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詳しいことが分からないのですが、祖父が、1944年7月25日にグアムで
詳しいことが分からないのですが、祖父が、1944年7月25日にグアムで戦死しています。 ネットで調べると、独立混成第48旅団が玉砕しているので、この部隊と関係ありそうです。 墓には、「陸軍軍属」とあり、出身地は徳島県です。何でも、御存じのことを教えて下さい。
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こんにちは、再度の補足ありがとうございます。 > 基本的なことかも知れませんが、何分、素人なのでご容赦を いえいえ、お気になさらないで下さい。こちらこそいろいろと プライベートな事まで公表させてしまったようで、ちょっと 申し訳なく思っております。<(_ _)> > もし、徴兵されたのならば「軍人」であって「軍属」ではない > のですね?。 はい一般的にはそうなりますね。 またご質問者様自ら関係各所にお問い合わせになって、その結果 「軍属」という回答をそこから得ていらっしゃいますので、御祖 父様は軍属として軍務に就き、お亡くなりになられた事は、ほぼ 間違いないと思います。 また > 父の話では、祖父は100キロ近い巨漢で、村一番の力持ちだった > そうです。車の運転手をしていたそうです という事は当時では貴重な特殊技能(自動車の運転)の持ち主だっ たと思われますので、それが軍属として徴用された要因のひとつで あったと推測いたします。 > ある期間は、多度津に居たと考えて良いのでしょう。また、いざ > 出征という時も、祖母が行かない、と言って、見送りには行かな > かったそうです。軍属でも、駐屯地で一定期間、何か訓練なり、 > 作業することはあるのですね。 胸が痛くなるようなエピソードですね。 軍属として徴用され、運良く内地(原駐地)で働くことが出来たの にもかかわらず、部隊(歩43連 第3大隊)が南方への転地となって しまったが故に、一緒に赴くことになってしまったとは・・・。 運命とは残酷ですね。 > (1)軍属でも、戦死者は靖国に祭られるのでしょうか? はい、"戦死(公務死)"の場合は、ご本人(生前に)あるいはご遺族 から (合祀拒否の)ご要望が無い限りにおいては、一般の軍人さん と同じく祭られます。 > (2)祖母は、母子家庭になってから、遺族への恩給?みたいなもの > をもらっていたようですが、軍属でも、戦死すれば支給されるので > しょうか? はい、その要件(軍歴証明 等)を満たせば、各種の恩給がご本人ない しはご遺族に支払われます(↓を、参照ください) http://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/seido03/index.html > 軍属は「軍属になりたい」と志願するのですか?。軍から「軍属に > なれ」と誘われるのですか?。 両方の場合があったようです。ただ、戦況が逼迫してきた昭和19年 後半以後は"後者の場合"が多かったようですね。 > 1943・1944年ころまで30歳すぎても徴兵されなかったのですかね? いえ、例え現役兵士として軍務に就いたことはなくとも「徴兵経験」は あると思います。 ※ かつての徴兵制度をかるくおさらいしますが・・・ 昭和2年に制定された"兵役法"によって、日本国民男子は一定年齢に達 すると(昭和17年までは 満20歳)"兵役に服する"と、定められており ました(同法 1条)。 とは言え、20歳になったら、だれもが現役の兵士になれるワケでは もち ろん無く、(軍人、兵士としての)ある一定の基準に達しているかどう か?を判断せねばならず、そのために行われたのが"徴兵検査"でした。 よく言う"甲種、乙種"などは、その検査結果に基づく判定(つまり軍が その人に付けた一種の"ランク")で、即座に現役入隊(入営)となるの は、原則"甲種合格者"と"乙一種"のうちの一部(特に志願した者、抽選 で選ばれた者)の二者であり、資料によれば、昭和12年時点の徴集率 (全検査対象者のうち現役兵として合格した人の割合)は約25%という 様に、4人に1人しか現役合格しなかったことになります。 じゃあ 残りの人(4人のうち3人)は不合格(お役ご免)なのか? と言 うと、そうでは無く、第一補充兵役、第二補充兵役というような、予備 兵力の一種として名簿に登録され、「現役兵(常備兵役と予備兵役の両方 を含む)に不足が生じた場合の補充要員」として、普段は一般の仕事に 従事し、いざという時のみ兵士となる、という形式で"兵役に服した(?)" のです。 (余談ですが、その"イザ"という時に、補充兵や予備役に"動員"をかけ るのが"召集令状"、つまり"赤紙"です。また日赤看護婦が従軍看護婦と して、つまり軍属として、徴用される時"赤紙"による通知だったので、 驚いた、という事例もあったようです。) さて、御祖父様の場合は、どちらのケースだったのか?までは判りま せんが、現役の兵士経験があっても、補充兵役であっても、「徴兵」 という関門をくぐってこられたことは間違いないと思います。
