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キリスト教と大衆の人間性

現在にいたるまで多くの宗教が現れました。しかしたとえばキリスト教を例にとると、中世ヨーロッパではほとんどの人がキリスト教徒ですが、十字軍、魔女狩り、奴隷貿易といった自分と信仰を異なるものに対する非寛容さ、農奴と領主といった貧富の格差、教会と聖職者の堕落といった諸問題は解決されることはありませんでした。現代でもナチスドイツの蛮行を考えると、私にはキリスト教はヨーロッパに信仰が広まって千年以上たっても、大衆の人間性を引き上げるという宗教の目的には失敗したと思います。どうしてキリスト教はこうした大衆の人間性を引き上げるのに失敗したのですか。

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noname#49694
noname#49694
回答No.8

丁寧な回答どうもありがとうございます。とても楽しい対話です。 「神が神たることを表現しようと思えば、間接的にそれを表現することを可能にする存在が必要となります。そのためには敵でさえ必要になるのです。」 ということは、あなたの考えでは神は神の敵の悪魔なしでは自身の性質を表現できない、ということなのでしょうか。それは神の完全性に反していませんか。  これはわたしの考えというよりはある神学者の解釈ですよ。悪魔だけでなく、人などの被造物すべても含まれます。神の創造物は神それ自体を表現しているともいえるでしょう。  もうちょっと分かりやすく例証しましょう。よくアダムとエバの話で悪魔がそそのかすのをなぜゆるしたかといわれますが、それは第1にすでに述べたように自由意志を与えたからです。  第2に、それは神が神たることを表現するためです。これは矛盾であるかのようですが、たとえば善というのは悪があってはじめて分かります。光は闇があってはじめて際だちます。もし部屋が完全な光に満たされ、1つの闇もないなら、光というのはあまり際だちません。もし世の中に完全にまったくこれっぽっちも悪がないと仮定すれば、善が善であることはいまいち分からないものとなるでしょう。  悪魔が存在し、横行すればするほど、神たることが表現されています。それは聖書の記述でわかります。キリストがいた時代、人の病も、盲目の人も、耳が聞こえない人も、すべて人の罪をもつ者を象徴します。彼らが罪を持ち病を持ったのは、もちろんサタンのゆえです。しかし、そこへイエス・キリストがきて癒します。これは彼の全能を宇宙に表現していたわけです。サタンがおらず、人の中に罪がなければ、神が全能であることを見せる手段はなかったでしょう。  十字架の死も実はそうです。イエス・キリストは死んだのに復活したのだ、というのは人の観念からいって奇跡であり、できるとしたら神しかいませんね。イエスは一見してサタンに滅ぼされたかのようですが、しかし復活しました。これは神の全能を表現しました。  悪魔がもがけばもがくほど、神がそのたびに上回って、愛、力、命などを表現してきたわけです。将来においてもそうです。  第3に神には時間の観念がないと言われています。これは歴史を見れば分かりますが、時間というのは文化的構築物であることが分かります。いわゆる時計の発明以前のはるか昔には、人の時間意識はもう少し曖昧で、いわゆる暦もなかったわけですから、時間は円環的に流れていました。ところが、時計と西暦なども出てきて、人の時間は直線的になります。ご存じのように、カレンダーを作ったのはある意味で聖書です。一週間で7日というのは聖書の創世記からきています。ところが、神には時間の観念はありません。なぜなら永遠から永遠に生きるからです。  ペテロだったか新約にありますが、神には1000年が一日のようであると言いました。したがって、アダムの創造からすべての終わりまで、私たちの人の感覚で神にはたった6日くらいの感覚でしかありません。ですから、どうしてこんな長い期間ほおっておくのか、悪魔にほしいがままにさせるのかというのは、かなり人の時間感覚に基づいているのです。 ◎「神は自由意志を与え、人が人自身で失敗して堕落しました。」ということですが、神が人間に自由な選択をさせるが、ある選択をしたら地獄にいくことになる…とは自由な選択には思えません。それではまるで一部の独裁者が、人民に「君たちは自由な選択をしていいよ、ただし私のいうことに反するならば投獄するぞ」というのに聞こえます。本当に自由な選択が許されるならば、相手がじぶんの望みと違う選択をしたからといって、相手を裁いたり滅ぼすひつようはないのではありませんか。  裁き滅ぼすのは人だからではなく、人に罪があり、罪はサタンそのものだからです。あたりまえですが、人を造ったのには目的があり、自由意志 を与えたのは何かを選択するのを望んでいるからですね。たとえば、私たちが料理を作るのは「食べるため」(目的)です。ですから、救い主として救いをもってくる以前から人はいたのですから、人には何か本来、期待をもって創造したことになります。  「ある選択をしたら投獄する」というか、私たちの存在がアダムの失敗のゆえに罪であるので、もはやすでに死刑宣告が出ているわけです。例えれば、人はみな極悪な犯罪者で、すでに死刑の執行を待っているようなものです。ですから犯罪者がいくら「私は悪くない」といいわけしても当然許されることはありませんよね。  不当だ!というかもしれませんが(笑)、残念ながらその神への反逆というのは1つの罪であり、神を信じないというのも1つの罪です。すべてサタンから来ているとされています。最初の犯罪者はサタンそのものであり、その罪状は「反逆」です。サタンは神を滅ぼして、自分が最高の権威であろうとしました。ですから、人はまさにサタンと同じことをやっているわけですね。  ところが、神は人を愛し、彼の目的へと引き戻すために、イエスキリストをつかわし、免罪符を渡したわけです。その条件が信仰です。地位もお金も資格も努力も必要ありません。ただ「信じる」だけです。  目的とは神が彼の命を人へと与え、人から神を表現することです。命は表現をもちます。人が神の命を持つなら、やがて成長して人から神が現れるでしょう。当然、この命を用いないなら、クリスチャンでも一般人と変わりません。ただこの解釈は一部の人からは否定されています。 ◎聖書の一部の男尊女卑的な記述に関してはどう解釈なさっているのでしょうか。たとえばエフェソスの信徒への手紙の5章の「だから、教会がキリストに従うように、妻もすべてのことにおいて夫に従うべきだ」聖書はキリスト教徒にとって変わることのない真実がかいてあるそうですが。キリスト教の神は男女差別をする神なのですか。  男尊女卑の1つの根拠になったとされていますが、聖書の真理としては完全な読み違えです。政治家の長い談話の一部をマスコミがピックアップして悪いように報道するのと同じようなものです。  まずそこだけ読んでも分かりますが、パウロが夫と妻を、キリストと教会に置き換えていることが読みとれます。パウロの真意は実は夫と妻の関係を記述するだけではなく、キリストと教会の関係を記述していたのです。夫が妻を愛するというのは、キリストが教会を愛することをも示しています。妻が夫に服従するとは教会がキリストに服従することをも意味します。  全聖書では、男はキリスト、女は教会を象徴すると言われています。考えてみてください。神は何の秩序も作らず、サタンになすがままにさせていたなら、現在世界はすでに滅んでいます。神はそれを防ぐために、ブレーキとしていくつかの「権威」を定めました。  年長者に服従するという記述もあります。これはいくらか秩序が維持されるためです。クリスチャンにたいして世の中の権威に服従するようにと使徒は新約で勧めています。それは人として正常に、教師を敬い、上司に従い、国の法律を違犯したりすることなく生きるようにということです。もしこのような秩序を破壊したなら、クリスチャンはイスラム教徒のように争いと収奪のなかにあったかもしれません。  ところが夫と妻というのは権威のなかでもかなり大きな意味があります。男はキリストを象徴し、女は教会を象徴するからです。イエスは万物の上に立つ王、かしらです。第1コリントにある女が頭を覆うというのは、男の権威を尊重するためだということがありますが、これは教会がキリストをかしらとして尊重するということを示すためです。ですから、クリスチャンの男性でさえ、頭を何かで覆う必要はないものの、同様の態度を取らなければなりません。  ですからただ妻が夫に服従せよという話ではありません。別の箇所ではクリスチャンは「互いに」服従しあうようにといっています。あるいは「互いに謙遜の帯を締める」という表現もあります。ですから、男がえらくて、ほしいままに女に何でも命令してよいと言っているのではないことが聖書全体から分かります。  第一、考えてみれば分かりますが、福音書のどこでもイエスは女たち軽蔑して、見下したり、迫害した記述はなく、むしろ女たちをあわれみ、時には女を模範的な存在として取り上げ、シモン(男)に注意するという場面もあります。ですから、男尊女卑は聖書の上でどこにもないわけです。  

