• 締切済み

中国の九川というのはどこにあるのでしょうか?

中国の禹帝の治水について調べておりましたところ、「史記索隠」に「九川」とは、弱水、黒水、黄河、瀁水(ようすい)、長江、沇水(えんすい)、淮水(わいすい)、渭水(いすい)、洛水(らくすい)を指すと出ていました。黄河/長江/渭水については、地図上で位置を確認できますが、その他の六つの川の位置を確認したく、これらの川の位置を示す地図を捜しております。古代中国であって、現在の中国地図にはないと思いますが、これらの川の位置を示した、書籍あるいは、古地図などの参考文献でも結構なのですが、教えて頂ければ幸甚です。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数2

みんなの回答

  • yanhua
  • ベストアンサー率72% (508/701)
回答No.3

#2/2-つづきです。 (訳注: 括地志は唐代編纂の大型地理書。 汉魏曰,山丹,隋の頃に删丹と改名、今の甘肃山丹县。  吐谷浑は今の青海省海南藏族自治州共和县石乃亥乡   铁卡加村西南伏俟城、昔の重要交通路。   http://baike.baidu.com/image/d68b65cbf220c424be09e687 临松县临松山は今の甘粛省张掖市民乐县临松 延海は、恐らく今の居延海(古代には居延泽、西海。唐以後居延海)内蒙古额济纳旗の北境。千五百里=唐の1里は約450m→675km?GoogleMapで車ルート計測で张掖~居延海655kmです!ルートに沿って川がありますが、何と川の名が黒河) 合黎山は同様にして見ても50km未満?张掖县の基点次第? ■馀波入于流沙。 訳⇒砂漠に勢いよく流入する。 【集解】: ・孔安国曰、弱水は勢いよく溢れ砂漠に入る。 ・郑玄曰:地理誌によれば砂漠は居延の北にあり名は居延泽。地記によると、弱水は西に流れ合黎山腹に入り、勢いよく溢れ流れて砂漠に入り,南海に通ずという。马融や王肃達が云うには、合黎も流沙も地名だと。 【索隐】:地理誌では、张掖の居延県の西北に居延泽があって、古文では砂漠としている。砂漠は玉門関の外、居延泽や居延城辺りにある。また山海经云、砂漠は鐘山を出て西南へ崑崙墟から海に入る。もとから水(流)を兼ね備えており、地名とも水流の名とも、学者も一致していないがそれぞれに理由がある。 (訳注: *流沙=砂漠 と訳しそれでつじつまが合っていますが...、最後の部分は、流沙=流砂、伏流水に伴う砂流の気配があります。 地記=風土記の類。 南海は不明。古代中国では海も知ってはいたが、湖も海と称したし、現在の地理概念と異なる。 昆仑墟=昆仑墟伝説の世界。都の西北、高さは五万里、地中に万一千里。河水はその東北に出る。その東南から折れて流れ渤海に至る。さらに海を出て南へ.....。 马郑=马融 と 郑玄、併称されたほどの東漢代の有名な学者。) 2.『黑』 ■道黑水,至于三危,入于南海。 訳⇒黑水は三危を経て南海に入る。 【集解】: ・郑玄曰:“地理誌によると益州の滇池に黑水祠があるが、此の山水の所在は記されていない。地記によると、三危山は鸟鼠の西南にある。 ・孔安国曰:黑水は北から南へ三危を経て梁州、そして南海に入る。 【正义】: ・括地誌云、黑水の源は伊州伊吾県の北百二十里に出て、南へ二千里流れて終わる。三危山は沙州燉煌県の東南四十里にある。南海即ち揚州の東の大海,岷江が下って到達する揚州の東で海に入る。その黑水の源は伊州にあり、伊州から東南に三千余里で鄯州に至る。鄯州の東南四百余里で河州に至り黄河に入る。~ 略 ~。と言っているが、黄河は崑崙山の東北隅から于阗,盐泽、吐谷浑界を経て東北に行くので方向違いだ。その黑水は香がと合流するのにどうやって南海へ行けるのか?南海ははるかに遠く、南山、陇山、岷山などが遮っている。~ 略 ~。 (訳注: 三危山 =甘肃省敦煌の東南、俗称升雨山、祁连山脉。三峰聳えるが今にも危うく崩れそう故の名。 禹贡=《尚書》に収録の中国最古の地理文献。 浮於积石,至於龙门=禹が山を穿って水を通し河道を正したことを謂う。 岷江=四川省成都の周辺を経て重慶から長江へ入る。つまり、括地誌は黄河と長江、渤海と東支那海の区別がない、南海と言えば大海と同義だったのでしょう。)   ====================== 以上が『弱水』と『黑水』。以下『黄河』『瀁水』他が続きますが、ここらあたりでいかがでしょうか。黄、江、淮、渭、洛などはおおむね問題ありませんが、上記の要領で解釈し検証すれば、史記の頃ましてや禹の時代に何を以って各河川を認識していたかが、いくらか分かります。ご自分で挑戦なさいませんか。 このようなことを日本語で論じた文献もあるでしょうから、学術論文を探してみるのも一法です。 *学者により差があるので、見解が一致しないものは地図にもなりにくいのでしょう。九 川を特定したものは見つかりません。 おまけ: 中国では川・河・江・水・原....と、古来の使い分けがあります。現在では一般の中国人は認識がありません、現実の名称としての知識にすぎません。ついでの知識になりますのでご参考に(過去の回答です)。 http://okwave.jp/qa/q5846984.html のANo.3です。 *追加質問要望などあれば補足でどうぞ。早目の回答に努めますが、遅れたらご容赦。

