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ボードレールの魅力?

十九世紀フランスの詩人シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)の魅力はどこにあるか?「ゆるい文学談義」をしようではないか?というのが、この設問の趣旨です。 日仏問わずボードレールに捧げられたオマージュは数知れず、影響力は図りしれません。しかし『悪の華』第二版を通読してみると、それが厳密に構成されたものであるという指摘はあるものの、テーマが多岐に及んでいて、彼に対するイメージは力点を置く詩で変わるように思います。 ・恋愛の詩人 ・メランコリックな詩人 ・サディスティックな詩人 ・宗教的な詩人 ・魔術的な詩人 ・政治的抵抗の詩人 ・貧者の側に立つ詩人 ・ダンディズムの詩人 ・芸術至上主義の詩人 などなど、あるといえるでしょう。 上記で書きつくせないほど、切り口によってボードレールの印象は大きく変わるはずだと思います。しかも、それぞれの要素は反目し合うこともあります。一例をあげれば、思いやりのある恋愛詩を書いたかと思えば、サディスティックな側面をのぞかせるなどです。読者の期待を唐突に裏切るという矛盾した言葉を彼の詩集は総体として抱えていると言えます。 ボードレールという作者に対する矛盾したイメージを統合して整合性をつけ、何が正当であるかと議論することは、この質問の趣旨ではありません。むしろ多様性を認めた上で、個人的かつ主観的な読書体験として、ボードレール作品が魅力的であるといい得る見地を、楽しみとして語ろうというのが、設問の趣旨です。これは趣味に属する類の設問なので、意見を戦わせるというより、文学談義を希望しています。 ボードレール作品で議論するテクストに制限は設けません。韻文詩のみならず、散文詩、日記、評論、書簡を含めてください。引用してくだされば議論が具体的になってありがたいですが、日本語でも仏語でもよいです。 個人的な感想、分析をお待ちします。

noname#130919
noname#130919

みんなの回答

  • cyototu
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回答No.19

どうやら貴重な方にお目に掛かれたようで、その幸運に感謝しても良さそうです。私は、若い頃腕っ節が強くて、防衛大学辺りの武人になって、猪武士になりたいと考えていたことがあった。しかし、その夢は破れ、何の因果か物理屋になってしまった。家のかみさんに言わせると、あんたが軍人になっていたら、真っ先に飛び出して行って玉に当たって死んでるに決まっているってなことですが、人間塞翁が馬で、その夢が破れて感謝しております。 身の程知らずにも、詩に関する文献を貴方の足の爪の垢程も読んでないこの私が、突撃~~~とばかりに、猪じゃなくて、蟷螂が斧を振り上げているんじゃないかってな状況かも知れませんね。人間、分を弁えにゃいかん。でも、私の尊敬する戦後の最大の宰相吉田茂が晩年に長生きの秘訣を聞かれた時に「そりゃ、わたしゃ人を食って生きて来たからだ」ってなことを言っていたので、私も人を食って生きて行くことに決めた。 今までの遣り取りで、具体的な詩や散文詩についていろいろ教わって来たが、未熟者の私がそれを咀嚼するのは大変だと思った。私も物理屋っちゅう異様な文化の中でたっぷり色が染まって来た人間だ。アメリカのNPR(National Public Radio)で、いつぞや入れ墨彫りの名人がインタビューされて 「何が難しいて、一度彫り込まれたへた糞な入れ墨を直すこと程難しいことはない」 ってなことを言ってたが、既に色が染まってしまった者を説得するのは大変だと思うよ。でも私の先生も言っていたが、 「講演のプレゼンテイションで前の方に座っている年寄りを説得しようなんて考えちゃ駄目だ。あいつらの世界観を今更変えることなんか出来ない。後ろの方に黙って座っている二三人の若いのが面白がってくれたらそれで十分だ。どうせ、その年寄りはじきに死んで行くが、若いのが面白がってくれたら、お前の結果が後々どんどん発展して行くんだから」 って言っていた。 でも、私も紫色だかショッキングピンクだか知らないが、ドギツイ色眼鏡を掛けながら、何とかあんたの言っていることを理解しようと努力している。何か私が為になったと私が考えることが出来れば善し、そうでなかったとしても、昔炉端で年寄りの話しを黙って聞いていた若者が、たとえそこでは無言でも、その内容を後生に伝えて行ったように、ここの遣り取りを無言で聞いている若いのが一人でも興味を持ってくれたら、十分生産的だったと言うことだ。だから、遣り取りの結末を心配することはないよ。 今までの遣り取りは、どちらかと言うと自己紹介の所がある。ところが、私が世界をどう見ているかに関して、ほとんどその情報が貴方には伝わっていないと思う。そんな状況では、お互いがすれ違って生産性が落ちてしまう可能性があると思うようになった。貴方は数学を齧ったことがあると言われた。私は同じ物理屋でも、たまたまやっている主題のお陰で、普通の理論物理屋の人達よりも多分数学屋さんと議論する機会が多かったような気がする。その結果、数学の文化と物理学の文化が直交していることや(すわわち、内積がゼロだと言うことや)、だから物理学の発想とは正反対のところにいる数学という異文化の中にいると、私は居心が悪くなるなんてことが分かるようになって来た。そんな時、「数学とは何ですか」と言う質問があったので、そこで、数学だ物理だ芸術だに関する私の考え方をまとめてみた。 http://sqa.scienceportal.jp/qa4967451.html に載っているので、それを先ず貴方が先ず読んでからこの続きの議論をした方、より生産的ではないかと思うようになった。そこでは何回にも渡って投稿してあり、少々長いが、ここでの会話を出来るだけ楽しくするなめに、お手数だがそれを先ず読んでもらえないかな。そうしたら、貴方も私をどう攻めたらい良いか分かるはずだ。咀嚼に時間がかかるようだったらそれでも構わない。もし読んで頂けるなら、古い順に読んでみることをお勧めする。ただし、最後の私の投稿のところで、以前の投稿のところでの致命的な誤植を修正してあるので、その部分を先ず読んでから、時系列順に読んで頂けると有り難い。 その間に、私も貴方の今までの返事を咀嚼する努力をしてみますから。

