• ベストアンサー

沖縄戦で散った祖父 独立工兵第66大隊とは?

はじめて質問させて頂きます。 私の祖父は、沖縄戦にて戦死したと小さい頃に聞いてきました。戦死した祖父の弟が後を継いでいた為、家庭内では詳しく聞いたことはありませんでした。 判っている情報は、 ・戦没地 沖縄本島摩文仁 ・昭和20年6月18日 ・独立工兵第66大隊 ・陸軍伍長 祖父の写真すら残っておらず、スケッチでしか顔を見たことがありません。どのような役割?たどった経緯は?戦没月日は正確なの?などどんな些細なことでも調べて子孫に伝えて生きたいと考えています。 ご存知の方教えて下さい。何卒宜しくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

6月18日の摩文仁というと「ひめゆり部隊」が全滅した日時であり場所でもあります。 恐らく、ひめゆり部隊とともに、沖縄本島南端である摩文仁付近に追い詰められ孤立し全滅されたのではないかと思われます。 ひめゆり部隊関連の書籍であれば簡単に手に入ると思われますので、お読みいただければお爺様がどのような最後だったかは雰囲気がつかめると思われます。 また独立工兵第66大隊の詳細情報を知りたいのであれば、公刊戦史である「戦史叢書(せんしそうしょ)」(編:防衛研修所戦史室)で調べればある程度はわかると思います。大き目の図書館であればほぼ全巻そろえてあると思います。100巻を超える大書ですが、書士に相談すれば見繕ってくれるでしょう。 もっと詳細を知りたいのであれば、当該部隊の戦友会が発刊している部隊戦史を探すのも手ですが、恐らく戦友会はすでに解散しているでしょうし、部隊戦史もあるかどうかは判りません。防衛省防衛研究所 史料閲覧室ではかなりの部隊戦史を集めていますので一度問い合わせてみてはいかがでしょうか。 http://www.nids.go.jp/military_history/military_archives/index.html

softBhawks
質問者

お礼

お礼が遅くなりすいません。 回答頂きありがとうございます。 さっそく「戦史叢書(11) 沖縄方面陸軍作戦」を総合図書館で借りてきました。 当方福岡県在住につき、防衛省防衛研究所史料閲覧室まで容易には足を運べませんので、この書籍をきっかけに知識を広げたいと思います。 家族から聞くところによると、満州にも行ったような話しを聞いたとの新たなキーワードがでましたが、こちらは全く手がかりがありません。無事帰ってきているので軌跡を追う必要はありませんが、沖縄での隊と関係があるのかは気になるところです。

その他の回答 (1)

noname#210617
noname#210617
回答No.1

もう、ご自身でお調べになったことと思いますが、独立工兵第66大隊で検索をかけると、 第32軍の直属部隊であった http://suwiun.hp.infoseek.co.jp/newpage71.html 軍-師団または連隊-大隊 ではなく軍の直下にあった。 昭和19.9.16~28に京都で編成された。 http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/sanjunigunsyuyoubutai.html 県立第一中学校の生徒も第66独立工兵大隊に配属になった。 http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/324.html 6月18日には、第32軍の牛島司令官が第十方面軍司令部へ訣別電を打つ。 http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/okinawasennokeika/okinawasen.html この時点で第32軍は組織として壊滅していたのではないかと思います。 戦車への肉薄攻撃(爆薬を持って戦車に近づき、戦車にとりつけてしまう)は、工兵の作戦であるようですので、これをしておられたかもしれません。これは自爆的な攻撃ではありませんが、戦車に随伴する歩兵からは攻撃を受けやすかったでしょう。

softBhawks
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございます。 書かれている内容については当方でも検索かけてヒットしました。 第32軍は壊滅的であったとかかれているように記録も少ないのかなと感じています。 もう少し情報集めしてみます。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 独立山砲兵20大隊について

    私の祖父が独立山砲兵20大隊(陸軍)で昭和16年12月に中華民国で戦死しています。少しでも祖父のことが知りたくて県庁に問い合わせしてみましたが終戦時に書類を軍が焼却している為詳しいことが分かりません。独立山砲兵20大隊のことや昭和16年当時の中華民国の日本軍の状況などご存知の方ご教示ください。