  • yanhua
  • ベストアンサー率72% (508/701)
回答No.2

#1/2-長文のため2通に分割です。 史記の《夏本紀》 に禹の業績と共に九川に触れていますが、 禹の時代は史実ぎりぎり、3000~4000年前 史記執筆は漢、ほぼ2100年前 史記索隠は唐、ほぼ1300年前 現在は、21世紀 依って、場所によっては地形も変わっている、地名も変化している、当時の常識に立って書かれている、等々。中国は記録が多いとはいえ、禹の時代の事実は現代において必ずしも一意に特定できません。 随って、史記の内容についても歴史的に多くの注解や解説書が出ています。 ☆簡単にみられるWeb文献は中国語ばかりですが要領を。 WinXP以上ならば中文表示はOKです。 各サイトの検索 or 頁内検索 で目的物へ。 漢字のコピペで検索OKですが、 字体が異なる場合は、繁・簡・日 の字体相互変換をしてから。 この回答文中、地名等は簡体字(たまに混同あり)です。 ■繁・簡・日 変換サイト http://bjkoro.net/chinese/letter/converter/ ■随時地図参照をお勧めします。    GoogleMap http://maps.google.co.jp/maps?ct=reset     百度地図  http://map.baidu.com/   何れも地名の簡体字コピペでOK。   Googleが精細、中国地名は百度がよいのもある。   河川の表示は倍率によりますが何れも一長一短。   GoogleEarthもよいのですが、砂漠方面はモザイクが多い。 ☆諸子百家 史記卷二•夏本紀第二•••中国語白文はここにあります[繁体字] http://ctext.org/shiji/xia-ben-ji/zh 以下引用 16 夏本紀: 道九川:弱水至於合黎,餘波入于流沙。道黑水,至于三危,入于南海。~以下略。 九川で始まっていますが、九ヶ全てはここに出ていません。 おまけに、登場する川も現在どころか禹の時代のどこの川かが安易に特定できないのです、学者による見解はありますが。 各川について以下の文献が多くの解釈書を参照しているのでご参考です。 ☆國學寶庫 卷二夏本纪第二•••中国語[簡体字] (中国語できますか?念のために要点のみ訳します) http://www.confucianism.com.cn/detail.asp?id=30976 注意:このWeb頁は、 黒字=原文。上記史記夏本紀を原文から転記。 赤字=注解書の引用。  尚、以下説明で、 訳⇒ は小生の訳文。  曰・云・说 の区別、   曰=いわく=と言っている、解釈/評価とも定着。権威あり。   云=いう =解釈/評価とも未熟。認知されている。   说=いう =そういうのもある。 さて本題です!中段辺りに、 「道九川:【索隐】:弱、黑、河、瀁、江、沇、淮、渭、洛为九川。」 道=川筋の意味。【索隐】=『史记索隐』からの引用を示す。 訳⇒「道九川:『史记索隐』によれば、九川は、弱、黑・・・、洛。」 1.『弱』 ■弱水至於合黎, 訳⇒弱水は合黎にある, (訳注:合黎に対する注解が以下につづく) 【集解】: ・郑玄曰、地理誌によると弱水は张掖に出る。 ・孔安国曰、合黎は流れの名で砂漠の東。 【索隐】: ・水经(古代地理書)云、合黎山は酒泉会水县の東北 (訳注:酒泉は甘粛省、会水县は不明)。 ・郑玄说、それもそうだ。 ・孔安国云、それは水流の名だ、当時その山に水流があったが、古い記録は異なる。 【正义】: ・括地志云、兰门山は合黎また穷石山と言い、甘州删丹县西南七十里。 (訳注: 括地志は唐代編纂の大型地理書。 汉魏曰,山丹,隋に删丹と改名、今の甘肃山丹县) ・淮南子云、弱水の源流は穷石山にある。更に云、合黎は羌谷水また鲜水、または覆表水とも。今の副投河,亦の名は张掖河,南は吐谷浑の境で甘州张掖县に入る。今に置き換えると、合黎川が临松县临松山の東で北流し、张掖の故城下に入る。更に张掖县二十三里を北流し合黎山を経て、折れなお北流。砂漠の西を流れて延海に入る。距離は千五百里。合黎山は张掖县の西北二百里也。・・・つづく