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- mk57pvls
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こんにちは "補足"拝読させて頂きました。 > ・・・場所は「多度津」と覚えており、多度津は善通寺市のよう > ですから、 おぉ、善通寺の隣町ですね。 ちなみに 善通寺の旧陸軍11師団本部跡は、現在 陸自の善通寺駐屯 地になっていて、第14旅団が駐屯しています。 確か 昔の(旧軍当時の)建物も、まだいっぱい残っていたように 思います。 > あと、軍属とは、どういう意味なのでしょうか?。 軍属とは簡単に申せば、民間から出向ないしは徴用され、軍人には ならないものの、同じように軍隊に所属しながら専門の分野で軍務 を支援する仕事をしていた人々、となります。 もちろん給与は軍から支払われます。 具体的な職種で言えば、医師、看護師(看護婦)などの医療従事者、 通訳、翻訳、などの語学(他国語)の専門家、鉄道や船舶の運航に 携わる者、通信、機械、土木、建築・建設、測量などの専門技術者 などですね。 よくある例が、輸送船や漁船を"一隻丸ごと"物資輸送等のために 徴用し、その結果乗組員も全員徴用されてしまい(苦笑、軍属と なって働く、というケースです。 しかし・・・ > 昭和18年に赤紙が来て徴兵された、 と言うことは、あきらかに軍隊に召集されていた、事になりますね。 また18年当時は、師団本隊は大陸にいたハズですので、後備部隊が "大陸に送る補充兵"要員として召集したとも考えられます。 もしも御祖父様が令状に応召された(召集に応じた)ならば、ほぼ 確実に"厚労省にその記録が残っているはず"ですから、そちらの線 からも事実の確認が可能かと思います。 一方、応召の事実が確認出来なかった場合、あるいは、軍人では無く 軍属としての記録が残っていた場合には、先の召集令状が届く"直前" に、"あえて軍属として志願した"事も考えられます。 そうそう例は多くは無いのですが、家族や家の事情などで、どうして も軍に召集されたく無い場合(少しでも最前線に送られる可能性を低 くしたい等の意図で)召集前に思い切って軍属に志願してしまう、と いう人たちもいたようです。 とは言うものの、軍属として採用されるかどうか、また、採用された としても比較的安全な内地等で働けるか? は、時の運ですから、まさ に"人生の賭け"だったと思います。 もしも御祖父様がそのような選択をされていた場合は、11師/歩43連 の後備部隊(善通寺)でしばらく働いた後に、第6派遣隊の編成に合わ せてマリアナ諸島に転地されていったのでは? と思います。 こちらの場合でも厚労省、ないしは旧11師団、あるいは歩43連、の 戦友会、遺族会など、どこかに名簿や記録が残っていると思います。 そうやって調べていけば、御祖父様の南方転地後のご様子などは、ある 程度は解るのではないでしょうか。 ただ、軍人として、軍属として、いずれの立場であっても 御祖父様は 遠いグァムの地で、お国のために亡くなられた事には変わりはないです ね。 このような質問に回答をする際に、様々な資料、戦史、書籍を読み返し てみるのですが、その度に御祖父様のような尊い犠牲の上に今の私たち の生活があるんだな、ということを、あらためて気づかせてもらって います。
軍属とは何かは、No.1さんのご説明に書かれていると思うのですが・・・ 軍人ではないが軍に重用された民間人です。技術者など。 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4SUNC_jaJP392JP392&q=%e8%bb%8d%e5%b1%9e
- mk57pvls
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こんにちは 独立混成第48旅団は昭和19年5月にグァム島で急遽編成された、歩兵 旅団ですね。 昭和19年2月に中部太平洋マーシャル諸島(クェゼリン 等)での玉砕、 トラック島大空襲、などの米軍の一連の侵攻を受けた大本営は、絶対 国防圏のマリアナ諸島(グァム、サイパン 等)の防備を強化するため 同年3月に第6派遣隊を臨時に編成し、それらの島々に配置することに なりました。 同派遣隊は、満州等に配備されていた師団から数個部隊を引き抜いて 編成された臨時の部隊で、そのうちのひとつが善通寺に連隊本部を 置いていた歩兵第43連隊<錦2435>でした。(正確には 歩兵第43連隊 第3大隊 古川義正大尉以下617名) 同年3月20日グァムに着いた 同大隊は作戦準備及び陣地構築に着手し 5月25日に部隊名が独立歩兵第321大隊(通称 2大隊)となり、同日 に編成された独立混成第48旅団の隷下に入っています。 さて、同年7月21日、サイパンに続き米軍のグァム侵攻作戦が開始され たのですが、米側の主力部隊である3MD(海兵第3師団)の上陸正面を 守備していたのが まさにこの48旅団の各部隊でした。 