noname#130919
質問者

お礼

猪突先生、丁寧な再回答、どうもありがとうございます。 >価値観の違いや、議論のすれ違いが、の世の中を多様で豊かな物にしているのですから。 初めに申し上げると、私は猪突先生とは物別れにはならない気がします。ご経験に裏打ちされた議論は、仮に論理的な平行線があっても、私にしてみたらご経験に敬意を払うことによって、得るものが大きいのです。前置きはさておいて、単調直入に張ってくださったリンクの感想を述べましょう。非常に素晴らしいですね。 (1)数学と物理学 >数学者は言語学に於ける文法学者であるのに対して、物理学者はその言語を駆使して自分の埋め込まれた世界を描き出す詩人だと思っております。 >ゲルファントに言わせると、詩人のように「ないもの」から「あるもの」を神懸かって創り出すのは、先ずは物理学者であり、そのとんでもない論理の飛躍を、あたかも指物師の如く、巧妙に論理づけてくれたのが数学者の役割だったという 順序で、数学の多大な進歩がなされてきたことになります。 >数学とは創造的な営みを通して、より一般的で統一的な『美』を追求する学問であり、従って、この学問は芸術に大変近い営みであると言われることもあるが、実はそうではなく、他の学問や芸術的な営みと比べて、最も芸術らしくない学問である。 まず、これらのくだりを読んで、自然科学といっても私が見ていたのは、数学なる横暴な学問からみた局所的な議論に過ぎないと思いました。 数学は文献学に近いのかもしれません。文献学とは資料的な物量で論証する学問ですが、資料的に何かが飛べば、それは存在しないも同じ――と断定するという暴力を持っています。数学も裏付けの学問であって、ともすれば「何か存在するかもしれないが、論証できないなら、それは存在しないも同じ」と断定する力をもつでしょう。 これがいかに粗暴であるかは、私は文献学でよくわかります(歴史は厳密には専門外ですが、たとえばナチスのホロコーストも資料が揃わないと、存在したということができません。ナチスは痕跡を隠滅しているのですから、こうなると何が事実かどうかも分からない事態が発生します。そして被害者の主張に対して、文献学は粗暴にもナチスの肩をもつことになるのです)。 (2)数学と文献学の創造性 数学が創造的であるのは逆に「論証的できるなら、たとえ具体例がまだ発見されていなくても、それが存在する」といい得るからだろう――と私は素人ながら思います。もっとも次のように反論できることは承知しています。 >「数学屋さんて大変不思議な連中なんですよ。彼等は本気で無限大と言う状態があると思っている。我々物理屋にとっては、無限大とは単に、ある大きさと比べて途轍もなく大きい、と言っているだけですからね。」 この真偽に関して私は意見をもつほどの立場にありません。ただし私の知る文献学の範囲におきかえると、数学的暴走をやるのは、フーコーのエピステーメーでしょう。大量に資料を集めてきて、「文献がある以上、~~という時代には――という共通認識があった」という議論を展開します。「資料がある=存在する」という見方を極限まで追求した考察手法です。ただ文献に残っていない問題はどうなるのか?など疑問は残ります。私はフーコーも大変好きなのですが、敢えて批判すれば、です。問題は創造性とは何かという点に絞られるでしょう。 (補足へと続く)

noname#130919
質問者

補足

(お礼からの続き) (3)創造性とは何か >実際、芸術を芸術たらしめている最も本質的な要点は、あらゆる可能な形態の中から、「あれではなくて、これだ」と言う、その制作者の決意によって一つの事物を引っ張り出し、その結果、可能性の集合と言う均質は存在形態の対称性を破っ て、その特殊な個性、即ち、より非均質で非対称性な個性を刻み込まれた文化を創り上げて来ることです。  大変クリアーなまとめなので、私が噛み砕くまでもないでしょう。人文科学で、文献学に対立するのは、批評理論です。ドゥルーズ、デリダなど思想家の仕事のことです。文献学的な論証はできないが、問題提起そのものに価値があるという論考です。これが物理学に近いのかもしれません。 これを詩人の営みであると呼ぶのは、「ロマン主義まで」という限定付きなら、全く的をえていると考えます。この点は改めて説明する必要ないかもしれませんが、たとえばドラクロワの絵画は物事を抽象化し、画家が観たものを強烈な力で観衆に伝えます。すなわち「その制作者の決意によって一つの事物を引っ張り出し、(……)個性を刻み込まれた文化を」創出するのです。若きボードレールもそれを目指したのでした(ただ不幸にしてロマン主義は終わりかけていましたので、次を探すのですが)。 ロマン主義以降の近代詩における創造とは何でしょうか。あまりに大きなテーマなので、これは私の考えだとお断りしておきます。思いきっていえば、詩とは自然科学の考察対象である、宇宙そのものを「想像=創造」することなのです。詩人が物理学者なのでは無く、読者が物理学者となって考察することを要請している――これが近代詩における大きな転換です。雨合羽さんのNo6で書かれた言葉は上のような意味を踏まえてであったと私は考えます。 >その後の芸術の動きと言うのは、テーマやイマージュを美しいと喜ばせるのが芸術家の仕事ではなく、マスを相手に、読者や鑑賞者にどういう普遍を見せてやれるかというところに勝負をかけることになるのですね。 (私の解釈に基づいて補足的に説明すると)芸術家がテーマを決定したその決断に同調して「美しい」と感じるのではなく、詩が自然科学が考察する事象であるかのごとく「普遍」の存在を読者の前に、ごろっと投げ出して、考察させるということになるのです。 「何と傲慢な!?」と思うでしょう。わざわざ他人の書いたものを観察してやるだと?作者は何様のつもりなんだ?と感じるかもしれません。私も最初はそう思いました。だからボードレールつまらない説を唱えていたわけです。この点をどう説明しようかと思案しましたが、すでに手がかりをつかんでらっしゃることに思い当りました。 >音楽とは音が時系列として流れてくる時に、我々の頭脳がその前後の音と音の間の時間相関を感じている。その相関の記憶によって、まだ出てきていない音を予感し、それが予感通り出てきた時にも楽しむが、場合によっては、予想外の音を聞いた驚きも楽しむ芸術なのだ。 この時、音楽そのものは物理学の考察対象であって、「本当の音楽」が見出されているのは「聞き手=考察者=物理学者」の認識の中であるといえるでしょう。 (4)まとめ 近代芸術とは詩人が物理学者なのでは無く、鑑賞者に物理学者であることを要請するものなのです。芸術の受け手こそ、自らのパースペクティヴを決めて観察することを求められているのです。かくしてゲルニカなど歴史問題を提起する作品は、観察者に学者となることを要請することもあるでしょう。詩に関しては詩人となって読むのもありでしょう。私が、littelekissさんが「人と海」に関して詩で応答してきたのを理想と言ったのは、こんな理由です。

回答No.18
noname#130919
質問者

お礼

回答ありがとうございます。紹介くださった論文、素晴らしいですね。リンクが多いとそれを確認するのに時間がかかるので、お礼が遅くなるのをお許しください。『レノーレ』はボードレールの友達のネルヴァルに関連させてお答えしてみます。 フランスにゲーテが入ったのは、ジェラール・ド・ネルヴァルを介してでした。彼は「シルヴィ」という恋愛小説の作者として知られますが、ドイツ語が堪能で、二十歳にしてゲーテの『ファウスト』を訳してゲーテ自身に絶賛され、ドイツの詩篇も訳しました(ちなみに世界で一番美しい小説と言われると、「シルヴィ」だという人もいます。『火の娘たち』というアンソロジーに収録されています)。 ネルヴァルがドイツ文学に関心をもったのは、産褥で亡くしてしまい顔を観ることが叶わなかった母の面影を探すという要素があったのですが、なぜドイツかと言えば、それは彼が逆説的にもヴァロワという故郷の伝統的な言葉の残滓をドイツに感じたからだと言われています。ヴァロワの文化は自国内では塗り替えられ、忘れられていますが、逆に外国にそれが残っているというのです。(こうした外国において自国の古い文化が保存されているという転倒は、次の例と同じです。たとえば中国ではもう漢字は変形して省略体を使いますが、日本では昔からのものが残っている――など。同じことでカナダでは古いフランス語が残っています)。 ここには世界文学というべき考え方がここにはありますが、この論文ではドイツとケルトとの関係を論じることで、まさにフランスにおけるドイツ文学の受容についても核心的な示唆を与えている――と私は思います。ケルトはフランスの北西ブルターニュ地方にもありますから。勉強になりました。どうもありがとうございました。