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

淮水 淮河のこと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E6%B2%B3 洛水 洛陽に流れて黄河に合流 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E6%B2%B3

1212cebola
質問者

お礼

tanuki4u様 早速に関連情報を頂き深謝申しあげます。 川の流れも、自然、人工を問わず千変万化、一カ所にとどまることはないのでしょうか、 「治水」は「治泥」ということなのでしょうか、古今東西、水のcontrolの難しさを感じました。頂戴した資料から、いろいろと勉強させて頂きました。 再度、御礼を申し上げます。 P/S 中国の地名、人名を英語読みに置き換えられると、漢字名との関連がわかりづらく難儀しますね。

関連するQ&A

  • 中国で「***川」と名のつく河川は?

    中国で「***川」と名のつく河川は? 世界地図で見る中国の河川は「河」、「江」、「水」ばかりで「川」が見当たりません(黄河、揚子江、渭水)。 「川」もないことはありませんが、タリム川(新疆ウイグル自治区)、イリ川(新疆ウイグル自治区)、ヤロン川(チベット自治州)のように、元々は中国の領土という意識があったのか無かったのかよくわからない地域を流れる河川です。 私の想像では「川」は「河」や「江」より規模が小さくて世界地図には載らないものの北京や上海界隈にも、「***川」が存在するのだと思います。 さて質問です。 ・中国では「川」は「河」や「江」より規模が小さいと考えてよいですか。 ・北京や上海界隈に、「川」の字で呼ばれる河川が存在しますか。存在すれば名称を挙げて下さいませ。 よろしくお願いします。

  • 中国史の「江賊」について

    古代(?)中国に存在した「江賊」について質問です。 「江賊」という肩書き(?)で中国史に登場する人物というと 呉の将・甘寧くらいしか知らないのですが (実際の身分としては官吏だったということですが・・・)、 彼の他に江賊と呼ばれた歴史上の人物は存在するのでしょうか。 また、恐らくは長江流域を拠点として活動していたと思われる 江賊の活動等について、研究・考察を行っている サイトや書籍・文献等をご存じの方はいらっしゃらないでしょうか。 もちろん、知識をお持ちの方からご回答いただけないかとも思っております。 よろしくお願いいたします。

  • なぞなぞ+中国語

    こんばんわ。大学の宿題でなぞなぞの中国語が課題として出されたのですが、なぞなぞがわかりません。もしよろしければ答えを教えてください。 1高 山 不 見 一 寸 土 2平 地 不 見 半 田(mu 1声)田 3江 河 湖 海 没 有 水 4世 界 各 国 在 眼 前   僕の調べた中では 1高山一寸の土地みえない 2平原地帯2分の1単位の田んぼみえない 3黄河と長江湖と海の水がまだない 4世界各国が目の前の場所にある 4番だけは世界地図ではないかと思うのですが他がわかりませんよろしくお願いします。

