へ、直接出向いて、少年から一応事情聴取した。 少年は、忠相からの質問に対して、「北町奉行所のお役人は、自分の訴えを聞いてくれない。 確かに、現場の川で、獲ったしじみもあるが、自分が見た限り、異常無かった」的な内容で、 回答した。 だが、北町奉行は、問題の少年に対して、「江戸所払い」と、言う判決を、出してしまった…」と言う、内容になります。 その判決が出てから、問題の事件を、吉宗や忠相達が、再捜査した所…。 「現場の川を、遡った場所にある、とある屋敷で、「侍や、銃を扱う数軒の商家の主人達等、ある悪の一味が、飾り職人等、悪用可能な技ある、職人十数人を、誘拐して監禁し、鉛を使って新式の銃の弾を、密造させてから、密売する」事件が、発生してた。 その事件で、「 悪の一味は、出来上がった弾から、余分な鉛を取るのに、誘拐した職人達に、水で洗い流させた時の廃水を、側にある問題の川に排出させる事で、鉛で汚染させたので、それを知らない少年が、鉛で汚染されたしじみを、獲って売り歩いてしまったので、完全に無罪」と、 判明した。 言う迄も無いが、この後はお決まりとして、問題の悪の一味達は、 乗り込んだ吉宗に成敗 されたり、忠相等南町奉行所の役人に、お縄になったので、少年は釈放された…」 結果に、終わってます。 問題の少年ですが、登場シーンを画面で見た限りは、「現在の学年で言えばなら、小学校3年生~5年生前後、年令でなら、9歳~11歳前後に、相当する子供」 と、思います。 因みに、江戸時代。 「子供が、犯人として、何かの事件を、犯してしまった場合。 江戸市中だと、当番の町奉行が、吟味として調べてから、一応判決は出す。 ただ、その子供の年令が、指定の年令以下なら、指定の年令に達した時点で、判決による刑罰を、執行する」的な内容による、法律を、徳川吉宗で無い、別の徳川将軍の時に、江戸幕府が制定してた様に、思います。 なので、「法律自体は、何らかの形で制定してたのは、間違い無いと思うので、町奉行から判決を受けるシーン自体は、実際にあった法律を元に、脚本化して、撮影してる」とも、思います。 そこで、質問したいのは… 「江戸時代、子供が犯人として、事件を起こした際に、適用される法律。 この内、「江戸市中なら、北町奉行か南町奉行が、一応判決は出すが、その子供の年令が、指定の年令以下であれば、その指定の年令に達した時点で、刑罰を適用する」的な部分。 その年令は、何歳であるか? 又、その年令を、「中学校1年生」等、学年で言えばなら、現在のどの学年に達した時点で、 刑罰を適用するのか?」に、なります。

  • 川向う、って差別用語?

    川向う、って言葉は差別用語でしょうか? 聞くところによると、 「昔は現代ほど河川に橋が架かっておらず、また有料の橋も多かったので、川によって人の往来が分断されていることは珍しくなかった。 故に川を越えると文化、風習、社会ルール(法律)が異なる事も珍しくなく、 自分から見て相手の風習や考え方が異なること、許せない事、などを  ”そんなことは川向うの理屈だ” といったのが始まり。  また、江戸時代の松の廊下事件(赤穂浪士討ち入りの原因)の後、吉良上野介が江戸城内から 隅田川を越えた本庄に屋敷替えをさせられた際、 幕府は ”川向うは江戸城内に非ず。よって討ち入りや戦が起きたとしても江戸城外の事なので、知らん振りをするつもりで屋敷替えを命じたのだ。もう一度、川向うは江戸城内に非ず” と考えているに違いない。 ということで、単純に都会者が田舎者を嘲る意味で、川の向こうに住んでいる(都心とか県庁所在地とか市街地から離れた方向)の居住者をバカにする意味である」 という事らしいですが。 ちなみにわが地域では自分の居住地から見て、単純に川の向こう側に住んでいる知り合い、同級生等を「あいつは川向うに住んでいる」と呼んでいますが、そこに特に差別的な意味はありません。 (がしかし、この言葉は市街地側に居る側しか使いません。市街地から離れた側の居住者が、市街地側の川の向こうの居住者を指してこの言葉を使うことはありませんので、やっぱり多少の”田舎者”的なニュアンスは含んでいるかも知れませんが。) 詳しい方、おねがいします。