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ゲルマン民族へのキリスト教の伝播について

ヨーロッパ史の本で、『ゲルマン民族の多くはアリウス派を信仰し、 アタナシウス派を信仰していた被支配側のローマ帝国の人々と 軋轢が生じた』という記載がありました。 私はゲルマン民族は、ローマ帝国とは深い森を隔てた北方の地に 住んでいたため、キリスト教と接する機会は無かった、と勝手に イメージしていました。 彼らがアリウス派キリスト教を信仰し始めたのはいつ頃なのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • DieMeute
  • ベストアンサー率70% (571/807)
回答No.1

だいたい300年代半ばから400年頃だと言われています。 ゲルマン民族には多数の部族があり、その中には北方から黒海周辺に移り住んだ部族もいます。 そのためローマ帝国は大西洋から黒海まで広い範囲でゲルマン民族と国境を接していました。 なおローマ帝国はゲルマン民族の部族を帝国領内に住まわせ傭兵として利用する事もしています。 そうした数あるゲルマン民族の中に西ゴート族がいて、ローマ帝国のモエシア州(現在のセルビア周辺)で、ローマ帝国と衝突していました。そのモエシア州にウルフィラス司教という人がいて、西ゴート族への布教を行ったのですが、この人がアリウス派でした。 このウルフィラス司教は340年頃にゴート語訳の聖書を作り西ゴート族に布教しましたが、その聖書は東ゴート族にも伝わっているそうです。 また、400年頃にヴァンダル族もアリウス派を信仰したと言われていますが、その頃ヴァンダル族がいたのはモエシア州の隣のダキア(現在のルーマニアあたり)でした。 ランゴバルド族もアリウス派で、いつ頃から信仰したのかは分かりませんが、ランゴバルド族もモエシア州の隣のパンノニア(現在のオーストリアからハンガリー付近)にいた事があります。 ヴァンダル族とランゴバルド族も、モエシアから広まったアリウス派の布教・改宗に影響を受けたのかもしれません。 後にゲルマン民族はフン族の進出に押される形で、ゲルマン民族の大移動を始めますが、ゴート族は西ゴート王国と東ゴート王国を築き、ヴァンダル族もヴァンダル王国を、ランゴバルド族はランゴバルド王国という、それぞれアリウス派を信仰する王国を築くという歴史を残しています。 ちなみに現在のフランスの地にゲルマン民族のフランク族がフランク王国を築きますが、フランク族は多神教を信仰していて、そこから正統なキリスト教のアタナシウス派に改宗したそうです。 ですからアリウス派を信仰したゲルマン民族はローマ帝国から遠い隔たった北の地にいたというわけではないようです。

kojiramone
質問者

お礼

大変よくわかりました。 遅くなりましたが有難うございました。

その他の回答 (1)

  • zep19
  • ベストアンサー率45% (138/306)
回答No.2

ゲルマン人で最も古くアリウス派に帰依し記録が残っているのはゴート人です 詳しくはテルヴィンギ(ダキアに住むゴート人)ですが ※黒海北岸に住むゴート人はグルトゥンギ なぜ記録に残っているかというと布教したのがゴート人でアリウス派司教になったウルフィラだからです 彼は3C初めに生まれましたが、2C中頃にカッパドキアから拉致されきたアリウス派信者の解放奴隷とゴート人の高貴な家系との子孫で 20代でゴート人の使節の一人に選ばれ20年近くコンスタンティノープルに滞在し 341年アンティオキア会議でゲタイ(ゴート)人の司教に叙階しダキアのゴート人の地へ布教のため帰国しました ウルフィラはゴート人に布教するのにまず聖書をゴート語に訳すためにゴート文字を創作しました 今現在我々がゴート人民族そのものが滅びてもゴート語を目に出来るのは 彼やゴート人歴史家のヨルダネスの文献が断片的にも残っているためです (ゴート語事典は和訳本でもあります) 当時のテルヴィンギには王がおらず アタナリック、アラヴィヴュス、フリティゲルンの軍事指揮官が統率していましたが 年長のアタナリックが排他的な一神教を嫌い、369年ウルフィラとゴート人信者を弾圧し、ドナウ対岸のモエシアへ追放します しかし数年後、フン族の侵入で混乱しダキアで徹底交戦を唱えるアタナリックと 飢餓状態に陥った民族を救うべく現実的にローマの庇護を求めようとした他の二人は袂を分かちドナウを渡りました ローマ側はゴート人の足元を見てフリティゲルンらにアリウス派に帰依を強要するだけでなく 犬の腐肉を高価に売り付けたり ゴート人の子供たちを腐敗したローマ人高官の好色の道具にするため拉致したり屈辱的な押し付けも行い 最後には和議と称し二人を呼び出し殺そうしますが、激怒したフリティゲルンが逃げ少ないながらも士気の高いゴート人をまとめ上げ マルキアノポリス、アドリアノープルでローマ人を敗りました これ程屈辱的な扱いを受けながらもゴート人はアリウス派信仰を捨てませんでした ゴート人が支配者としてローマ人の地を納めるとき アリウス派信者であることがゴート人たることの存在意義になったからです ゴート人は軍事的な事を支配しましたが、貢納金さえ払えばローマ人は土地支配や官吏になることも許しましたし ローマ人の正教信仰も妨害しませんでした 長文失礼致しました

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