noname#70507
質問者

お礼

丁寧な解説どうもありがとうございました。私はあなたの説明に対して全面的に同意するわけではありませんが、クリスチャンの熱心な聖書の解説が聞けてとてもためになりました。私にはキリスト教を侮辱するつもりはまったくありません、ただキリスト教徒が何を信じているのかが知りたかっただけなのです。 私は理論物理学者の卵ですが、神の存在を信じています。もっとも私の信じる神は人格神ではなく、すべてに遍在する汎神論的な神なのですが。また人間は生まれつき罪人であるとは思いませんし、キリストを信じようがイスラム教徒だろうが無神論者だろうが、神に届くにはいかなる仲立ちもひつようない、ただ善と真実に生きればそれで十分です。 それでは最後に質問させてください。私の読んだ本に次のような一節があります。 「組織的宗教が成功するためには、ひとに宗教が必要だと思わせなければならない。ひとに何かを信じさせるには自分自身への信頼を失わせなければならない。だから組織的宗教の第一の仕事は、人間に自分自身への信頼を失わせることなのだ。 二つ目の仕事はあなたにない回答を宗教が持っていると思わせることだ。 三つ目にもっとも大切な仕事は、その回答をあなた方に疑問なしに受け入れさせることだ。もし疑問をもてばあなた方は考え始める。考えれば自らの内なる源へ戻っていく。それでは宗教はこまる。宗教が与える答えとは別の答えを出すかもしれないからだ。だから宗教は人間に自分自身への信頼を失わせる必要がある。そして人間が自分を疑わずにはいられないとしたら、宗教が与えた神についての新しい考え方も疑わずにはいられない。まもなく人間は神の存在すら疑うようになる。」 私はキリスト教だけが神に至る唯一の道だとは思いません。それは生きる人の数だけあるのではないでしょうか。

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noname#49694
noname#49694
回答No.10

最後のおまけです。  新約の終末論というが、終末はいつなのかということです。実は、預言が正しければ、もうそれほど長い時間は残されていません。旧約のダニエル書の預言などによれば、その多くがほとんど成就され、完了しています(これは残念ながら、普通の人には分かりませんが、歴史の流れが記号化されて書かれています)。  議論は絶えませんが、歴史がやがてどれが真実であるかを嫌でも証明することになるでしょう。聖書は何年とはもちろん言っておらず、いつ来るかも分からないと書いていますが、兆候はあります。いずれにせよ、私自身はどんなに長くても人類は西暦3000年を迎えることはないだろうと推測しています。  なぜなら、ほとんど終わっているからです。この先にわずかな残りの預言の事柄にそれほど長い時間を必要とするとも思えません。

noname#70507
質問者

お礼

たしかに、環境問題やエネルギー問題、人口爆発、核兵器の拡散、地球温暖化といまの世界にはいろいろな問題がありますね。人間がいままでのような生き方をしていたら、いつかとてつもない大惨事が起こるのはさけられそうにありませんね。