  • amaguappa
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回答No.17

リトルキスさんの話、鼻息ってそりゃわかりません。。。 ちなみに、蛇足ながら質問者さん De l’arriere-saison le rayon jaune et doux は「晩秋の黄色く弱い光」 le rayon jaune et doux de l'arriere-saison あとさきほど投稿したHarmonie du soirの訳詩を、ご紹介のサイトで見てみました。 お花はあたりが暗くなって見えなくなって香りだけを知覚できるようになるから s'evaporerですよね。 そういうことを直感的に伝えられない。 日本語への翻訳というのは不自由ですね。 全体では、昼の輝きから綺麗な夕空を経て夜の闇に変わってしまうというさまを ある気分に乗って擬人法的に謳いあげている詩だけれど、 そこにまず一読で余計な深読みを遮断する簡素さがあると思います。 日本語にするとき、注意しないとその簡素な単純明快さを離れてしまうのですね。 比喩というのはフランス語では軽くひるがえるものだけれど おそらく日本語ではべっとりと掘りかえす意味深なものなのでしょう。 そこにはまり込んでしまうのをなんとかしないと詩の翻訳などは成り立たなくて、 大家の先生でもこの点はだめなように思っています。

noname#130919
質問者

お礼

ありがとうございます。littelekissさんの方に関係するので、先にこちらにコメントしてしまいますね。「鼻息が荒い」は男性を膝枕するイメージがすぐに自分の体験と重なり合わさったからですよ、きっと。 De l’arriere-saisonは「季節の終わり」を意味し、「晩秋・晩夏」です。ここでは冬になる前の秋の終わりの最後の光を楽しもうという話なので「晩秋」が実質的な意味です。ただ語感としては「過ぎゆく」の方が惜しい感じがするなと思うのです。阿部訳もそうなっていますね。 形容詞douxは「甘い」と「弱い」がありますが、私は敢えて「甘い」とかけていると考えました。というのも、最後の人と気を恍惚と味わっている感覚が「甘い」の方がよく出ると思ったので。それに動詞はgoûter「味わう」です……光を味わうとは少し奇異な気がしませんか。小学館ロベールの第一語義の食物に続いて、第二語義は感覚に対して使われるとあります。光には当てはまらないでしょう。この動詞が使用可能なのは形容詞のdouxがあるからです。各人ここの解釈は工夫しており、パリの光の弱さを説明するために「弱い」としている訳が多くありますが、私は「弱い」では少し不満だったのです。それにボードレールは共感覚の作家ですよ。次のようにお認めでしょう。 >こういう具合に、嗅覚視覚聴覚味覚触覚を詰め込んで、なんとか感覚的にうったえようとしているその感覚が、奇妙な個人の情動で複雑極まりないですね。 ね?だから、これは解釈の裁量の範囲でしょう。 気をきかせてくれたのだと思いますが、私も文法がわからないわけではないのです。きっと雨合羽さんは優秀で面倒見がいい方なのでしょうけれど。 訳はご自分で訳してみてください。おそらく散文を普段はお読みなのでしょうね。でも詩の言語は指示対象がないので、必ずしも同じように訳せるわけではないのです。どうも私の印象だと雨合羽さんはご自分の手は汚しませんね。おそらく完璧な訳でない限り嫌なのだろうと思いますが、詩を読むというのはそもそもがエゴイスティックな行為です。 Harmonie du soirはそちらの方でコメントしますね。

回答No.16

余談なんですが… 「鼻息が荒い」ってもちだしたのは 何を隠そう実は… [No1へのこの回答への補足]の 短い勤めです! 墓が待っています、貪欲な墓が! ああ、ここまま、私の額があなたの膝の上で 白く灼熱の夏を惜しみながら 過ぎゆく季節の黄色く甘い光を味わうままにいさせてください。 ↑ この訳の「――過ぎゆく季節の黄色く甘い光を味わうままにいさせてください。」 この行の≪黄色く甘い光≫を≪味わうまま≫のこのことばをコチョコチョといじくってたら ひょんなところから「鼻息が荒い」がでてきたんで何かこのフレーズを使えないかと そしたら、間のいいことにcyototuさんが立て続けにボリュームいっぱいの 回答をお書きだったので当て字ならぬ「あてな」 ちょっくらお名前拝借(^人^)cyototuのとっぁんスマンでごわす。 マジマジ、黄色く甘い光ってなんだ?ん???と、 ふと蜜月と言葉が浮かんだんですよ。 で、蜜月をひくと――― 【1. honeymoon ハネムーン 英語 語源 他言語との比較】 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4ADFA_jaJP336JP337&q=%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b9%e8%aa%9e%e3%80%80%e8%9c%9c%e6%9c%88 いつでも二人はシンデレラハネームーン~♪ 時間に追われるシンデレラハネームーン~♪ 結婚は墓場?アンビリーバブル  海野十三 http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/43667_17433.html http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3367_13498.html http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person160.html

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.15

補います。 それは象徴派がかなえようとすることなのですが  ↓ それは文学では象徴派がかなえようとすることなのですが 

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.14

あ、10ではなくて6でした。つづきです。 HARMONIE DU SOIR Voici venir les temps ou` vibrant sur sa tige Chaque fleur s'evapore ainsi qu'un encensoir, Les sons et les parfums tournent dans l'air du soir; Valse melancolique et langoureux vertige! Chaque fleur s'evapore ainsi qu'un encensoir; Le violon fremit comme un coeur qu'on afflige; Valse melancolique et langoureux vertige! Le ciel est triste et beau comme un grand respoir. Le violon fremit comme un coeur qu'on afflige; Un coeur tendre, qui hait le neant vaste et noir! Le ciel est triste et beau comme un grand respoir; Le soleil s'est noye dans son sang qui se fige. Un coeur tendre, qui hait le neant vaste et noir! Du passe lumineux recueille tout vestige! Le soleil s'est noye dans son sang qui se fige... Ton souvnir en moi luit comme un ostensoir! これは1行12音綴の濃厚な口当たりで、パントウムで繰り返しが入れ違いに現れる技巧的な形式をとっており誤植ではないですね。おかげで打ち込みが楽でいいや。 各行末を見るとフランス語の分からない人でも韻を踏んでいるのがわかるでしょう。 最初はかわいらしいんですね。お花が茎をゆらゆらして寺院のお香みたいに香気を放っている時間だと言って、音と香りが夕暮の空気にめぐるのがつまりね、ときて「憂鬱なワルツで物憂い眩暈」だと言うんですから、やはりロマン派ではありませんね。個人の事情がたっぷりあって悲哀に満ちた気分なんですね。夕方のいい匂いの中で憂鬱になってるところがボードレールですね。 二段落目にそれがいよいよ詳しく、お花はお香みたいに香気を発する、バイオリンは悲嘆に暮れさせられた心みたいに震えている、こんなのはじつに憂鬱なワルツで物憂い眩暈だとまた念を押し、空が悲しく美しく、まるで寺院で聖体を置く祭壇みたいだと、妙な雰囲気を高めています。 三段目、バイオリンが悲嘆に暮れさせられた心みたいに震えているけれど、その心とは甘く優しい心で 広大暗黒の虚無を憎む心だというのですね。空は悲しく美しく聖体の祭壇のよう、太陽は凝固した自分の血に沈んだ。理屈ではなくそういう気分なのでしょう。気分を表現するための雄弁な比喩だと思います。言明しない比喩であるから読者は自分の体験を投影できます。繊細な自分と永遠に失われたか失われそうなもの、悲しい現実と芳しい理想や夢想に引き裂かれる体験など。美しすぎて痛むなんていう経験もあるでしょうか。 四段目、広大暗黒の虚無を憎む甘く優しい心は、輝かしい過去の面影をかき集めます。太陽は凝固した自分の血に沈んでしまった。私のうちの君の思い出は聖体顕示台のように輝いている。 聖体顕示台ってたしか教会においてある背の高いガラス器みたいな物でしたね。 こういう具合に、嗅覚視覚聴覚味覚触覚を詰め込んで、なんとか感覚的にうったえようとしているその感覚が、奇妙な個人の情動で複雑極まりないですね。 このあともうすぐ時代は心理学ブームを迎え、すでに精神は脳神経の働きだといわれていたところから一歩進んで、精神を科学的に解明しようとする研究が盛んになります。 こうしたことはロマン派の土壌で培われたものでしたが、近代科学の幕開けというのは人間が同じ反応をしたり同じ仕組みを持っていたりすることを解明しようとし始めるのです。それは象徴派がかなえようとすることなのですが、ボードレールはそこへ橋を掛けた転換の人だと思います。