  • 古代文明間の相互交渉について

    文明のゆりかごと呼ばれるメソポタミアから始まる古代文明群。これらは伝播や相互交渉などで互いに影響を与え合ったのでしょうか。 時系列で見れば、およそ2000年ほどの間に次々とインダスから東西に広がったように発生しています。そしてメソポタミアとインダスとは、装飾品の分布から明らかに交易をしていたことが分かっています。しかも東のガンジス川ではなく、西側インダス川であることも示唆的です。では、その東の中国文明は? 西のエジプトは? さらに西のギリシャ・ローマは? 途中途中にある小文明などの時系列的位置づけや、出土品、文字などから、「伝播して」文明が発生したと言えるかどうか、お教え下さい。

  • 和歌山で川原沿いにある温泉を探しています

    昨年行った所なのですが、もう一度行きたいと思い探しています。 行き当たりばったりで辿り着いた場所だったので名前がどうしても思い出せません。 大阪方面から十津川を経由して南へ向かって行ったので、地図で確認すると龍神温泉か川湯温泉あたりかもしれません。 途中に何軒も公衆温泉がありました。 私が行った温泉は旅館経営のものですが旅館とは少し離れた場所(徒歩5分~10分ほど)で川沿いの露天温泉でした。 道を挟んで坂の上に旅館がありそこで料金を払い、川の方へ坂を下ると露天がありました。 男性用は本当に川沿いで露天なのですが、女性用は一段上に屋根付のしっかりした小屋のような建物で、男性浴場を見下ろせるような位置にありました。 何か見覚えのあるようなヒントでもいいのでご存知の方がいればぜひ教えてください。

  • 漢字の書き順 (筆順) の不思議

    先日、親戚の子供にある漢字の書き順を説明したところ、今では 「×」 との事で驚きました。 確認のため家内に聞いたところ、私と同じ書き順で書いていました。 聞けば何年か一回の割合で文科省から委託を受けた学者たちが集まり、書き順をどうするか相談し 「今回はこんな風に変えようか」 というノリで決められるとの事。 従って、世代毎に学校で教えられる 「正しい書き順」 が変ってしまうのだと ・・・ そこで、ムムムと疑問を感じました。 1.かりに美しく書けるのが目的としても、そもそも漢字発祥の国である中国に 「正しい書き順」 を示す古代の文献や資料があるのか?  あるいは韓国では?  (正しい書き順の学術的根拠?) 2.中国の小学校では、日本と同じように書き順を教えられ、またその度にテストが行なわれ、一ヶ所でも間違うと 「×」 となるのか? 3.中国でも何年に一回の割合で、学者のアソビと思われるような 「書き順の変更」 が行なわれるのか? 4.何の学術的根拠のない (?) 「正しい書き順」 を、算数や理科の定理のように普遍の真理と同じ扱いにして、テストで採点する事に意味があるのか? 5.書き順を変えるという事は、その前の審査で 「この書き順で正しい」 とした国語学者の判断を 「間違い」 と断ずるわけですよね?  となれば、先に正しいとした学者との間で激しい論争になるはずと思うのですが、実際そんなケースはある? どなたか詳しく教えて頂けないでしょうか?