noname#49694
noname#49694
回答No.9

◎私は理論物理学者の卵ですが、神の存在を信じています。もっとも私の信じる神は人格神ではなく、すべてに遍在する汎神論的な神なのですが。また人間は生まれつき罪人であるとは思いませんし、キリストを信じようがイスラム教徒だろうが無神論者だろうが、神に届くにはいかなる仲立ちもひつようない、ただ善と真実に生きればそれで十分です。  日本人はやおろずの神のほうが受け入れやすく、どうしても一神教的なものは天皇独裁を想起するので拒絶されがちです。やはり歴史的なアレルギーが根本にあるように思います。ここ数十年のオウム真理教などやものみの塔の影響などもかなり強いですが・・・  しかしやおろずの神というのは日本に特異なことでもなく、東南アジアの自然信仰(アニミズム)に近いかもしれません。余談ですが、最近、インド人のヒンズー教徒の話を聞きましたが、驚いたことにインドではヒンズー教徒がイスラム教の友達と共に、モスクに行くなんてこともあるそうで。ある意味でキリスト教が一番厳格といえるかもしれません。  物理学は社会科学以上にある意味では神に近づかざるをえない学問ですね。ある意味では物理学は神のわざを解明する行為であるといえます。物理学の巨人たちの多くがクリスチャンとなったというのは、何とも皮肉な話ですね。  聖書では神と偶像があります。偶像は神ですが、それは偽物です。ただ深い解釈では、偶像とは、実はただ物理的なものだけでなく、実は「神に置き換わるすべてのもの」を意味すると言われています。もちろん偶像とは狡猾なサタンのわざとされています。人を惑わしだますためであるというわけです。  偶像とは、人の目からは真の神と見分けがつかないものであることが旧約ですでに暗示されています。モーセが十戒をもってきたとき、民が金の子牛を拝んでいるのを見て、激怒したのは有名な話です。逆にいえば、なぜ民は金の子牛を神と思ったのでしょう?  それはサタンの狡猾です。それが金であったというのは、それが非常に貴く価値あるものにみえることを意味します。ですから、世の中のすべての宗教の神はどこか貴く美しいものに見えます。ただ高い神学によると、宗教でなくとも、芸能人でさえも偶像となるとされます。それは人の目から美しいのです。ところが、実はきれいにお化粧を塗った悪魔であるというわけですね。  芸能人idol=偶像idol  こういうわけで聖書の上では、他の神とは相容れないわけですね。なぜなら、それは神ではないからですが。 ◎それでは最後に質問させてください。私の読んだ本に次のような一節があります。 「組織的宗教が成功するためには、ひとに宗教が必要だと思わせなければならない。ひとに何かを信じさせるには自分自身への信頼を失わせなければならない。だから組織的宗教の第一の仕事は、人間に自分自身への信頼を失わせることなのだ。  これはある意味では事実であり、ある意味では違います。というのは、自分に自信がある人は神には来ないからです。イエスの時代も神の下に来たのは、ほとんどが最下層にある人々です。もともと彼らは、ある意味で世の中に希望も何もなかったので、心が開かれていました。  人は残念ながら、死期が来ると、ある意味ではほとんどがこの人々のようになります。私の祖父が最近そのようになっています。彼は私などにはない有能な能力の持ち主で、世の中では非常に良い地位にも達して、お金も十分にあります。また本をよく読み、世界情勢に鋭く、達筆であったのでローカルに文筆活動にも携わっていました。  しかし、彼はいまやそのような気力はありません。最近彼は両親にこう告げたそうです、「人生で何をやっても結局何も残らない。」それは祖父の嘆きでした。非常に可哀想に思います。おそらく今の彼なら受け入れることができるかもしれません。  聖書には神にはすべての上に主権があります。髪の毛の数でさえ管理しているとあります。神は環境を用いて、人に自信をなくさせます。そうでないと神を信じないからです。ですから、時にはやむなく、とてつもない苦境へと投げ込みます。それは人が自分の誇りやプライドなど、すべてに絶望するためです。聖書的にいえばこういう答えになりますね。 ◎二つ目の仕事はあなたにない回答を宗教が持っていると思わせることだ。  これもある意味で事実です。聖書は奥義であるとパウロは言います。奥義とは隠されているということです。聖書を見ても、どういう順列で何を伝えようとしているのか普通の人にはさっぱりです。とくに啓示録なんかは何かの狂気の沙汰に見えてしまうかもしれません。ところが、神はあえて記号化して隠したわけです。それは聖書では敵の目にそれを隠すためであるといいます。  神を信じる者だけに啓示revelationがあります。啓示というのは神からの直接の光によって、聖書の事実が照らされることです。ですから、聖書は信じないかぎり、本当の意味は分からないというわけです。なぜなら啓示は神が与えるものとされているからです。  第一コリントあたりに「目が聞いたこともなく、目が見たこともないものを見せてくださった」という感じの言葉があります。聖書は完全に人の未知の領域です。確かにそこには人が見たことのない、知らない回答があります。 ◎三つ目にもっとも大切な仕事は、その回答をあなた方に疑問なしに受け入れさせることだ。もし疑問をもてばあなた方は考え始める。考えれば自らの内なる源へ戻っていく。それでは宗教はこまる。宗教が与える答えとは別の答えを出すかもしれないからだ。だから宗教は人間に自分自身への信頼を失わせる必要がある。そして人間が自分を疑わずにはいられないとしたら、宗教が与えた神についての新しい考え方も疑わずにはいられない。まもなく人間は神の存在すら疑うようになる。」  これもある意味で事実です。疑い、不安、心配、恐れ・・・これらはすべてサタンを源としています。人が堕落した後に出てきたものです。敵の主要な攻撃手段は、疑いを植えつけることであると言われています。とくに聖書の言葉に対してです。  蛇がエバをそそのかしたのは、神の言葉を疑わせることによってでした。エバはまんまと疑いを持ち、神の言葉に逆らったわけです。それが人類最初の反逆でした。今日の人々にも同様の手段が用いられているというわけです。  ただ自分の疑うというのはとくに宗教でなくても、今の日本の若者の自己内省でも同じですから、宗教のせいではなく人の本質的なものです。 ◎私はキリスト教だけが神に至る唯一の道だとは思いません。それは生きる人の数だけあるのではないでしょうか。  少なくとも聖書では、神は一人であり、あとは敵が作った無数の偽物の神です。偽物は聖書では、最後には滅びることととなっています。なぜなら、それはサタンの化身とされているからです。  聖書の上では、キリスト以外に神とするものはすべてがサタンを拝んでいるというわけです。それはサタンの狡猾さです。非常に美しい姿で登場し、人々を混乱させ、ややこしくさせているということです。  これがあくまでクリスチャンたちの認識です。

noname#70507
質問者

お礼

私のくどくどとした質問に関して、いままで丁寧にお答えくださって本当に感謝しています。あなたのような誠実な人とネットで知り合えたのはとてもうれしいことです。私はキリスト教の教義は信じませんが、イエスが本当の聖者であったことは認めますし、キリスト教が多くの人間の精神性を向上させたことにも同意します。あなたが日々の生活の中で神を見出すことを願っています。

noname#49694
noname#49694
回答No.7

(3)僕が言いたいのはなぜ神が全知全能の存在なのに、その被造物が神の意思に反逆しうることができるのかということです。全知全能のである神が自分の創造物を、最後に地獄に投げ込むような失敗した存在をつくるなんて神の完全性に反していませんか。つまり 神が、すべての存在が神の意思に厳格に従うことを望むなら、どうして「神の意思が破られる可能性」などを作ったのですか といいなおすべきでした。法とは律法でも法律でもありません。すいません。  これは多くの人が疑問に思うところですね。被造物が反逆するところができます。というより、正確には神のふところが人の想像以上に深いということです。神は自分に忠実な一群の人々をできるだけ得ようと忍耐強く待っているというのが通説です(聖書の記述にあるからです)。  創造物とはいっても、クリスチャンだけではなく、動物なども最後には天国へともたらされます。動物たちの争いは実は人の堕落のせいで、将来には動物の争いもなくなります。  おそらくvlaskoさんには馬鹿馬鹿しく思えるかもしれませんが、神が神であることを証明し、その全能性を表現するためには何が必要だと思われるでしょうか?  極端な例ですが、私が喧嘩に強いとしましょう。でも、敵がいなければその強さを現すことは不可能です。あたりまえですが、自分の拳を使う必要がないからです。  同様に、神が神たることを表現しようと思えば、間接的にそれを表現することを可能にする存在が必要となります。そのためには敵でさえ必要になるのです。失敗であるかのようですが、神の力だけでなく、とくに新約において神のあわれみ、優しさ、親切、愛など、これらが人々にたしかに伝達されています。    神の意思を破ることは許されているかのようですが、ある意味で正しく間違いです。許されているのは、今一時的にです。聖書では未信者は後に復活させられ、裁かれます(もちろん天国に行くためではなく、滅びのためです)。結局その人のすべての行為があらわにされるとされています。  創世記によれば、神はもともと自由意志を与え、人自身の意志をもって神に仕えることを意図していました。アダムが生まれたとき、神は命の木から食べ、善悪知識の木から食べないようにと警告しました。変な話ですが、これは人に「選択権」が与えられたということです。したがって、神の考えは、もともと人を縛って、拘束して、いうがままにさせるという単純な話ではなくて、人の意志をもって神に協力することを意図していたのです(残りの聖書の記述から分かります)。  ですから、失敗しているのは厳密には「人だけ」であって、神ではありません。神は自由意志を与え、人が人自身で失敗して堕落しました。 あともうちょっと質問させていただきたいのですが、 キリスト教は人間を、そしてあなたを幸せにしたのでしょうか。私にはキリスト教の教え(たとえば原罪、懺悔など)は「人間を生まれつき罪のある被造物だ、価値がない、そして自分の犯した数々の罪を神に許しを乞いなさい、そうしないと地獄で永遠に苦しみつづけることになる」といいます。  厳密にいうと、このタイプの福音の仕方は主流のやり方ですが、私からみるとかなりレベルの低い福音です。聖書はただ救い主が来て、人を救うという話ではありません。内容は語りきれませんが、一部の書物では聖書の教義はより高度なレベルで解き明かされています(あまり公にはなっていませんが)。いまは聖書は、おそろしい論理性のある本であると思っています。  キリストが人間を幸せにしたかどうかは、それはクリスチャンだけがそう思っているでしょう。それ以外にはキリストというのは、一人物なのですから、幸せもなにも関係ないでしょうね。  私個人は神がいることは確実であると思っており、キリストが真の実在であると思っています。幸せといえば、幸せです。   ◎それは結局人間を罪悪感と劣等感にさいなませ、常に「神の愛を失うことを一生恐れ続けること」で心をいっぱいにするのではありませんか。もし神が愛に満ちた存在ならどうしてそんなことを人間に強いるのですか。  一般的に神のせいであるかのように思っていますが、神が罪悪感や劣等感を「与えている」のではなく、人が勝手に持っているだけです。正確にいえば、人のなかにある罪がそうさせているとされています。神の愛が失われるという発想は、聖書に反しており、神の愛は絶えることがありません。それは罪人にさえそうです。このあたりはヨハネ3章にあります。 ◎私はそのように自分に自信や自尊心を持たせず、神を恐れさせるような教えそのものが、キリスト教徒の大衆の、道徳心の欠如や非寛容さにつながるのではと考えます。なぜなら人間は自分から自尊心や自信を奪われれば、他人にも同じことをするだろうし、自分に価値がないと思う人は他人の価値を見出すことができないと私は思うからです。  神は最大限に人に自由意志を与えています。それは本来「神を自分から信じる」ことを願ってのことです。ですから、今でも人は好きなように動くことが出来ます。さきほどの繰り返しですが、神を恐れさせるような教えというのは、かなりレベルの低い福音です。この前も街頭で、そんなことを選挙カーみたいな車から聖書を教えていた人たちがいましたが、内容はお粗末なものでした。  このあたりは宗派でずいぶん違ってしまいます。 