noname#130919
質問者

お礼

ありがとうございます。「夕べの調和」Harmonie du soirは面白い詩ですよね。おっしゃるようにシンプルで、何といってもその音楽性が素晴らしい。しかしまずはせっかくですから、訳した上で私もまとめてみましょう。七五調にした素晴らしい鈴木信太郎訳も最後に載せますが、少し私は解釈が違うので。それに私は補って訳してもいいかなと思っているのです(個人的な楽しみの範囲でやっている場合なら特に)。 夕べの調和 ああ 花々が茎から震える時刻がやって来た。 この時、教会の釣り香炉のように、花々は蒸発する。 音と香りは夕べの大気を巡っている。 メランコリックなワルツよ、気怠い眩暈よ! 教会の釣り香炉のように花々は蒸発する。 ヴァイオリンは苦しみを与えられた心のように震える。 メランコリックなワルツよ、気怠い眩暈よ! 空は悲しく美しく、聖体を安置する大きな祭壇のようだ。 ヴァイオリンが苦しみを与えられた心のように震える。 広大で暗い虚無を嫌う、優しい心よ! 空は悲しく美しく、聖体を安置する祭壇のようだ。 太陽は凍った血の中に溺れてしまった。 広大で暗い虚無を嫌う、優しい心 それは光り輝く過去から、あらゆる名残を集める! 太陽は凍った血の中に溺れてしまったが…… お前の思い出は私の中で、太陽の形をした聖体顕示台のように輝いている! (私訳) (1)詩の全体 まず詩は夕暮れ時から始まります。段々と視界が悪くなり、湿気も降りてきたのでしょう。この時、花は震え、香りを強めますが、その時の比喩が凝っています。すなわちs’évaporer「蒸発する」をつかうのですが、あたかも花は気化して消え失せ、香水になったかのようです(ご指摘の通りですね)。 さて香りに囲まれ恍惚となった中で、この語り手はヴァイオリンの音色を耳にして、さらに意識をさらわれます。気分はワルツのように高揚する行一方、寂しい気持ちも高まってくる。そして夕暮れを目にした時、夕焼けは太陽が血にまみれていると感じてしまうのです。おそらくこれは葬儀だと解釈できるでしょう。詩は全体に香炉や聖体配置台、聖体顕示台など教会のイメージが挿入されていますから。葬儀の際にヴァイオリンを弾きますし整合性は付きます。ここから考えると書き出しは、もう十分埋葬までで心を覚悟してきたのだけれど、心が決め切れずに「さぁお別れの時間が来た」というくらいの気持ちだと思います。そして震える花とヴァイオリンは葬儀の参加者の心情を反映しているのかもしれません。 しかし現実の太陽が失われたにしても、聖体顕示台が彼の心の中で大きなイメージを占めます。それは教会にあるパン(イエスの身体の象徴)をのせる台で、重要なのは太陽の形をしているということです。 http://fr.topic-topos.com/ostensoir-et-calices-garches いうなれば現実の太陽は死んだが、心には人工の太陽が残っている、ということになるでしょう。心には調和が訪れるのです。 (2)形式と内容 この詩の最大の特徴は、テーマが詩の形式と一致しているということです。まずこれは日本語でわかりますが、前の節の二行目と四行目を、次の節の一行目と三行目で繰り返しています。雨合羽さんが指摘してくれた通り、パントゥムと呼ばれる形式(スマトラ、マラッカの詩の形式)のこれは亜種です。 しかしさらにボードレールは捻ります。それは文末の韻を変えないというものです。これは日本語ではわかりません。通例は(略号を使うと)、第一ストローフがabbaとなれば、第二ストローフはcddcとなるはずです。ところが「夕べの調和」では最初から最後まで、abbaとなっています。ここまで過剰にやるのは珍しいと言えます。 なぜこれをやったかですが、それはワルツWalseという単語に対応しているのでしょう。朗読すれば明らかになりますが、実際、ゆらゆらと同じところをまわっているように感覚になるでしょう。 (補足へと続く)