  • 私たち日本人は、積極的に“支那”という言葉の復権をおこなうべきではあり

    私たち日本人は、積極的に“支那”という言葉の復権をおこなうべきではありませんか? http://osaka.cool.ne.jp/jiangbo/china/edu/edu004.htm 支那で検索すると、この上記のページがよくヒットするようです。 彼ら支那人の“政治的意図”は明白というべきでしょう。 支那、とは、かの黄河文明、長江文明を発祥させた大陸に盤踞する民族の“総称”なわけです。 英語で“china”も同義ですね。 支那人が、私たち日本人に対して“中国人”という呼称の強要をなぜするのか? 理由はかんたんです。 中国=中華人民共和国であって、この国家は、支那の数千年の歴史上、わずか1世紀に満たない“王朝のひとつ”に過ぎません。 けれど支那人はあくまでもいまの政体を唯一正統な国家である、という政治的メッセージを日本に対して叩き込みたいと、そう思っているのではないでしょうか? 今日、日本のことを諸外国の人々は、その国の言葉で呼称しますね? 私たち日本人は、イギリスのことを“グレートブリテン及び北アイルランド連合王国”とは普通呼びません。イギリス、と呼びます。 イギリスの方々のなかに、「俺たちのことをイギリスなんて呼ぶな」と声高に叫ぶような人間が果たしているのでしょうか? 成熟した国家の民族は、成熟した思考を持ち合わせるものではないかと思います。 ところが、上記、リンクの支那人の主張は、まさにこれにあたります。「俺たちのことを中国と呼べ」と。 なぜ私たち日本人が、日本国が、支那人のこのような“政治的エゴ”“自己顕示欲”を満たしてあげるために付き合わされねばならないのでしょうか? “チャンコロ”は明白な差別用語です。使用してはなりません。 “支那”まで、差別用語だ、と執拗に叫び、彼ら支那人におもねる必要を私は一切感じません。 それでも私の周囲では、三国志などを通じて、中国大好き人間、な友人がおります。彼にいわせると、支那は、断じて許せない差別語だそうです。 ですか、支那を差別語として排除すると、この大陸の総称としてふさわしい呼称が日本語から消えてしまいます。 周、殷などの時代から、中華民国と中華人民共和国とに分裂している現状まで、この大陸は易姓革命の連続でした。彼らに対する総称を日本語のなかに位置づけて、支那という言葉を積極的に普及させるべきではないでしょうか? 私の主張に対して、ご賛同、もしくは事実誤認の指摘や異論、反論を是非お寄せください。

  • おかしな電話がきました、怖いです。

    数ヶ月前に私の母(50)が体験した出来事です。 母のみが自宅にいたとき、家に一件の電話がかかってきたそうです。 電話に出てみると相手は中年ぐらいの男性の声で、全く知らない方でした。 お互い全く知らない人間なのにも関わらず、男性はまるで友人にでも電話しているような気さくな話し声だったのが印象的だったそうです。 驚いたのは、その男性が「今中国からかけてるんですけども」と言ったことです。 母が「中国地方ですか?」と聞いたところ「いえ、国のほうです」と答えたらしく。 でも実際どこからかけているのか確かめるすべがないのでハッキリしませんでした。 (口調的に日本人だったそうです) そして電話の用件を聞いたところ、「あなたの自宅の裏に住んでるA川さんという方を知っていますか?」と尋ねられました。 母が「知らないです」と答えると、 「実はそのA川さんの親戚にB野さんという方がいるんですが、そのB野さんがうちからお金借りたまま逃げちゃって。それでB野さんのこと調べて親戚のA川さんにたどり着いたんです。でも、A川さんに連絡しても応答なくて。だから同じ町内に住むあなたに、A川さんの自宅のインターホンを鳴らしてきてほしいんですよ」 と、信じがたいことをお願いされたそうです。 しかもその男性は続けて 「僕の部下が、A川さんの自宅が見える位置に車停めて見張ってるんで、今押して来てもらえますか? インターホン鳴らして、A川さんが出てくればそれでいいので」 と言いました。 母はさすがにおかしいなと思い、そもそもそのA川さんがどうのって話が全くの嘘で新手の詐欺なのではと思ったみたいで。 その男性がA川さんの電話番号を一応教えてくれたので、その電話番号を電話帳で調べてみたそうです。 そしたらなんと、A川さんという人物は存在したんです。 しかもちゃんと住所は我が家の裏に当たる部分。 気持ちが悪くなった母は何とか断ろうとしたのですが、その相手が異様にしつこく……。 面倒になったので、テキトーに承諾だけしてうやむやにすることにしたそうです。 (※ここから少し記憶が曖昧な部分) その男性との電話を終え一息ついた母は、ふと、教えてもらったA川さんの電話番号が気になったみたいで。 本当にA川さんは連絡がつかないのだろうかと、試しに一度その番号に電話をかけてみました。 すると、明らかに日本語ではない言語でぺらぺらと喋る音声が聞こえ、気味が悪くなりすぐに電話を切りました。 数分後、例の中年男性の番号から確認のためなのかまた電話がきたそうですが、二度目はさすがに無視をきめました。 (細かい記憶は曖昧ですが、電話口から外国語が聞こえてきたというのは事実です) これが、数ヶ月前に母が体験したおかしな電話の話です。 これって、やはり新手の詐欺か何かだったのでしょうか…… もし本当に借金取りだったとしたら、こんな無関係な人物に変なお願いをしたりするんでしょうか?(うちの番号を知っていたのも謎です) ちなみにその男性は、同じ町内の別のお宅にもうちにかけた内容と同じ内容の電話をしたそうです(本人談)。 もしもあの時に母がバカ正直にインターホンを鳴らしに行っていたら、何らかの命の危機にあってたのでしょうか……。 ないとは思いますが、似たような話や体験、噂や事件など聞いたことのある方がいらっしゃいましたら教えていただきたいです! 個人的な見解でも構いません。 ちなみにその後はその男性から電話がかかってくることもなく、普通に過ごしてます。