米軍の攻撃は熾烈を極め、初日の21日には1大隊が全滅し、その後を 担った2大隊も翌日の攻撃で、わずか50名程度を残すだけの壊滅的な 被害を受けたとのことでした。 他の残存部隊の兵士を集め、23,24日と、なんとかしのいだものの、 25日には、弾薬も尽き果て、最後の総攻撃。26日は旅団本部への攻撃 で旅団長以下司令部要員のほとんどが戦死、そして28日には組織的な 戦闘はほぼ終結となりました。 以上が48旅団、および隷下にはいった43連隊 第3大隊 の主な戦歴、 部隊歴です。 御祖父様は、同連隊または原隊の上級部隊である第11師団に徴用され ていたと推測されるのですが、11師団は太平洋戦争開戦後は大陸(中国) に派遣されておりましたので、もしも大陸に(御祖父様が)行かれて いなかったなら、原駐地(善通寺)にある補充隊(後備部隊)等に いらっしゃった事も考えられます。 第11師団は有名な部隊ですので(確か 初代の師団長が乃木希典 閣下 だったような・・?)戦友会などの組織もしっかりしていると思われます。 一度その線からあたってみてはいかがでしょうか? もう少し詳しい情報 が得られるかもしれません。
補足
詳しい説明をありがとうございます。 もう一度、父に聞いてみたら、祖父は、昭和18年に赤紙が来て徴兵された、と言っていました。その場所は「多度津」と覚えており、多度津は善通寺市のようですから、mk57pvlsさまのご説明と合致します。 あと、軍属とは、どういう意味なのでしょうか?。
- eroero1919
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はて、「軍属」というのなら軍人つまり兵隊さんではなかったということなのではないでしょうか。「軍属」とは「軍に所属する軍人じゃない人」のことを指します。例えば、陣地などを作るときのための人夫として多くの朝鮮人が連れてこられたりしたのですが、こういう人たちがいわゆる軍属に相当します。 可能性は二つあります。 1.お祖父さんはなんらかの理由で軍人としてではなく軍属としてグアム島に行き、本土に帰る手段を失って戦闘に巻き込まれて亡くなった 2.本当は軍人として亡くなったのに墓石を彫った人が学がなくて軍属と掘り込んでしまった もうちょっと、なんのためにグアムに行くことになったのか掘り下げる必要はあろうかと思いますね。軍人として出征したなら、どこの部隊に所属していたのかは記録が残っているはずです。
補足
回答ありがとうございます。 父の話では、祖父は徴兵されたようなことを言っていました。ご回答の1の可能性はないと思います。すると2の可能性が高いですかね。 本籍地と氏名をもって、徳島市役所の担当部署に問い合わせしましたが、該当する人物はいないと言われ、所属部隊などが分かりません。
補足
大変、参考になりました。父が、ほとんど自分の父親について記憶がなく、事情も分からないようなので、私は、もっと分からない状況です。 基本的なことかも知れませんが、何分、素人なのでご容赦を・・・。 もし、徴兵されたのならば「軍人」であって、「軍属」ではないのですね?。父の記憶では、父が6歳の時に徴兵された、と言っていました。しかし、希望をして軍属になっても、徴兵されて軍人になっても、子供には分からないはずで、「戦争に行った=徴兵された」と勝手に思い込んでいるだけかも知れません。祖父はしばらく多度津にいたようで、父(父は徳島出身)の記憶では、何度か会いに行こう(面会のこと?)ということが話題になったらしいですが、一度も、会いに行けず、今でも心残りだと言っています。ということは、ある期間は、多度津に居たと考えて良いのでしょう。また、いざ出征という時も、祖母が行かない、と言って、見送りには行かなかったそうです。 軍属でも、駐屯地で一定期間、何か訓練なり、作業することはあるのですね。 最初、靖国神社に電話し、命日と氏名と出身地、陸軍だったこと伝えると、246万柱の1柱として、祖父が祭られていることが分かりました、その時に、お祖父様は「軍属」ですね、と言われました。そして、今夏、20年ぶりに父の故郷に行きましたが、墓には「陸軍軍属」とありました。 下らない質問(1) 軍属でも、戦死者は靖国に祭られるのでしょうか?。 下らない質問(2) 祖母は、母子家庭になってから、遺族への恩給?みたいなものをもらっていたようですが、軍属でも、戦死すれば支給されるのでしょうか?。 やはり、軍属なのでしょうね。軍属は「軍属になりたい」と志願するのですか?。軍から「軍属になれ」と誘われるのですか?。 厚生労働省に電話して、「軍歴証明書」について質問したら、陸軍は本籍地に聞いてくれと言われ、徳島県庁だったか、市役所だったかの「地域福祉課」の電話番号を教えてくれました。生年月日と氏名と本籍地と思われる地名を言ったのですが、何故か、ヒットしませんでした。こちらのルートは、一旦、絶たれました。 父の話では、祖父は100キロ近い巨漢で、村一番の力持ちだったそうです。車の運転手をしていたそうです。昭和19年に戦死した時が36歳だったようですが、逆に、1943・1944年ころまで30歳すぎても徴兵されなかったのですかね?。 示唆いただいたルートでも探してみます。質問ばかりでスミマセン。