noname#70507
質問者

お礼

丁寧な回答どうもありがとうございます。とても楽しい対話です。 「神が神たることを表現しようと思えば、間接的にそれを表現することを可能にする存在が必要となります。そのためには敵でさえ必要になるのです。」 ということは、あなたの考えでは神は神の敵の悪魔なしでは自身の性質を表現できない、ということなのでしょうか。それは神の完全性に反していませんか。 「神は自由意志を与え、人が人自身で失敗して堕落しました。」ということですが、神が人間に自由な選択をさせるが、ある選択をしたら地獄にいくことになる…とは自由な選択には思えません。それではまるで一部の独裁者が、人民に「君たちは自由な選択をしていいよ、ただし私のいうことに反するならば投獄するぞ」というのに聞こえます。本当に自由な選択が許されるならば、相手がじぶんの望みと違う選択をしたからといって、相手を裁いたり滅ぼすひつようはないのではありませんか。 「一部の書物では聖書の教義はより高度なレベルで解き明かされています 」ですが、もしよろしければ簡単にでもいいので教えてくれませんか。 聖書の一部の男尊女卑的な記述に関してはどう解釈なさっているのでしょうか。たとえばエフェソスの信徒への手紙の5章の「だから、教会がキリストに従うように、妻もすべてのことにおいて夫に従うべきだ」聖書はキリスト教徒にとって変わることのない真実がかいてあるそうですが。キリスト教の神は男女差別をする神なのですか。 質問ばかりして本当にすいません…