noname#130919
質問者

補足

(お礼からの続き) そしてこの形式は話者の思考のパターンであるメランコリーと対応しています。私はおそらく雨合羽さんの指摘は間違ったのではないかと思うけれど、シャトーブリアンに顕著であったように、メランコリーはロマン派の特徴の一つです。そしてこれは古典的な様式にさらに遡ります。 現代でメランコリーは憂鬱症や病理とみなされていますが、それはフロイト以降のことで、ボードレールの時代は全く別物です。それはアリストテレス的な思考様式で、気分を高揚させ、喜びとも悲しみの二極の間を彷徨うというものです。結論をわざと出さないで「あれでもないこれでもない」と考えているからこそ、それは精神を崇高にする技巧であるとされます(スタロバンスキーのLa mélancolie au miroirを参考にしてください)。 こうした感情の起伏もまた、まさしくワルツと対応しているのです。それは、花の震えvibrant、ヴァイオリンの震えfrémirとしても、効果的に暗示されています。ここにおいて詩のテーマと形式は一致しています。これはおっしゃるように、象徴は詩人らがさらに行うことになるでしょう。 (3)伝記的解釈 >個人の事情がたっぷりあって悲哀に満ちた気分なんですね。 この詩は抒情詩として読めますが、ご指摘のように自伝的要素も看取できます。詩の発表時期は1857年ですが、実は創作は1846年ごろから断続的に行われただろうとされています(というのもこの詩はホフマンの影響下にあり、それに関する言及が1846年ごろにあるので)。おそらく若いころからボードレールの中に何かのモチーフがあったのでしょうが、結実するのは、1851年以降に恋愛関係にあったサバティエ夫人との破局が直接の原因であったでしょう。この点については二つの点からわかります。 まず詩集における「夕べの調和」の位置ですが、そこまでがちょうどボードレールがサバティエ夫人に、あなたに宛てた詩です――と書いた箇所にあたります。そしてサバティエ夫人の渾名はアポロニ―、すなわち太陽神アポロンです。男勝りの快活さをもって、男神の渾名をつけられたのです。 サバティエ夫人はもちろん死んでいません。ただし破局もありますが、おそらくサバティエ夫人は相当に惑乱していた時期でもあったのでしょう。若い頃はものすごく美しい人で、彫刻家のクレザンジェは『蛇にかまれた女』をサバティエ夫人の身体から直接抜いて完成させます。この彫刻は一方向からだけでは観とれないので、映像を示しましょう。 http://www.youtube.com/watch?v=mJMajwe83e8 1846年頃にはクレザンジェとサバティエ夫人は男女の関係でした。ところが1850年代も後半に近づくと、彼女の容姿は急激に衰えます。原因は麻薬でしょう。身体はだぶつき、顔はもう六十を超えたようになってしまいます。サバティエ夫人に恋していたボードレールは痛く失望したことでしょうね。しかし現実の太陽は失われても、思い出の中で物思いに耽る自由は許されるのです。 私的な深読みをすれば、降りようとしている夜の帳で視界が失われてサバティエ夫人の容姿は見えなくなったけれども、思い出の姿を思い返すことによって、その香りやヴァイオリンのような声との調和を保つことができる――としてみたら、ちょっとロマン主義的すぎるでしょうか。私は詩を読む時は、あれこれ考えて遊んでみることが楽しいのです。 (4)鈴木信太郎訳(旧字は改めます) 夕の諧調 ゆふされば 今 花々は 梢に揺れて 香炉のように 花の香が 風に薫じて 音と 薫と 黄昏の空に 渦巻く。 憂鬱なワルツよ、ものうい眩暈よ。 香炉のように 花の香が 風に薫じて、 悩ましい心さながら ヴィオロン 震え 憂鬱なワルツよ、ものうい眩暈よ。 空は 悲しく美しく 祭壇のよう。 悩ましい心さながら ヴィオロン 震え、 大きな黒い無を憎む 優しい心。 空は 悲しく美しく 祭壇のよう。 落日は凝るその血の中に 溺れた。 大きな黒い無を憎む 優しい心は、 輝く過去の ありとある名残を 集める。 落日は凝るその血の中に 溺れた。 君の思い出 わが胸に 聖体盒(ごう)の輝くごとく。 ※訂正 ワルツの綴りを間違えました。Valseですね。少し疲れてしまったみたいで、お許しください。

回答No.13

こんばんは、iacta-alea-estさん。 ほいさ、いくべ 網干毅のリュート夜話 その3 リュートの対話は友情の、それとも愛の語らい? http://www.emclute.com/concert/chapel/aboshi/aboshi3.html 人と海 自由な人は海を愛する 自由な「人」と、いえるかどうかわわからないけれど… 仮に自由な人を精子とおくと その精子がなぜ海を愛するのだろうか? 陸に上がった魚ではないけれど 外に出ればあっという間に乾き命絶えてしまう 反対に水を得た魚とはよくいったもので 水、水があれば泳ぐことができる よって、海を愛するとは子宮=>羊水=>母体 海は鏡であり、心の奥が見える 海の表面は透き通って明るい 覗き込み下へ下へと目をやるほどに 深く深く暗い闇が広がる 白波の絶え間ない到来の中に 気持ちは渦を巻いて苦痛となる 内では、卵子をめざし後ろを振り向くことなく 精子が細い管の中を進みゆく 前からは幾千万の白きものたちが 精も根も尽き果て流れ落ちていく 辿り着けるのか それとも…  ――――― 不安が過ぎる 外では、快楽への自戒 その幻影の中に身を投じよう 目を腕を抱きかかえ、心臓は時折 抑え難い激しい苦しみの騒音の ざわめきから、解き放たれる その幻影―まだ見ぬ我が子 まだ見ぬ我が子を思い浮かべ 我が身を許す 我が我が身を癒す 海も君も静かさと闇の中にある。 人の心の深さは測る事はできず 海の内なる豊かさも知り得ない 何と多くの秘密を持っている事か そしていつしか無数の月日がたち いつも情け容赦なく戦いは続き 二人とも殺戮と死を愛して 永遠の闘士、執念の同朋となる 安定期~十月十日~産みの苦しみ―出産 マリアー、アベ・マリアー~♪ 「カンナさん大成功です!」 http://www.youtube.com/watch?v=CbbjI2G_U8s 【マリアナ海溝】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8A%E6%B5%B7%E6%BA%9D 【海洋地質研究の過去・現在・未来】2000.5 http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/2000/05/00_05_02.pdf

noname#130919
質問者

お礼

どうもありがとうございます。詩に対して詩でコメントというのは、一番理想的だなと私は個人的に思います。ただ私自身はそれができないわけですが。 海と精子のイメージはシュペルヴィエイユからなのかなと思いつつ、拝読しました。ボードレール→ロートレアモン→シュペルヴィエイユという流れですが、海の泡を精液に喩えるのはアフロディーテの誕生のイメージが根本にはあるのでしょうね。 詩には自伝的な要素もあるのだなと思って読みました。ご出産おめでとうございます。精子が赤ん坊だと考えると、最初に自由な人を精子に代えたのは相当斬新ですね。元をたどれば精子である赤ん坊が、どうして母体を愛せるのか、という風に読みかえれます。 そして母体にいる時から、赤ん坊の身になって待つ、お気持ちがよく伝わってきました。誰かの身に自らを投影するというのはバルザック譲りのボードレールの十八番ですから、まさにボードレール的と言えますね(もちろん当時流行りの骨相学の影響もありますが。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AA%A8%E7%9B%B8%E5%AD%A6 パロディ関連についても少し触れておきましょう。ボードレールのパロディはいくらもあるのですが、Youtubeのお陰で、歌が見つかります。たとえば次の歌ご存知ですか。チャイコフスキーにのせてボードレールの「讃歌」Hymneを歌っています。 http://www.youtube.com/watch?v=7dtbU08jQLE キッチュなところも含めて、ボードレールらしいかなと私は思った次第です。 そして更にサラ・ブライトマンがありますね。タイトルがFleurs du mal『悪の華』です。CDの日本語訳だと「嘆きの天使」になっており、ボードレールへのオマージュは隠されています。 http://www.youtube.com/watch?v=B65CFK8YNuE&feature=related クラッシクの良さもあるので、一例としてフォーレを載せておきましょう。「秋の歌」です。 http://www.youtube.com/watch?v=yWZDfwtwOw4 他にもあってHymenを聴き比べたてもらいたかったのですが、Youtubeでいくらやっても見つからなかったのですみません(フォーレの歌謡全集には入っていますが)。 もう一つおまけに書くと、youtubeは面白くて、ボードレールが顔を動かして自作を朗読する加工画像まであります。「通りすがりの女に」です。 http://www.youtube.com/watch?v=69eZg-VeE4w&feature=related No16の「秋の歌」へのお礼はもう少しお待ちください。とはいえ、雨合羽さんが訳を補足してくれましたね。訳の問題はそこに先に書いておきますね。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.12