  • 竹島(独島)の認知に関する素朴な疑問

    竹島問題について、外務省は『竹島問題を理解する10のポイント』というpdfファイルを撒いています。 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/pdfs/pmp_10issues.pdf 非常によくまとめられていますし、これが日本国の公式見解と言えるでしょう。しかし素人として、素朴な疑問をもったので、質問させていただく事にしました。質問したいのは、 竹島(独島)を両国が最初に認識した時期についてです。 まとめると次のようになります。 (A)日本の場合 松島という名で古くから認識していた。十七世紀半ばには、領有を確立した。 (B)韓国の場合 六世紀に新羅が于山国を征服した際に、帰属させた(後年の『三国史記』などの記述)。だが日本の外務省によると、韓国の提示する文献には信憑性がないという。韓国側の提示する十六世紀の地図に描かれた島は「全く実在しない島」を描いており、この意味では領有どころか、島を認識さえしていなかったという。 私が不思議に思ったのは、Bの反論です。文献の信憑性という専門的な問題は、私の手に余ります。「そういうものですか」と認めておこうと思います。しかし「全く実在しない島」というに及んでは、素人として、極めて不思議な事があるのです。 というのも韓国の方が、圧倒的に 島へアクセスする条件が良いからです。 まず島の位置は両国のほぼ中央にあります。したがって、立地的には、両国の有利・不利は言えません。しかし 六世紀の海洋技術は韓国の方が上であったと考えられます(日本は古墳時代です)。さらに于山国という島に近い拠点を、新羅は吸収していました。こうとなれば、新羅の方が圧倒的に有利であると思えます。 そこで資料の記述がかなり不正確であったとしても、状況を見れば、島を最初に発見したのは新羅か于山国であり、最初の発見者は韓国に冠せられるのではないか?とも思えます(※発見=領有かどうかは別問題として)。 しかし皮肉にも韓国側が明らかにしてくれましたが、島へは、四十歳前後の韓流タレントが、リレー方式で泳いでも到達出来るそうです。となると、別に技術力が無くても、体力があれば行く事は出来るのか?とも思えます。つまり仮に日本側に技術が皆無でも、島に行けた可能性が逆にある訳です。さて、質問です。 【島を最初に見つける可能性が高かったのは、どちらの国なのでしょうか? 】 ※1 これは知的好奇心からの質問なので、特にどちらの領有とも決めてかかろうという気はありませんし、質問欄を閉じる際にも安易に結論を下そうとは思いません。あくまで可能性を考えるだけです。実際、「見つけた=領有」とも言い難い事も事実であり、これは国際法に照らして考えるべきなのでしょう。 ※2 これは可能性の問題を問うというものであって、第一次資料の検討ではありません。おそらく資料は、専門家以外にもっていないでしょうし、資料の信憑性と言い出せば、精密に六世紀のそれを検討できる人はそうそういないと思います。あくまで推論を働かせて、考えてみたいという訳です。それで哲学のカテゴリーに投稿させていただきました。

  • 中国人と中国のよくないところ教えていただけませんか

     日本語を勉強中の中国人です。中国人と中国のよくないところを教えていただけないでしょうか。怒りませんので、ご遠慮なくご意見くださるようにお願いいたします。  また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いい申し上げます。