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.6

No.1さんと多少重複いますが、、、、 >中世ヨーロッパではほとんどの人がキリスト教徒ですが、十字軍、魔女狩り、奴隷貿易といった自分と信仰を異なるものに対する非寛容さ、農奴と領主といった貧富の格差、教会と聖職者の堕落といった諸問題は解決されることはありませんでした。 何故なら政治的にしか利用できないものでしかなかったから。 支配者のみ有利になるシステムだから。 新約聖書ができたいきさつ、ご存知ですか? イエスは何人なのか? どの宗教の信者だったのか? いくつもの宗教がつぎはぎをしたようなものが新約聖書。 一体いくつの宗教をつぎはぎして、フランケンシュタインのように人工的にイエスを作ったのか、と思ってしまいます。 紀元前、後あたりは、どうしようもなく宗教は分裂していたそうなんですね。 ユダヤ教をはじめ、いろんな宗教が混乱を極めて形すらまだ確定していない泥のような状態。 なんせシルクロードの場所ですから、いろいろな宗教や思想もめまぐるしく行きかっていたんでしょうね。 (だから地理的なものもあって、ローマ帝国はあそこを欲しがってんだと思います。) イエスに関する話は1000を超えていたそうです。 ところが現在はたったの4つですよね。 どうしてだと思います? イエスの話は多様を極めており、いろんな説があったそうなんですね。 それぞれの派閥が「自分の方のイエスの話が正解だ」とそれぞれやっていた。 ローマ帝国では、それぞれの派閥が活発に活動しており、宗派同士の争いが絶えず、社会不穏を引き起こしていたそうです。 ローマにとってその社会不穏を引き起こすイエス信望者に恐れを抱いていたので、鎮圧しようとして、それがキリスト教側が言う迫害だったようです。 つまり、各地で騒動を引き起こしていたので、ローマは鎮圧をしていたわけです。 社会不穏を引き起こしてイエス信望者が悪くとられるのは、イエス信望者であるエイレナイオスにとって我慢ならないものだった。 エイレナイオスは、「キリスト教社会の教師たちが、自ら捏造した数々の怪しげな文書を広め、真の聖典を知らない愚かな人々を惑わしている」とした。 中でもヨハネの秘書と呼ばれるものを引き合いに出して攻撃した。 (ナグ・ハマディでグノーシス主義福音書と供に発見された書物) それで、エイレナイオスは自分の信じる話以外をする人を、迫害しだしたようなんです。 一つだけを真実として、他のイエス話を退けるため、新約聖書を作った。 統合なのか隠蔽なのか。 このとき焚書が起こり、それ以外の書物を燃やすように命令が下り、それでナグ・ハマディーやトマス福音書、マリア福音書、ユダの福音書などがこの世から消えたはずだった。 エイレナイオスとその後継者たちは、当時から現代に至るまで全ての信者を、エイレナイオスが 四福音書 と呼んだ使徒たちの伝承に従わせようと力を尽くした。 キリスト教指導者たちが承認うる啓示はすべて、のちに新約聖書と呼ばれる福音書に合致しなければならなかった。 そしてこれが真実としたとき、それと違う話を信じるものを異端者とし、女性や外国人や魔術師を排除するという方向になってしまった。 (外国人を魔女として処刑した一つの理由は、処刑して金を奪うためだったようです。) この同じキリスト教を信仰するが、内容がエイレナイオスらが決めた内容と違うことを信じる人たちをどう迫害するか。 異端審問というものを設けたわけです。 徹底的に排除・迫害をした。 そしてその同胞への排除・迫害は異端審問にとどまらず、さらに後世エスカレートしていき、マレウス・マレフィカルム(魔女の鉄槌)という底知れない闇をこの世に産み落としてしまった。 コンスタンチヌス1世の死後すぐから他の宗教に対する攻撃をエスカレートさせ、他の宗教や異端を排除していったわけです。 他の宗教や異端を排除することに成功したので、天下をとったようなもの。 ローマ帝国の皇帝は、キリスト教が被支配者が支配者に逆らわない思想であることに目をつけたんだと思います。 それでこれを利用して、侵略の土地の人々をこの去勢思想で塗り、侵略した肥えた土地を得て、それで兵士の食料を確保し、兵力を強くしていったとローマ帝国の歴史を見て思いました。 中世になると、土地の地主をキリスト教徒にしていった。 地主に特権を与え、地主が持っている農奴も自動的にキリスト教徒になっていく。 支配者にとって被支配者がたてつかないこの思想がとても利用価値があったわけです。 よくよく調べてみますと、ナチスの蛮行の原因もキリスト教のようです。 キリスト教が勢力をつけていくと、イエスを殺したのはユダヤ人だと、ユダヤ教徒を迫害した。 ローマ帝国はキリスト教に有利になるようなお触れを出し、それによってユダヤ教徒は迫害され、ユダヤ人は神を殺した悪者という印象を人々に与えていったわけです。 本当に実在したのかどうかもわからない人をユダヤ人は殺したと言うわけです。 ピラトに関してはローマに資料が残っているので実在の人物です。 が、聖書に書かれているような穏やかな人などでもはない。 ローマにたてつく<疑い>のあるものを、裁判なしの即処刑していた人物。 裁判なしにです。 新約聖書に書かれていた内容と違いますよね。 後にユダヤ人がローマに悪行を通報し、彼は解任になりました。 >大衆の人間性を引き上げるという宗教の目的には失敗したと思います。 が、支配者が必ず徳をし、被支配者が飢え死に寸前になるこのシステムは、支配者に幸福をもたらしました。 数でいけば支配者は少数ですが、支配者が幸福なら、その下の奴隷もおこぼれをもらえるはずだ というわけでしょうか。 人間性をひきあげるとは去勢のことですか? 奴隷を去勢し搾取しつづけるが、奴隷は去勢されたので気づかないだけじゃないのでしょうか。 私は、もしイエスという男がいたとして、「汝の敵を愛せよ」といった意味は、同じヘブライ人同士愛せよ ってことだと思うんですね。 彼らは12+1支族で構成されていますよね。 ところが南北に分裂し、双方とも奴隷にさせられた。 バラバラに散らされたわけですよね。 北は偶像崇拝になり、南も偶像崇拝になったが、南はバビロンに捕囚されたのは偶像崇拝に陥ったからだとして、それで南の元祭祀たちや元支配者たちは捕囚先のバビロンで、自分達の民族が独自の民族であるという誇りを取り戻すため、捕囚先で捕囚先の神話を元にして創世記を書いた(作った)と思うんですね。 従って、異邦人とは南の王朝の人たちからみた元北の人たち。 つまり他の10支族のこと、だと思います。 「ユダヤ人よ 敵であるローマ人を愛せよ」じゃあない。 「バラバラに散ったヘブライ人よ 一つに戻れ」ってことを言っていたんじゃないかと思うんです。 「右のほほを打たれたら左のほほを出せ」は本来の意味は違うんじゃないかと思います。 イエスは弟子達に武器を取れと言っていますが、これは元北王朝の人に対してではなく、ローマに対してだと思います。 前、新約聖書の内容に関して、本来の意味と違う箇所がいくつもある、という本を読みました。 これはキリスト教の教義にも影響を与える。 教義が間違いであることになってしまうほど翻訳ミスは手痛いものがあるようです。 2千年間続けられた教義に大きな誤りがいくつもある。 そうなると、とても恐ろしいことです。 根本が間違いということになるのですから。 今までの教えが全くの嘘で、真理でもなんでもない、誤訳されたものを真実だと信じていたって残酷なことになってしまいます。 基本の基本が間違えていたら、その上のたつ塔は、、、ピサの斜塔のようですね。 やがて崩れる。 よく2千年ももったものです。 基礎部分がずさんな塔、補修してなんとか崩れるのを防いでいるようなものです。 ちなみにヨーロッパでは、キリスト教徒が激減しており、日曜日に礼拝に行く人は、信者として登録している人の1割以下だとか。 近年のキリスト教離れはものすごいものがあるらしいです。 教義が誤りだということが信者にバレてしまったからでしょうか。 確かに新約聖書はギリシャ語(コイネー)が元のようですが、その話はヘブライ語 つまり旧約聖書からイエス語録はきている。 もともと口伝だったものが、本国以外の住むディアスポラしたユダヤ人に読ませるために、コイネーやコプト語として書物に残したようなんです。 だが、ヘブライ語独特の言い回しが、他の言語に無く、一時一句変えてはならないとされたので、直訳してしまったようなんですね。 それで、新約聖書や旧約聖書は意味不明な言い回しになってしまったようなんです。 (旧約聖書の成立も、文書化されたギリシャ語の聖書から起こしたらしいです。) 旧約も新約も本来の意味を伝えていないことになってしまいます。 口伝で理解できる人に師匠が直接伝えていたものが、文字にしてしまったために、本来の意味が伝わらなくなってしまったようなんです。 その文字になったものを「こういう意味じゃないか」と研究していたのが、クムラン宗団ではないかと思います。 (私の推測では、キリスト教の前身。非常に思想が似ているから。他の派閥とは違い、非常に今のキリスト教的システムを持っていたらしいです。規則もすごく似ている。) ここは階級社会がはっきりとしていた。 後のローマが被支配者を統率するのにとても都合のいいシステムとしてキリスト教を選んで利用したわけです。 階級社会が歴然としてあった。 つまりキリスト教は階級社会というシステムにより一つの団体を構成しているわけです。 少数の支配者と多数の被支配者の構図。 このシステムは、人間性の向上とは関係ない。 というわけで、幕を外せば、そこは人間性など皆無のロボット社会というわけです。 ロボットに心は無い。 従って人間性など不要。 支配者が被支配者を支配する。 この構図がキリスト教なわけです。 これが実態。 これに反発したのがルターでした。 しかし、せっかくエイレナイオスらが統合して一つにしたのに、またバラバラになっていくわけです。 拡散と収縮。この繰り返し。 なんら変化はなく、過去にあったことは現在もあり未来にも必然的に起こる。 それが賢者 あるいは哲学者がコヘレトの言葉の中に書いているわけです。 ただ、コヘレトの言葉の作者は、被支配者に対して、「それでも救いはある」と言っています。 奴隷として一部の支配者に搾取され利用され、そして捨てられる者にも、救いはあるとしています。 これが、支配者に利用され搾取される信者に対しての救いでもあるわけです。 ただし、異端の本として物議をかもし出した書物ですが。。。 支配者はこれすら利用してまだ奴隷から搾取しようとするのですから、支配者はそれでも人々を救ってやっているのだ と傲慢になっているから、本当に救いようが無い。 そのような救いようが無いシステムなので、救いようが無いようにしかならないわけです。

noname#70507
質問者

お礼

回答ありがとうございます。宗教と政治が結びつき、人間の精神を支配するようになると恐ろしい社会になりますね。宗教に限らず、戦前の日本や、今の北朝鮮や、中世キリスト教の暗黒時代のように思想を統制する社会は停滞し、崩壊するというのが歴史の教訓だと思います。

noname#59058
noname#59058
回答No.5

都合のいいように何度も内容が修正されてきましたからね。

noname#70507
質問者

お礼

回答ありがとうございます。たしかにそうですね。仏教の歴史は仏教が仏教でなくなる歴史だ、という言葉があるそうですが、それはほかの宗教にも当てはまるのではないでしょうか。