10です。後の方でHarmonie du soirでも読みましょうか。 > ランボーやマラルメに比べてボードレールが立ち遅れているので、もはや詩作は賞味期限切れである――という言説 何をおっしゃいますか、立ち遅れているなどとわたしはみなしておりません。 時代を戻ってユゴーのほうが、詩を読んで受け取るものがあるのではないかとすら述べております。 わたしは、ボードレールの魅力は近代性という新鮮さ、同時代性にあった、と考えています。そのほかにはロマン派の巧緻をみます。 現代のわれわれはそれをセンセーショナル---ポーの用語としての----と感じることはできませんが、ボードレールの詩をセンセーショナルに感じなくても、ロマンチックに感じたり帝政期のアンニュイなパリ気分を満喫したりするのは読者の勝手にちがいありません。 そしてボードレールはまさに小市民のパリを、パリの模様としてでなしに、パリの気分として活写することで読者の共感を得ようとしているのですから、 時代も国も違いながら、資本主義の功罪と情報社会の幻影に生きるわたしたちがもしも感情移入できるのならば、それこそボードレールの詩の成功している証でしょう。 群衆の都市生活のなかで感じる孤独や、憂鬱の気分を大衆で分け合う空気、消費社会の暗部に生きる人物、郊外や行楽地として括弧にくくられた自然といった、 既存の芸術理念では扱われなかったそれらの視点を紙葉に固定することは、すでにわたしたちにとって驚きではないはずです。 しかし、近代に芽生えた同時代感覚と感性の共有というのは大切なことなんです。目に見えないけれども人々がつながっているという意識なのです。つまりジャーナリズムであり、真理とか永遠のうわごとでなく卑近の発見に見出される崇高であり、新しい価値観を創出する鍵となるものです。この鍵を開けたのが、ロマン派の遺産を継いだ世代ですね。 犯罪小説が生まれた背景も同じで、じつに、隣人は娼婦、隣人は殺人鬼、隣人は被害者、隣人は追跡者、隣人は逃亡者という可変的な世界をあたかも普遍的に描くことができるようになりました。 どんな偉業でも1860年頃の仕事は1860年頃の仕事で、そこに置かれている意味と合わせて真価があるのではないかなと思うんですが、後に続く仕事とどういうふうに結びついているかというのを度外視してそのポイントだけに没頭するというのは、もう習慣的にわたしには無理なんですね。こういうのを気の毒とみる向きもあるかもしれないことは甘受します。 で、やはりというか猪突さんの慧眼は核心をついていて、ジャーナリズムと犯罪ときたものです。知らないふりしていても物の見方を十分身につけているんでしょうね。 > なぜボードレールの魅力なのか――と問うてらっしゃいますが いえ全然そんなつもりはありません。人々を質問者さんとお話する気にさせられるかどうか心配じゃないのだろうか、と問うたのです。 だってここは質問をするところで談義するところではないので、人を談義に載せる技や裏技が質問者さんになければ談義しようなどとは露ほども思わない人でいっぱいのところです。 ボードレールの詩が素敵じゃないなどと言っているのではありませんから、一つ一緒にHARMONIE DU SOIRを原語で読みましょう。つづく。

noname#130919
質問者

お礼

どうもありがとうございます。お返事が遅れがちですみません。いろいろ齟齬があったようで、申し訳なく思います。この質問欄ですが、OkWave上には他にボードレール関連の質問があり、最初にマーケッティングをして、それほど無関心でもないのだなと思ったのです。ただ長い間、回答は一つ頂いたのみで放っておかれまして、私が哲学欄で別の質問で物議をかもした後、私に関心をもった方が来訪してくださったという次第です。猪突先生もそのお一人です(漢字をあてると愛嬌があっていいですね)。 >そしてボードレールはまさに小市民のパリを、パリの模様としてでなしに、パリの気分として活写することで読者の共感を得ようとしているのですから、 おっしゃる通り、写実というより、彼の詩は「気分として」、すなわち心象風景を描いたといえると私は思います。だからこそ、それは詩なのでしょう。しかし心に象に固定するとなると、芸術家の腕が問われるわけで、ボードレールはその技巧が卓越していたなと私は思うところです。それが顕著に出るのは「白鳥」になりますが。 >しかし、近代に芽生えた同時代感覚と感性の共有というのは大切なことなんです。(……)この鍵を開けたのが、 ロマン派の遺産を継いだ世代ですね。 宗教が果たしていた共同体を形成する役割を、ロマン派の詩人らは宗教を世俗化しつつ、引き継いだのでした。バルザックなど都会を観察しジャーナリスティックな視線をもっていた作家もいます。ただし崇高な祭司として振舞い、最大の尊厳を確立したのはユゴーやヴィニーというロマン派の詩人らであるといえるでしょう(ベニシュー)。 その後に位置するボードレールらは、様々な戦略をとり、ジャーナリスティックな要素も詩にとり込みます。真の評論とは詩によってなされるべきである――とはボードレールの言葉です。だから三文記事ではないか、という猪突先生の指摘は的外れではなく、核心的なのです。実際、マラルメは自分で表題をそうつけてしまったくらいですから。文学史的に見てもマラルメを頂点に詩とジャーナリズムは接近して行くでしょう。最初はネルヴァルあたりでしょうね。ユゴーらと違い、年金がもらえなかった貧乏詩人で、ジャーナリストとして食べていくしかなかったわけです。そのお陰で、彼の散文は詩に近づくのですが。――こういった問題をどう面白がってもらえるかをこれからやり取りしたいなという希望を持ちつつ、手順を踏んで述べていこうというのがNo9の猪突先生への回答でした。 さておきボードレールらは共同体に関連して、デカダンスというまた別の問題を提起することになったと言えます。それは共感覚というべき、五感の交わりです。これは後の回答のHarmonie du soirに続く問題でしょうから、そちらで応答した方がいいように思います。 >後に続く仕事とど ういうふうに結びついているかというのを度外視してそのポイントだけに没頭するというのは、もう習慣的にわたしには無理なんですね。 私も同じ問題に悩みますが、これはおそらく後続を誰にとるかでしょう。ボードレールに関して言えば、ボヌフォワあたりにとれば、まだ抒情的な問題は生き残ると思います。メショニックにとると、モデルニテに関するまた別の様子が見えてきます。そして現代思想において評論の言説は詩に近似して行く傾向にあるのですから、後継は誰にでもおけると考えます。ただ最終的には、誰のどの作品が最大の画期点だと思えるか、ということだと思います。これは難しい問題ですね。十九世紀人の目線に同化してみることも必要なら、現代から見て何が、という二つの視点を含んでいないとなりませんから。 引用はもしよかったら電子コーパスをお使いください。猪突先生へのお礼欄に書いておいたのですが、下の方にもういってしまっていました。 ・『悪の華』第二版 http://baudelaire.litteratura.com/les_fleurs_du_mal.php ・『パリの憂鬱』http://baudelaire.litteratura.com/le_spleen_de_paris.php ・評論一覧 http://baudelaire.litteratura.com/?rub=oeuvre&srub=cri

