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1・殿様は駕籠に乗っている時も普通の紋付だったんですか?。それとも道中

1・殿様は駕籠に乗っている時も普通の紋付だったんですか?。それとも道中羽織だったんですか?。 2・道中奉行は幕府にも各藩にもいたんですか?。 3・正一位は公方より上だったんですか?。 4・当時、正一位の関白か、宮家がいたんですか?。 5・公方や大名の刀の帯や鞘は白が多かったんですか?。 6・大岡越前や長谷川平蔵が犯人を捕まえに行く時、陣笠を被って道中羽織を着込んでムチを片手にアジトに乗り込みますが、公方様も有事の時にはああ言うスタイルをしていたんですか?。

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>1・殿様は駕籠に乗っている時も普通の紋付だったんですか?。それとも道中羽織だったんですか?。 道中羽織・・・つまり、丈がやや長めのものを着ていました。必ず「家紋」が入っていました。 これは、道中で、もしも襲われて死亡したような時、どこの誰かを知るための「目印」のようなものだったのです。 >>2・道中奉行は幕府にも各藩にもいたんですか?。 幕府の場合には、臨時の役職でした。徳川家茂が上洛した時なども臨時で道中奉行が決められました。 諸藩の場合は、毎年、江戸と領地を行き来していましたので、毎年必要性があり、固定した道中奉行でした。 >>3・正一位は公方より上だったんですか?。 正一位の方が上位にあたります。ちなみに、徳川15代を見てみると、生前一番の上位では、 家康・・・従一位(死亡してから追贈正一位) 秀忠・・・従一位(追贈正一位) 家光・・・従一位(追贈正一位) 家綱・・・正二位(追贈正一位) 綱吉・・・正二位(追贈正一位) 家宣・・・正二位(追贈正一位) 家継・・・正二位(追贈正一位) 吉宗・・・正二位(追贈正一位) 家重・・・正二位(追贈正一位) 家治・・・正二位(追贈正一位) 家斉・・・従一位(追贈正一位) 家慶・・・従一位(追贈正一位) 家定・・・従一位(追贈正一位) 家茂・・・従一位(追贈正一位) 慶喜・・・正二位(明治政府になってから従一位) 生前贈与での正一位は江戸時代に一番近くでは、源方子(みなもとのまさこ、藤原長実の妻、近衛天皇の外祖母)久安2年(1146)10月4日で、江戸時代には一人もおらず、明治政府になってから、三条実美(太政大臣、公爵)明治24年(1891)2月18日がいます。 >>4・当時、正一位の関白か、宮家がいたんですか?。 関白は正一位よりも上位の位です。 大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の5家がある。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。 一条昭良(あきよし)寛永6年(1629)に関白となり、その後、摂政となる。寛永12年(1635)退任。 鷹司政熙(まさひろ)寛政7年(1795)に関白就任。文化11年(1814)関白辞任。 鷹司政通(まさみち)文政6年(1823)に関白就任。天保13年(1842)太政大臣就任。安政3年(1856)辞任。 などの方々がいます。 >>5・公方や大名の刀の帯や鞘は白が多かったんですか?。 必ずしも「白」とは限りませんでした。「黒」もあれば「茶」もありました。 「暴れん坊将軍」などのことだと思いますが、大名からの進物の刀もあり、名刀と呼ばれる刀は、おおむね「黒」を使用していました。 >>6・大岡越前や長谷川平蔵が犯人を捕まえに行く時、陣笠を被って道中羽織を着込んでムチを片手にアジトに乗り込みますが、公方様も有事の時にはああ言うスタイルをしていたんですか?。 公方さまも、いざ戦いとなれば道中羽織ではなく、陣羽織を着て、陣笠を被り鞭を手にして戦いの指揮をとりました。 15代将軍の慶喜も、「鳥羽伏見の戦い」では、そのようないでたちでした。

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質問者

お礼

どうも有り難うございました。

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