noname#49694
noname#49694
回答No.4

(1)「アメリカへの移民がどれだけ聖書の教義を分かっていたかは怪しい」 とのことですが、聖書の正しい教義の解釈は誰が決めるのでしょうか。移民たちも自分たちだけは正しい信仰を持っていると信じていたと思います。自分の解釈は正しく、ほかのは間違っているというのは恣意的な解釈にしかなっていませんし、論争が二千年ちかくの十分な時間がたっても終わらないというのは、そもそも正しい解釈など(未来も含めて)できないということを示していると思うのですが。  ご存じの通り、キリスト教はおそらく宗教として最も分裂しているのではないかと思います。カトリックとプロテスタントという言い方がなされますが、実質的には数百の宗派があると言っても、過言ではないと思います。もちろん聖書を使うことでは共通していますが、その解釈はまったく違うこともあるようです。  論争はおわりませんね。科学における論争が終わらないのと同じですね。こうしたクリスチャンの論争自体が人が堕落したことの証拠であるとされるでしょう。その意味で聖書的に完璧なクリスチャンというのは、ほんの微細な人だけなのかもしれませんね。  いわゆる終末論、イエス・キリストの再来という時にはこのような論争は終わらされるということでしょう。聖書は神が人を通して書いたとされていますから、その解釈は1つに決まっています。そういった世界観にあると思います。  信仰は行為であり、教義のほんの1つです。信じていても、聖書に精通していることにはなりません。 (2)「クリスチャンだけ!というのがミソです。」とのことですが、それではキリスト教は相手が同じクリスチャンには「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出し」、自分と異なる宗教を信じるものは「神の敵」なので、親切にする必要はないし、(極端には)十字軍のように殺人をしてもよいということですか。あるいは同じ宗教でも神の教えに反するなら(金の子牛を礼拝したユダヤ人のように)、神の指示があるなら殺人による解決もゆるされるということですか。  これがややこしい問題です。旧約の物語では、あくまで神が命令することによって、それを敵を滅ぼしていきます。それ以外の人間の欲望や自意識による行動はすべて罪定めされているわけです。  「右の頬をぶたれたら左の頬をさしだす」のは、おもにクリスチャンが「すべての者」に対応するための戒めです。隣の人だろうが、どこかの社長だろうが、友達だろうが、他の宗教の人だろうが、争ってはならないということです。これはおそらく人間が欲望や傲慢さや見栄などから、争いをしてはいけないということでしょう。  したがって、問題は神の敵を滅ぼすことが、神の意志でないのにもかかわらず、戦闘行為をやっちゃうということにあるのです。十字軍なんかはそれは神のものだといって戦争してしまいました。  イエス・キリストや他の使徒たちの記述を見れば分かりますが、他の宗教徒などに対して認めることはしませんが、「何の反抗もつぶやきも戦闘も行っていない」のが分かります。ですから、宗教戦争というのは聖書的に正しいのかどうかは相当怪しいように感じます。  おそらく考える必要があるのは、旧約時代の神と新約時代の神はずいぶん違うということです。それなりに意味があるのかもしれません。旧約での神はかなり厳格です。たとえば、箱船のノアのときには8人を除いて人類を大洪水で滅ぼします(余談ですが、ノアの話は昔に映画になりました)。  ところが、新約のキリストは、ひるがえって、病人の病をいやし、罪深い者たちをあわれみ、最悪の者たちと食事を共にするなど、きわめて不義な人々のところへいって、彼らの救い主となったわけです。別に彼らは結果的にはクリスチャンとなったといえますが、もともと何か良いものがあったのではなく、本当に悪い不道徳な者たちであったのです。  こうしたイエス・キリストの姿に多大な影響を受けた一人が、あのマザー・テレサです。  植民地時代の布教の歴史を少し読んだことがありますが、植民地時代というのはご存じのように戦闘行為をもってどんどん世界中を支配下においていったわけですが、同時にキリスト教を布教することにもなりました。私が読んだのは、中国へ行った純粋な宣教師たちに関連する記述ですが、まったく人種差別的な考えはなく、むしろ命がけであの険しい内陸へと入っていくわけです。(もちろん福音のためですね)  ですから純粋なキリスト教思想は、きわめて人権を尊重するもので排除的なものをもたないのです。異教徒と話すな、軽蔑しろという記述もありません。そもそもキリストはまったく別の態度をとったわけですから、聖書的にはありえないのです。 (3)「クリスチャンたちは悪魔・サタンがいるので、この世界に争いがある」とのことですが、そもそも世界を創造したのは神というのが聖書の教えですよね。それなら悪魔も神が創ったことになるのではないのですか。 そもそも神がすべての存在が法に厳格に従うことを望むなら、どうして「法が破られる可能性」などを作ったのですか。私には世の中の悪を悪魔に押し付けるのは、全知全能の神を無力にすることなので矛盾していると思うのですが。  これはきっとかなり論争があると思います。ある解釈では、神は世界ができる永遠の昔にまず天使たちを創造したようです。実はサタンとはその天使であったというものです。サタンというのは、天使のなかでもずば抜けて、知恵があり能力のあった天使長であったといわれます。  ところが有名な創世記になると、アダムとエバは純粋に神のかたちにしたがって創造されたわけですが、蛇(サタン)がきて誘惑し、人類が堕落したわけです。堕落のゆえに神は人を容認できず、やむなく一端放り出すわけです。しかし、イエス・キリストを遣わし、彼らの救いのために十字架で死んだということですね。  変な話ですが、旧約では厳格な律法をつくり、モーセに与えます。ところが、人々は以後も守れなかったわけです。ところが新約聖書を見てみると、パウロの記述には「律法は終わった」という言葉が多々あります。  1つの解釈は律法は養育係であり、救い主が来るまでに人が堕落しすぎないようにするブレーキであったということです。しかし救い主がきたら、ある意味で少しずつ堕落から逃れ、クリスチャンの人間性は高められていくわけです。  新約には法的な秩序についてはまったく述べられていないと思います。 もともと国家を維持するために書かれた本ではないのは明らかです(笑) (4)キリスト教徒でなくては天国にいけない、というのは私にはキリスト教徒の集団的な傲慢にしか思えません。世の中にはキリスト教徒でなくても、人間的にキリスト教徒よりも優れている人はいくらでもいるではありませんか。イエスを信じるものだけが救われるというのは、キリスト教徒の人間に対する視野が狭いだけだと私は思いますが…。  天国というのもかなり曖昧で一番論争があるところかもしれません。ルターは信仰があればそれだけで救われると考えましたが、カルヴァンは人は一生のなかで救いについて分からないが、道徳的にやっていれば可能性は高いと考えました。  聖書の記述を見ればすぐ分かりますが、イエスはなぜか道徳的な人のところへではなく、最悪の人たちのところばかりへ行きました(現代でいえば、ヤクザ、ホームレスや障害者、難病の人たちといったところでしょう)。これは不思議なことです。  人間の道徳性を高めるだけであれば、なぜ不道徳的な人のところへ先に行く必要があったのでしょうか?結局、その違いは神を必要としたかどうかです。極悪人や病人などたちは非常にせっぱつまって助けを必要としており、イエスの下にきました。ところが、多くの道徳的な人や成功している人は、高ぶって救いなど必要ないと考えていたわけです(神のないどんな人もすべて罪人とされています)。  結局、堕落とは何なのかという問題です。アダムとエバは不老不死であったのに、罪を犯して寿命を持つようになりました。これは罪の結果が死であるということです。罪とは結局、サタンの性質であった、ということです。人の悪い行いなどはすべてこの罪に基づくというわけです。したがって、罪人を含めてそのまま万人を受け入れるというのはサタンを受け入れるのと同じことになるわけです。(そうすると神の存在そのものが間違いとなりますね。不正な裁判官みたいなものです。)  ところがキリストが来て人の罪を担い、十字架で死ぬというストーリーがここに入ります。そして、この人の罪の赦しと永遠の命が神を信じる者に与えるわけです。