回答No.11

こんばんは、iacta-alea-estさん。 お返事いただいたようで、ども。 [No4この回答へのお礼]へのお返事あと2日ほど時間下さい。 ******************************************************************************** cyototuのおっちゃん、鼻息荒いって!! なんですか? ダイスって? かけつけ三杯??? それとも、カケをツケにしたら三倍返しってか? 暴利な…話や 「あこぎな奴よのおー」 いや、それはさておき \(゜ロ\)(/ロ゜)/ その鼻息の荒さはまるで “オレー”やね なにも赤いマントひるがえしたわけでもないのに…<パーマン? 目から鱗???目玉が飛び出す…グロ それは「眼球譚」ドゥビドゥバー (パパパヤー) 海の話 あれは何年前(喝采)やったかなー 【QNo. 5159690 16世紀のヨーロッパ人】 http://okwave.jp/qa/q5159690.html 闘牛とくればスペインとおもうかもしれんど… フランスでも闘牛が行われてるんやってね、19世紀半頃より スペインーフランスーイギリス メアリー1世 (イングランド女王) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC1%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A5%B3%E7%8E%8B) 1+1=2 ******************************************************************************** 「酒と泪(なみだ)と男と女」 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/saketona.html

noname#130919
質問者

お礼

コメントどうもありがとうございます。お優しいですね。サイコロですが、私が呼ばれるケースを想定せず愚かにも「賽は投げられた」というカエサルの言葉をラテン語でそのままハンドルネームにしたので、ダイスにちなんだ愛称で読んでくださる方がいるのです。ご自由に呼んでください。 物理学のcyototu先生ですが、面白いなと思います。タブー無しでお話しなさっているので。実は私も「人と海」を課題で読んだ際に、「海は広いな大きいな」と何が違うんですか?――と発言したことがあります(本当の話)。 周囲を唖然とさせてしまいました。続けてラ・ロシュフコーの金言の方がナルシシズムの考察に関する要点をまとめているではないか、とも。先生方は「ラ・ロシュフコーを読んだとはえらいぞ。ボードレールもたぶん読んだはずで、その影響関係は――云々」などとフォローを入れてくれましたが、フォローを振り切って、ボードレルつまらない説を力説しました。結局、議論は、もっとも凶暴な牛だった私が勝ちました。ボードレールはつまらぬ、これを中心に文学史を形成するなど疑問である、などと放言したものです。暴れたら手がつけられないのは私の方でした(ちなみにcyototuさんのハンドルネームは「猪突猛進」からで、イノシシでしょうね)。 その後、私も変わりました。今の私はなるほどボードレールが好きです。しかし私がOkwaveでこういう質問をしたのは、私がどこかでボードレールの魅力とは何であろうか、と不断に問わずにはいられないからです。そして私の無神経を弁解すると、これは研究史的にも問題ではあると思います。出口裕弘、阿部良雄、横張誠らボードレーリアンらが雑誌「ユリイカ」で対談した際、「ボードレールの魅力」というテーマを阿部が掲げたら、「いや、私はランボーの方がいい」とか「つまんない」「人間はいい奴だよね」という話が出ておりました。美術評論の方が面白いからそっちを読もう、とも。笑い転げたと同時に安心し、最後に寂しさも感じたものです。 というのもそれでは、フランス人がいいといっていているから、お義理でお付き合いしているだけだ――とならないでしょうか。フランス人にしてみれば、ボードレールはどうしようもなく面白いのです。そして日本人は近代美術批評の最大の功労者の作品がわからないのに、文学と美術の議論の大半をフランスから借りて輸入しているというのは、猿真似をしてるようなもので悔しいじゃないかと思えたのです(とはいえ、上の三人は別で大いにボードレールの魅力を語っているので、対談は照れていただけかもしれません。ただ少なくても昔の私がどう感じたかという説明のために、この例を引いたのです)。 cyototuさんとのお話は、最後に生産的になるかどうかはわかりません。ボードレールは「モデルニテ、現代性」の理論を表明したように、モダンアートの始祖というべき芸術家です。モダンアートに関する議論をしないと、同意し難いでしょう。そしてそれは中々広範な問題ですし、私ごときには手に余るかもしれません。ただし論理的に説明すれば、ある範囲までは同意してもらえるでしょうし、cyototuさんにとっても新しい視界が広がるはずだという自信をもっています。cyototuさんは教育的配慮でお話ししてくださっていることを思うと失礼かもしれないなと思いますが、私には別の視野が見えてもいるのです。 というわけで、cyototuさんのことは気になさらず、どうぞ、littlekissさんの思う魅力を存分に語ってください。私、実はかなり楽しんでおります。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.10

質問者さんの文体は玉石混淆なので、それを選り分けるのにエネルギーを使わなくてはならず、人を説得するには大変だなと思いました。だから感想を述べるのも大変です。 「人と海」と「海は広いな」の違いに対する#4での質問者さんの解説は「風が吹けば桶屋が儲かる」の好例だとの印象を受けました。貴方の言う詩とは、こんなに色々な理屈をつけなくては理解できない物なのでしょうか。それとも、このような裏の裏の裏を読むような訓練を受けなくては、詩とは理解できない物なのでしょうか。もしそうだと言うならば、私が如何に訓練不足な者か解って来たような気がします。 物理学の落とし穴に次のようなものがあります。始めに何かもっともらしい見方に気が付く。そこで、それをもっと掘り下げてみる。もしその見方が的を射ているものならば、先に進めば進むほど話しが透明になり、多くの理屈を費やさなくても理解できるようになって来ます。ところが、始めの見方が本質を突いていない場合には、掘り下げてみるとどこかに矛盾が出てくる。しかし、ここに恐ろしい落とし穴があるのです。前よりももっと複雑な論理を持ち込むと、どんな矛盾でもそれを一様説明できてしまうのです。ところがその見方が元々見当違いだった場合に、その無矛盾の解決後に、またどこかにおかしな事が出てくる。そうすると、前よりもっと複雑に論じることによって、その矛盾も解決できる。前よりも複雑になったのですから、その矛盾をその複雑さで解決した者は、自分の頭の良さに恍惚とできる。ところが、その解決後にまたどこかに矛盾が出てくる。またそれを前よりも複雑で巧妙な論理展開で解決でき、増々、恍惚とできる。桶屋の話しにドンドン尾ひれがついて行く。人々は、そんなことで簡単に一生を恍惚と過ごせてしまうのです。だから危ない。 如何に自分を説得できる理屈を見付けたとしても、それが本質を突いていないことが幾らでもある。だから、本質を見付け出すためには自分が納得できると言うだけでは駄目なのです。時間と共に、話しがドンドン複雑になって来るものは、先ず間違っていると考えないと、時間を無駄に使ってしまいます。私が、まだまだ興味のある結果が出て来る計算をした時に、私の先生から次のようなことを言われたことがあります。 「入り口を見付けることは誰にでも出来るが、出口を見付けることは誰にでも出来ることではない。だから、今やっている計算はもう止めなさい。この問題に対する本質的なことで今の段階で得られた知識以上のことは、その論理展開ではもう出て来ない。我々には解らねばならないもっと大切な問題が幾らでも残されているの。だから今はそこで止めて置いて、残された他の問題に取りかかりなさい」 私はその時、目から鱗が落ちた経験をしました。 良い理論の創出の過程では、始めのうちは裏の裏の裏を読まなくてはいけないような論理の飛躍があちこちにあるものです。しかし、的を射た理論なら、話が煮詰まって来ると、段々凝縮された言葉で本質を透明に表現できるようになって来る、というのがどうやら人類の手に入れて来た経験則のようです。だから、裏の裏の裏を読まなくてはならない状態とは、そのことを理解する上での入り口の段階です。決して修練をした後にやっと解って来るような段階では在りません。もちろん、創造の営みには神懸かっていきなり本質に到達する能力が必要です。しかし、だからと言って、その曖昧な結論をいつまでも曖昧なままで、やたらに理屈を駆使しなくては理解不可能なことだったら、それは、見当違いの神懸かりだったことになります。味読するためには修練が必要なのかも知れませんが、それが、私の言う落とし穴でないと言うことを、質問者さん自身はどう納得するのでしょうか。 「アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者がむずかしさをよそおったのは、空虚な事柄に箔をつけて、われわれの精神にうつろな、肉のない骨を与えてしゃぶらせ、好奇心を満足させるためでなくて何であろうか。クレイトマコスは、カルネアデスの著書から彼がいかなる意見をいだいていたかを全然知ることができなかった。エピクロスが著書の中に平易を避け、ヘラクレイトスがスコテイノスとあだ名されたのは何故だろうか。難解さは、学者が手品師のように自分の技倆のむなしいことを見せまいとしている貨幣であり、愚かな人間どもはこれで簡単に支払いを受けたつもりになる。  彼はあいまいな言葉のために、むしろ愚かな者の間に有名である。なぜなら、愚かな者は難解な言葉の下に隠された意味を見つけて感嘆し、これを喜ぶからだ。」 モンテーニュの言葉です。質問者さんの解説では、「人と海」の詩がこのモンテーニュの批判とは違うものだと私に納得させてくれるような説得力のあものだと、私は感じることが出来ませんでした。