  • ルソン島での日本陸軍第105師団工兵隊について

    昔、祖母から祖父がフィリピンのルソン島にて戦死したと聞かされていましたが、思い立って「兵籍簿」と「留守名簿」を調べましたら、第105師団工兵隊(勤10608部隊)にて昭和20年2月マニラで戦死と記録がありました。ただ、兵籍簿には 昭和18年12月に工兵第53連隊補充隊に応召(京都市内) 昭和19年3月に召集解除 のみの記録にて、祖母の話しでは昭和19年の5月頃に京都市内で再召集されたと言ってました。 ネットや書籍から当時マニラを防衛したのは主に海軍部隊だったみたいですが、 一部陸軍部隊もいたそうですのでそこに第105師団の工兵隊がいたのかなと思っています。 府庁や厚生労働省の担当の方との話の中で、記録があっただけましかと思いましたが、再召集されてからマニラで戦死するまで、昭和19年の京都市内の召集部隊や第105師団工兵隊関連の記録や資料をご存知の方がいらっしゃいましたらよろしくお願い致します。

  • 祖父の戦没地

    こちらのカテゴリーでよいよかわかりませんが、質問いたします。 祖父は沖縄で戦死したのですが、どの場所で亡くなったのかがわかりません。 市でもらっている資料によると、渡嘉敷島なのだそうですが、渡嘉敷島の慰霊塔や資料館の戦没者名簿には名前がありませんでした。 ネットやこちらで検索していたのですが中々わからず、6月下旬にまた沖縄へ行くので、何かいい方法を知っている方がいらっしゃったら、おしえていただきたいと思います。 次回は、祖父が渡嘉敷島に行く前にいた阿嘉島の慰霊塔へ行くのと、沖縄の図書館や県庁などへも行って調べてくる予定でいます。 母の為にも祖父の為にも是非探したいと思いますので、お知恵をお貸し下さい。 宜しくお願いいたします。

  • 85歳の祖父と沖縄旅行

    3月8日に85歳の祖父+大人6人+1歳の子ども1人=計8人で 沖縄本島へ2泊3日旅行に行きます。(レンタカー有) 初日の到着日は16時なので直接ホテルへ向かい、ついでに夕日が 見れればいいかな~と思っています。 初日の食事は、ホテル近く(かりゆしビーチリゾートオーシャンスパ)で考えています。 以前、海物語という居酒屋へ行きましたが大変混み合っていたので 今回は違うところでいいお店はありませんでしょうか。 また、祖父は民謡ライブが好きそうなので、ぜひ見せてあげたいと思います。 お食事が美味しくて民謡ライブがあるお店があれば教えて下さい。 また、祖父の誕生日のお祝いもしたいので初日の夜か2日目に予定を している国際通り周辺でデザート(ケーキ)も食べれるお店があれば教えて頂ければ助かります。 ちなみに1歳の子どももいるので、座敷があるお店なら幸いです。

  • 自分の祖父の兄、つまり、大叔父に関することです。

    自分の祖父の兄、つまり、大叔父に関することです。 大叔父は日本陸軍の兵隊でしたが、太平洋戦争の、ガダルカナル島の戦いで戦死しました。その戦死場所についてですが、 戸籍簿には、「ガダルカナル島勇川(ゆうがわ)右岸高地で戦死」とあります。 しかし、墓石には、「ガダルカナル島タイボ岬で戦死」 とあります。 どちらが正しいのでしょうか? 家族は全く分からないようです。 ちなみに、大叔父は宮城県出身、仙台第二師団所属で、戦死日は1942年11月30日です。兵科は分かりません。 推測でも構わないので、回答宜しくお願いします。

  • 【ハワイ海戦】にて戦死した祖父の実弟について詳しく知りたい(調べたい)

    初めて質問します。 【ハワイ海戦】にて戦死した祖父の実弟について詳しく知りたい(調べたい)のですが、 一体どうすればいいのか、まったくわかりません。 判っていることは  昭和17年2月28日 ハワイ海戦にて戦死  故 海軍三等機関兵曹 勲八号 功七級   これは、墓碑に書いてある文言です。 後は、  昭和17年(戦死時)に21歳であった  舞鶴(敦賀?日本海側の)基地(?)所属だった  イ号潜水艦に乗っていた 墓碑の戦死日は、おそらく戦死の報が届いた日付です。 祖父も89歳です。元気なうちに、実弟の 【実際の没年月日】や【具体的な没地】など、 少しでも判ることがあれば、教えてあげたい(知りたがっていますし・・・)。 と思っています。 何か、調べる方法等でもかまいません。 よろしくお願いいたします。