noname#70507
質問者

お礼

回答ありがとうございます。残念ながらちょっと質問の仕方が悪かったようです。僕のいいたかったことは (3)’サタンはもともとは天使で、それが神に反逆し、人間を堕落させ、最後には黙示録のように滅ぼされるという説は知っています。僕が言いたいのはなぜ神が全知全能の存在なのに、その被造物が神の意思に反逆しうることができるのかということです。全知全能のである神が自分の創造物を、最後に地獄に投げ込むような失敗した存在をつくるなんて神の完全性に反していませんか。つまり 神が、すべての存在が神の意思に厳格に従うことを望むなら、どうして「神の意思が破られる可能性」などを作ったのですか といいなおすべきでした。法とは律法でも法律でもありません。すいません。 あともうちょっと質問させていただきたいのですが、 キリスト教は人間を、そしてあなたを幸せにしたのでしょうか。私にはキリスト教の教え(たとえば原罪、懺悔など)は「人間を生まれつき罪のある被造物だ、価値がない、そして自分の犯した数々の罪を神に許しを乞いなさい、そうしないと地獄で永遠に苦しみつづけることになる」といいます。それは結局人間を罪悪感と劣等感にさいなませ、常に「神の愛を失うことを一生恐れ続けること」で心をいっぱいにするのではありませんか。もし神が愛に満ちた存在ならどうしてそんなことを人間に強いるのですか。私はそのように自分に自信や自尊心を持たせず、神を恐れさせるような教えそのものが、キリスト教徒の大衆の、道徳心の欠如や非寛容さにつながるのではと考えます。なぜなら人間は自分から自尊心や自信を奪われれば、他人にも同じことをするだろうし、自分に価値がないと思う人は他人の価値を見出すことができないと私は思うからです。

noname#49694
noname#49694
回答No.3

(1)それでは新大陸アメリカに移住した、聖書に立ち返る福音主義を唱えたプロテスタントの開拓者たちが行った、ネイティブアメリカン達を虐殺したのも聖書の教えに反しないということなのですか。彼らは聖書に忠実なクリスチャンたちだったはずです。  このあたりの具体的な歴史的な詳細を私は知りませんが、分かる範囲でお答えいたします。旧約の規定からいうと、十戒では「殺人」は禁じられています。しかし不思議な話なのですが、旧約の一部の人物たちはなぜか人を殺しまくっています。モーセの次世代のヨシュアなどがそうですが、これは罪となっていません。  ところが、ダビデ王はある美しい女に一目惚れしましたが、夫がいたので殺してしまっただけでなく、姦淫を犯します。殺人と姦淫は聖書的には大罪です。後にダビデは預言者を通して神に罪定めされており、悔い改めています。  したがって、おそらく神の意志にしたがった場合には殺人はゆるされ、そうでない場合、つまり単に欲望にしたがって殺人した場合は単なる罪であるということなのではないかと推測されます。モーセやヨシュアは神の命令にしたがって、民を引き連れて、神の反逆的な敵を滅ぼしていくわけです。  一般的にいえば、この反逆的な敵というのがかなり曲解されていったと言えるでしょう。つまり、いわゆるクリスチャンではない者というのは野蛮で、悪魔の手先だという発想です。植民地時代の残虐な行為は、文明から野蛮地域の支配というイメージのなかにありました。  ところが、これが聖書から来たかどうかは、かなり怪しい。一因ではあるけれど、おそらく大きな要因ではありません。やはり資本主義そのものの萌芽や政治的に民主的諸制度が登場し始めたことなどもからんでいると思います。  ネイティブアメリカンの虐殺もまた、文明と野蛮という非人権的、非人道的な発想のもとになされたもので、植民地主義の1つですね。それ以降も黒人の虐待、人権侵害などが1960年代あたりまで横行するわけです。ただこれが聖書1つに基礎づけられているというのはちょっと行き過ぎですが、無関係とはいえません。  私なりの仮説では、戦争には必ず意味づけが必要になります。今であっても、意味も理由もないのに自分の命をかけて戦争に行くというのは意味づけがないとできないのです。戦時中の日本では「お国のために」ですね。ナショナリズムが近代の戦争の意味づけです。もちろん家族のためにとか、みんなのためにといった個々人の意味づけもあるでしょう。  では国民国家体制が成立する前に、人々はどうやって戦争の意味づけをしていたのか。それが「神」だったわけです。支配者からすれば、神のためにというよりも自分の権益のためであったでしょうが、戦士たちに説得するには国王権威だけでなく、宗教権威が必要になったのではないかと思われます。過去には神のために、というのは非常に納得しやすいものであったと思います。今でもそれに近いものがありますが・・・  ブッシュが正義のために!というと人々が「そうだそうだ!」となるのと、あんまり変わりません。  ただこれは一般的な科学的な認識です。もう一方では、キリスト教の教義そのものの発展という項目をクロスさせて考える必要があるでしょう。 聖書はあっても、聖書の中身は意味が分からないことが多いわけです。聖書の真理は、ルターにおいて「信仰の義認」が回復されます。「信仰の義認」とは、「信仰」だけで人は救われるという認識のことです。以後も教会の真理というのは絶えず、論争の中におかれてきました。聖書そのものの教義があらゆる点で明らかにされてきたのは、20世紀です。ですから、それ以前の人々が物語以上に考えていたかどうかはかなり怪しいといえるでしょう。聖書の真理という点では中世ヨーロッパの人々の大半は、分かっていなかったと思います。  福音主義は「福音」を強調するだけの場合もあり、聖書の真理をほとんど顧慮しない場合もあります。ただそれでは、ただのイデオロギーみたいなものになってしまうわけです。この問題はかなりややこしいですね。 アメリカへの移民がどれだけ聖書の教義を分かっていたかは怪しいですね。今のアメリカ人でも半分以上はただ神がいると思うと思っているだけで、聖書が何を言っているのかほとんど知らないでしょう。 (2)またキリスト教徒の考える理想の社会というものは、宗教の目的が大衆の人間性の引き上げでないというのなら、他者の痛みや苦しみを共感しないような社会でもよいのですか。  厳密にいえば、キリスト教は「クリスチャン」の人間性の引き上げを目的とするといえます。しかし「万人」の引き上げではありません。クリスチャンだけ!というのがミソです。ある意味で、クリスチャンたちは万人が平和な世界を望んではいますが、それは不可能であるというのは現実的にも聖書的にもいえます。聖書の啓示録では最後の対決の構図(ハルマゲンドン)があり、サタン・反逆者・偽預言者などが登場します。ここでは神を信じない者たちがいることを記述しています。  クリスチャンたちは悪魔・サタンがいるので、この世界に争いがあると考えています。これはイエスキリストが再び来て(第2の再来)、すべての悪を滅ぼすまでは消えることがありません。ですから、聖書的な平和な世界は、現代では到達しえず、永遠の未来に訪れます。ご存じのように、現代に生きていることはクリスチャンには過渡的なものです。彼らは死んだら、後に復活させられて、天国へ行くと考えます。  ですから、実は科学の発想とはまったく相容れないものです。なぜなら、過渡的なものでしかないからです。そして、今の世の中のすべての苦しみは悪魔やサタンから来ていると考えています。ですから、できるだけ平和などを望みますが、それが到達しえないことを本質的には理解しているのです。  分かりやすくいえば、現代において可能なかぎり、争いなどは避けられるべきであるが、最終的に完全な解決ができるのはただ一人、再来するイエス・キリストだけというわけです。  ですからブッシュはクリスチャンだといっていますが、聖書の教義をまったく理解していないというべきです。ちなみに聖書の啓示録では偽クリスチャンというのもの数多くいるということが書かれています。  少なくともローマ教皇の態度のほうが聖書的です。イエスキリストの本義は「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出す」ですから、ようするに世の中での争いや戦闘行為はしないのが原則です。