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    私は現在28歳で理学療法士としての道を歩んでいます。 しかし、以前から(18歳くらいから)音楽や文学、芸術関係に大変興味があり、ギターを弾き、簡単な作曲をしたり、絵やエッセイ、詩を書いています。 理学療法士として働くことも夢ですが、夜寝ていると夢で自分がギターを弾いてみんなから賞賛を受けたりしている姿が頻繁に出てきて、自分の人生何か物足りないというかやりたいことができていないのでは?と悩んでしまいます。 自分の中に芸術的な表現(言葉じゃないものや、言葉では表現しきれない何か)を発散したい欲求が確実にある(そのため音楽、詩、絵など特にこだわらず行っていると思います)のですが、それはとても社会において生産性を持ちうるものだと思いません。つまり、飯が食えるミュージシャンになるだとか、詩人になるだとかは何か違う気がします。 芸術を生活の糧にしたり、それで儲けたりするのは(芸術で儲けるという発想自体がなんか矛盾してる気もするし)結局自分の純粋な芸術的欲求の発露にはならず、やりたいことではない気がするのです。それならば、理学療法士として働き、人の役に立つ方が余程合理的だと思います。 ならば、家で自己満足の為にひたすらやり続けたら良いと思い、詩などを今まで誰にも見せず、作ってきました。このまま趣味として続けて行くとは思いますが(自分の中に芸術への興味がなくなることは無いと思われるから)何か物足りない感じはやはり人からの賞賛というか第三者に認めて欲しいのかな?という感じもします。 私は一体何に物足りなさを感じているのでしょうか?またどうしたら解消すると思いますか?みなさんは 自分の人生何か物足りないなぁとか夜中にふと目が覚めて思ったりしますか?

  • QA118 三回目の質問

    QA118 三回目の質問 この質問は二回目の回答者三人の方の回答をもとに再検討したものです。 再度、問題点をご指摘いただきたいと思います。 1) Tradition puts Homer and the Homeric poems proper back in the ages before chronological history began, and at the same time assigns the purely Cyclic poems to definite authors who are dated from the first Olympiad (776 B.C.) downwards. This tradition cannot be purely arbitrary. 三回目の試し訳 伝統的には、ホメーロスと本来のホメーロス風叙事詩を 年代学的な歴史が始まる前に遡って配置し、 同時に、純粋な叙事詩環を オリンピアの初年(B.C.776)から時代を下る一定の詩人たちに 割り当てている。 この伝統が全く恣意的である筈はない。 質問 回答者から意訳が示されました。 しかし、質問者には納得できません。 文章の意味を完全に理解していないためです。 これを理解するには、可能な限り、文法に従うしかないと思います。 回答がこれを示していることもよく分かります。      それでも、疑問が生じましたので質問させて下さい。  (1)まず、叙事詩環とは、ホメーロスを含む詩人8人、8作品の事です。   伝統的に、この作家と作品が年代順に配置されていると述べている    ように思われます。この理解はどうでしょうか。  (2)and the Homeric poems properについて     このproperは限定形容詞といわれるもので、名詞の後にきます。 そのため‘本来の……‘としましたがどうでしょうか。 (3)traditionについて    二度使われています        最初のTraditionは ‘伝統的には‘        二度目のThis traditionは ’この伝統は’    このように訳してみてはどうでしょうか。 (4)assignsについて    ここは、やっぱり‘割り当てる’という意味で良いように思われます。     ‘年代順に作品を配置し、そこに詩人たちを割り当てている’としま した。     assignsは現在形ですが、‘割り当てている’ としました。     この点はどうでしょうか。       又は‘あてがう’でもよいかもしれません。 (5)before chronological history beganについて     beganは過去形です。 ‘年代学的な歴史が始まる前に’としましたがどうでしょうか。 *これらの解釈が文法的に矛盾しないかということが、質問者の一番大きな 関心であります。

  • 「ニンフェット」の登場するおすすめ作品を教えて!!

    「ニンフェット」の登場する長編小説を書きたい16歳女子です。 本来の定義の9~14歳に限らず、妖しい魅力のある少女(17歳以下)が登場する小説、詩などの文学作品、また合法で芸術的な映像作品(ミュージックビデオも含む)を教えてください。成人男性との恋愛があると尚良し。  できるだけ露出(水着とか)や性描写のないものでお願いします。ほのかなエロティシズムを感じさせる作品が好きです。  すでにナボコフの『ロリータ』『カメラ・オブ・スクーラ』、森茉莉の『甘い蜜の部屋』、谷崎潤一郎の『痴人の愛』、川端康成『みずうみ』、澁澤龍彦『少女コレクション序説』、倉橋由美子『聖少女』、吉行淳之介『砂の上の植物群』などの私なりに少女愛的かな?という書籍は読んでいます。また映画はキューブリック版の『ロリータ』を見ました。  古典好みです。

  • 好きな詩、和歌、俳句

    最近詩の魅力に改めてはまってます。 エミリ・ディキンソンのAfter a hundred years、Success is counted sweetest ウィリアム・ギブソンのリバーズエッジに載ってたTHE BELOVED, ホイットマンのI celebrate myself, and sing myself 大岡信 水底吹笛 茨木のり子さん 汲む などなど。パウル・ツェラン、e.e.カミングスなども大好きです。 歌人では、北原白秋の 君かえす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ を、久方ぶりに目にして、巧いなあと思ったところです。 言葉遊びが面白いもの、一瞬にして違う次元に連れていってくれるもの、自分を深く見直すきっかけを与えてくれるもの、視覚や聴覚、嗅覚が刺激されるもの、胸に刺さるもの、などが特に好きみたいです。 もっと色々読みたいので、お薦めの詩人、歌人、俳人とできれば一番お気に入りの作品を教えて下さい。

  • ボードレールについての文です

    ドイツの評論家 Walter Benjamin がボードレールについて、次のようなことを言ってるのですが、どのように訳したらよろしいでしょうか。 Baudelaire knew how things really stood for the lierary man: As flaneur , he goes to the marketplace, supposedly to take a look at it, but already in reality to find a buyer.