  •  戦死した祖父が写った写真を探しています。祖父は沖縄県座間味村の出身で

     戦死した祖父が写った写真を探しています。祖父は沖縄県座間味村の出身で、鰹漁船の船頭をしていて、当時そのまま徴兵されペリリュー島で戦死したと母からは聞いています。母がほんとに幼い頃に戦争へ行ったので、母は実の父親の顔も記憶にないそうです。ペリリュー島は激戦地で生還した人たちはごくわずかだったみたいです。その為、遺骨などももちろんありません。。親戚のおばあさん(かなり高齢です)の話しでは、特攻隊(飛行)で死んだ。と言っています。鰹漁船の船頭が戦闘機などを操縦したりするでしょうか?このおばあさんの情報はかなり信憑性が薄いです。このような環境に置かれているのは母だけではなく、悲惨な戦争に巻き込まれた県民、国民、世界中いたる所にいると思います。  自分は、母に祖父の生前の写真をどうしても見せたくて、色々調べたり問い合わせをしています。数少ないペリリューからの帰還者にもお電話でご質問させて頂きましたが、何も存じていないとの事でした。65年も前の事ですから、当然ですよね。。座間味村出身の方も、当時、村は激戦地で、戦争で役場、学校とも全て焼けたとおっしゃってました。。ペリリューでの戦死者を祀った茨城県の護国神社からは、帰還兵の一人の情報をお教えていただきましたが、祖父の情報は存じていないとの事でした。靖国神社には祖父の名前はあります。ただ、写真が見たいのです。。高齢になった村の親戚たちも写真を持っている方はいません。。戦前、島にはカメラを持った人などいなかったでしょうし、写真を撮るのは学校での記念か、出兵前に撮影するかだと思います。しかし出兵前などは、慌ただしく、徴兵され、すぐに戦地へ、という感じだったでしょうから、出兵前の写真というのは希望がうすいです。そこで学校で撮られた物が存在しているのであれば、拝見したいです。。学校や役場は焼けましたが、その前に島から持ち出された、または本島や県外に持ち出されて、保管されている施設などあるのでしょうか、全国のアルバム等を保管、所蔵している施設や、座間味村のアルバムに関して、手がかりがなどあれば教えていただきたいです。。  祖父は「宮里精栄」大正9年、3月20日生、県に残っている記録では、昭和19年7月南洋群パラオ島にて歩兵第二連隊に応召。「1等兵」とも「上等兵」とも記載があります。昭和19年12月31日、南洋群ペリリュー島において戦死する。25才。と記録が残っています。

  • 詳しいことが分からないのですが、祖父が、1944年7月25日にグアムで

    詳しいことが分からないのですが、祖父が、1944年7月25日にグアムで戦死しています。  ネットで調べると、独立混成第48旅団が玉砕しているので、この部隊と関係ありそうです。  墓には、「陸軍軍属」とあり、出身地は徳島県です。何でも、御存じのことを教えて下さい。

  • 戦死者名簿は閲覧できるか。

    祖父の兄の事について調べています。 過去帳をみると、昭和12年7月21日・45歳に亡くなったと書いてありました。 父はその人は戦死したと噂で聞いたといっていましたし、なんとなくその年代、死亡の歳からして戦死であろうと思っています。 厚労省、沖縄の平和の礎、靖国神社のどれかで戦死者の閲覧ができますでしょうか。 ちなみに、その祖父が亡くなった後、弟である祖父が当家を相続しております。 戸籍謄本を提示すれば閲覧も可能かと思います。

  • 初めての沖縄旅行

    こんにちは. 8月に長期休みがあるので、沖縄(場所は本島、離島でも.ですが沖縄初めてなので本島ですかね)に一人で旅行に行こうかと考えています. 期間は6泊7日(8月17~23日)で予定しています. 初めての沖縄旅行なので、お勧めスポットを効率良く回れるプラン、スケジュールがあれば教えていただきたいです. 宿泊先はまだ予約していません. 宜しく願いします.