noname#70507
質問者

お礼

自分のつまらない質問にわざわざ丁寧な回答をくださってどうもありがとうございます。それではほかにも教えてもらいたいことがあるのですが、 (1)「アメリカへの移民がどれだけ聖書の教義を分かっていたかは怪しい」 とのことですが、聖書の正しい教義の解釈は誰が決めるのでしょうか。移民たちも自分たちだけは正しい信仰を持っていると信じていたと思います。自分の解釈は正しく、ほかのは間違っているというのは恣意的な解釈にしかなっていませんし、論争が二千年ちかくの十分な時間がたっても終わらないというのは、そもそも正しい解釈など(未来も含めて)できないということを示していると思うのですが。 (2)「クリスチャンだけ!というのがミソです。」とのことですが、それではキリスト教は相手が同じクリスチャンには「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出し」、自分と異なる宗教を信じるものは「神の敵」なので、親切にする必要はないし、(極端には)十字軍のように殺人をしてもよいということですか。あるいは同じ宗教でも神の教えに反するなら(金の子牛を礼拝したユダヤ人のように)、神の指示があるなら殺人による解決もゆるされるということですか。 (3)「クリスチャンたちは悪魔・サタンがいるので、この世界に争いがある」とのことですが、そもそも世界を創造したのは神というのが聖書の教えですよね。それなら悪魔も神が創ったことになるのではないのですか。 そもそも神がすべての存在が法に厳格に従うことを望むなら、どうして「法が破られる可能性」などを作ったのですか。私には世の中の悪を悪魔に押し付けるのは、全知全能の神を無力にすることなので矛盾していると思うのですが。 (4)キリスト教徒でなくては天国にいけない、というのは私にはキリスト教徒の集団的な傲慢にしか思えません。世の中にはキリスト教徒でなくても、人間的にキリスト教徒よりも優れている人はいくらでもいるではありませんか。イエスを信じるものだけが救われるというのは、キリスト教徒の人間に対する視野が狭いだけだと私は思いますが…。 長い質問ですが回答をどうかお願いします。以前からキリスト教徒に聞いてみたいと思っていた質問なのです。

noname#49694
noname#49694
回答No.2

 キリスト教徒というくくりがかなり実際は曖昧なものです。政治が宗教を利用し、宗教が政治に入り込む。中世ヨーロッパでは国家と教会は同等の権威を持っていた時期もありましたが、現在では国家が中心となっています。  宗教の目的というのは、大衆の人間性を引き上げることではありません。それは一般的の考え方、社会科学的な解釈で、実は大多数のクリスチャンたちはそんなことを微塵にも考えていません。聖書にはさまざまな解釈がありますが、キリスト教の神の目的は万人を救うことではなく、終わりの時代まで未信者や反対者がいることが分かります。ですから、もともと人類全体を道徳的にしようとか、救おうなどとは意図されていないのです。聖書にもそのような記述はありません。それは哲学者の解釈です。ときには聖書を援用してそのように語っただけで、聖書そのものにはそんなことは書いていないのが実際です。  中世ヨーロッパの一連の事件は、やはり一部の権威者たちを中心とした蛮行です。民衆もそれなりに加わったでしょうが、教養のない時代には権威者たちに荷担してしまうのもやむおえなかったでしょう。もう1つは印刷技術の発達の時期をよく考えないといけないのですが、聖書そのものがほとんどの人に行き渡っておらず、ほとんどの人々はよくて説教から聞くだけであったと思われます。ですから、クリスチャンとはいっても、名だけであったといえます。  聖書そのものの大衆に浸透したのは、実際は20世紀に入ってからでしょう。  ですから、神!というのはただの1つの言いやすいスローガンだったわけです。今でいう宣伝広告です。ブッシュが正義!といって戦争にいくのと一緒で、こういったディスコースはたいして機能的に変わっていません。信仰はそれなりにあったでしょうが、はっきりいってクリスチャンとはいえないものの微細なものでしょう。  ですから、キリスト教が万人の道徳性を引き上げるということ自体が、科学的に解釈された混ぜものなのです。科学と宗教の融合というべきかもしれません。倫理学などではキリスト教から取り上げて復興させようとする人もいますが、これも聖書をある意味ではねじ曲げています。  中世ヨーロッパの一連の蛮行は、当然ながら宗教というファクターだけでは考えることは難しく、かなり入り組んだものです。

noname#70507
質問者

お礼

回答ありがとうございます。ではキリスト教(聖書の教え)の目的は別に大衆の人間性を引き上げることではないのですね。 (1)それでは新大陸アメリカに移住した、聖書に立ち返る福音主義を唱えたプロテスタントの開拓者たちが行った、ネイティブアメリカン達を虐殺したのも聖書の教えに反しないということなのですか。彼らは聖書に忠実なクリスチャンたちだったはずです。 (2)またキリスト教徒の考える理想の社会というものは、宗教の目的が大衆の人間性の引き上げでないというのなら、他者の痛みや苦しみを共感しないような社会でもよいのですか。 返答お願いします。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.1

政治が宗教を利用したためです。 これはキリスト教に限ったことではありません。 政治勢力が゜、自らの主張を正当化するために宗教勢力を取り込み、またその流れに宗教が乗り、勢力をかくだいしようとした事が、相乗効果となって、世界をおおいました。 また、各宗教や各民族に固有の理念や生活スタイル、慣習があり、それが宗教の戒律や慣習に取り込まれたため、他民族・他宗教と相容れない性格を作り出してしまった事も、原因のひとつです。 大衆の人間性を引き上げるのに成功した宗教として、過去においては「カタリ派」(キリスト教の一派)、現在においては、「バハイ教」(イスラム教シーア派からの分派)がある程度ではないでしょうか。

noname#70507
質問者

お礼

回答ありがとうございます。たしかに政治が宗教を利用したというのもあると思います。また反対に宗教も自説を拡大するために政治を利用したともいえるでしょう。私はニーチェの著作「反キリスト」の次の説に同感するものがあります。(…は長いので省略しました。) 「私はキリスト教の本当の歴史を物語る。すでにキリスト教という言葉がひとつの誤解である。根本においてはただ一人のキリスト教徒がおり、その人は十字架上で死んだのである。…キリスト教徒であることのしるしをキリストによる救済という信仰のうちに見るなどというのは、とんでもない誤解である。…ただ十字架上で生き抜いたあのような生だけがキリスト教的である。…真の根源的なキリスト教はどんな時代でも可能であろう。…信仰ではなく行為…違ったありかたであること。」 福音とはいかなる対立もないということであり、天国は死後にやってくる何かではなく、今ここで実現されるべき心の状態であり、神の国は心におけるひとつの経験である。そこには罪などという概念は微塵もない。神と人との隔たりは現にもう取り払われているからだ。 イエスの弟子たちは、キリストのこうした教えを誤解して、(たとえば人間は生まれながらにして罪びとである、キリスト教を信じないと地獄におちるなど)その教えとは反対のものが残った、というのには一理あると思います。

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