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生きる意味が分からない。

noname#142902の回答

noname#142902
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回答No.12

生きる意味が分からない、とありますが『生きる意味が完全に分かった人はいない』はずです。 歴史上、完全に人生の意味を解読した人はいません。 なぜなら誰かが人生の意味を解読したなら質問者様も学校で習うはずですので。 その生きる意味を探すためにも勉強した方が良いと思います。 本を読むためには日本語を使えないといけません。 ですので国語が大事になってきます。 国語をたくさん勉強すると人生の意味を知るために本を読むときに役立ちます。 昔の人の人生を知るために歴史を学びます。 中学生の場合は年号の暗記などが嫌でたまらないと思います。 (私はそうでした……。) しかし将来歴史を深く知りたいときに年号の暗記などが効いてきます。 年号を知っていればある事件について深く知りたいときに役立ちます。 今放送中の『坂の上の雲』というドラマは日露戦争も入っています。 しかし日露戦争がそもそもどういう事件でいつ起こったのかわからなければ話になりません。 学校ではつまらない歴史も追及すると深くて楽しいです。 話は飛びますが第二次世界大戦では15歳の少年も兵隊になりました。 質問者様が銃を持って人を殺せと教えられたらどうしますか? 質問者様は人を殺せますか? と、いうドラマを学べるのが歴史です。 歴史をたくさん勉強すると昔の人の考え方を参考に出来ます。 外国語の本を読むために英語を使います。 学問も追及すると日本語の本では足りなくなります。 その時に大事になるのが英語の力です。 実際、今の私は専門的な学問を学ぶために英語の本を使っています。 また外国の小説などは英語が出来ると読める本の幅が非常に広がります。 外国の小説も面白いものは非常に多いです。 英語をたくさん勉強すると人生の意味を知るために読める本の種類が一気に広がります。 ちなみに英語の歌で素晴らしいものも非常に多いことを付け加えておきます。 どの国でどのような考え方や国民性があるのか知るために『地理』があります。 中国人の考え方、オランダ人の考え方などを知れば人生の意味も少しは分かりやすくなります。 地理をたくさん勉強すると色々なく国の考え方を知ることが出来ます。 病気にならないようにするために理科を勉強します。 大学レベルの理科まで進むと本当に役立ちます。 理科をたくさん勉強してそれに従って運動をすれば人生の意味を知るための体力がつきます。 数学は何のために学ぶか? それは時代を問わない真理を学ぶためです。 そして『考え方』を学ぶためでもあります。 数学を沢山勉強すると数学の理屈っぽい考え方が人生の目的を考える時にも非常に役立ちます。 嫌な学校の勉強も実は人生の意味を知るためには意外と大事です。 これらの学問を追及すると人間の人生の意味がおぼろげながら見えてきます。 私は勉強をたくさんたくさんしたので人生の意味が大体分かっています。 (自己満足的な考えですが……) 逆に言うと勉強しないで人生の意味は分かりません。 残念ですが……。 質問者様の年齢なら学校の勉強が嫌いだと思います。 私もそうでした。 いえ、私は今でも勉強は嫌いです。 ゲームの方が好きです。 テニスの方が好きです。 ダベる方が大好きです。 ですので「勉強しろ」とは基本的には言えません。 大人でも勉強は嫌いなのです。 しかし大人は勉強や仕事に我慢しています。 質問者様が(このやろ)と思う(?)両親や学校の先生も色々と苦労してます。 偉そうなことを言う(私もですね……)ので憎らしいのですが……。 中学生時代にしか楽しめない、大人になる前しか楽しめない楽しみは確かにあります。 遊びでしか学べないこともあります。 『遊びも大事』です。 しかし多く勉強するほどにたくさんの知識を得られて正しい考え方が出来るようになります。 『遊びはその場で楽しい』ものです。 『勉強は後で役に立つ』ものです。 ですので『よく遊びよく学べ』と言います。 勉強は大事ですが遊びを忘れた人生は寂しすぎます。 関係のない話が多く、説教みたいですみませんでした。 ただ、中学生くらいですと勉強が嫌で嫌でたまらないと思うので大人から見た(両親や学校の先生が教えてくれない?)メッセージを伝えておきたいと思って書いておきました。 質問者様は私に対して(説教臭い……)と思うかもしれませんが、大人になるとほとんどこうなります。 質問者様の人生が幸(さち)多きものになりますように……。

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