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公方様の呼び名

百 楽天(@100rakuten)の回答

回答No.2

 1・公方様は上様と呼びますが、でも、時々、ウマと呼ぶ人もいるんですか?  徳川宗家五代綱吉には、右馬頭叙任の官暦があります。生涯の位階官職は以下。  承応二年八月十二日(1653年10月3日)に元服し、このとき従四位下右近衛権中将兼右馬頭に叙任  同年八月十七日(10月8日)、正三位に昇叙  寛文元年十二月二十八日(1662年2月16日)、参議補任  延寶八年五月七日(1680年6月3日)、従二位権大納言  同年八月二十一日、(9月13日)正二位内大臣兼右近衛大将。征夷大将軍・源氏長者宣下  寶永二年三月五日(1705年3月29日)、右大臣  寶永六年一月十日(1709年2月19日)、薨去  同年一月二十三日(1709年3月4日)、贈正一位太政大臣  ということで、綱吉が若いときに目上の者から「ウマ」と呼ばれた可能性はあります。  あるいは将軍になってからそれを知ってる人が陰口をたたくとき、「ウマ」 と言ったかも知れません。  2・甲府、館林、駿河は親藩ですか?  江戸時代には 「親藩」 どころか 「藩」 という言葉さえ公文書にはありません。  元禄十五年(1702)成立の 『藩翰譜』 で新井白石が今の中国の地で使われていた 「藩」 を大名領土にあてはめて書いたのが始まりで、以来 「藩」 は、一部の儒者のなかで細々使われてきました。のちに 「徳川実記」 と総称される書のなかに 「藩」 は使われていますが、これは編著の中心人物が儒者であったためです。  江戸時代も終わり頃になって書簡や随筆などに 「藩」 は出てきますが、公的に使われたことはありません。  公式に 「藩」 が使われたのは、明治になってから。それも版籍奉還から廃藩置県までのわずかな期間だけで、のちに 史学上の用語として、「藩」 や 「親藩」 などという表現ができたのです。  「家門」 は家の一門の意で、徳川家の家門は、御家門といい、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家と越前松平家およびそれらの支流を指しました。吉宗の時代にできた新御三家(田安、一橋、清水)も、御家門のうちです。   3・参議が殿様になっていたのは甲府と館林だけですか?  江戸時代の武士の 「参議」 は官職名です。  官職には、無官・侍従・近衛少将・近衛中将・参議・中納言・大納言・内大臣・右大臣・近衛大将・左大臣・太政大臣の12種類がありました。  家の主人を 「殿様」 というのは、大名に限ったことではなく、旗本のほとんども 「殿様」 でした。

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質問者

お礼

そうですか、どうも。

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